第8話 鏡の中の幽霊
「なぁ、イーア」
チルが名前を呼ぶと、ようやく彼がこちらに顔を向けた。
「大丈夫か? 無理してないか?」
イーアは黙ってチルを見ている。チルはちょっと気まずくなり、視線を落とした。
「なんか、新年からいろいろあったろ? 疲れてんのかなーって」
「ああ……平気だ。心配かけてすまない」
「そんなことない。って言うか、役に立たなくてごめん」
何が出来るかわからないけど、チルが出来ることががあるなら手伝いたい。でもイーアはもうチルを頼ったりしない。それがちょっとだけ、寂しい。
だがイーアはふんわりと笑う。
「じゅうぶん助かってるよ。そんなこと言わなくていい」
「でも……」
「チルはここに居てくれたほうがいい。……ここは女神の力が及ばない場所だから」
ふと、イーアの口調が硬くなり、チルは顔を上げる。イーアの紫色の瞳はチルをまっすぐに見ていた。
「……女神?」
思わずチルが鸚鵡返しした時。
「いいですね〜。今の若者は、幸せそうで〜」
今にも掠れて消えてしまいそうな、震える男の声だった。それが突然、二人の会話に混ざりこむ。
「私が生きてた頃は、男同士でいちゃつくなど出来なかったのに〜ああ、うらやましい〜」
ぎょっとしてチルが鏡を見ると、鏡の前に男がいる。男は向こう側が見えるほど透けているし、服装もひどく時代遅れだ。今の時代では滅多に見ないような、引き摺るほど長いローブの上にナイトガウンを羽織っている。
淡いクリームイエローの髪は恐ろしく長く、緩やかに波打ちながら足もとまで伸びている。面長な顔に鷲鼻、長い髪に隠れて目はよく見えない。だが、その特徴がランから聞いた幽霊そのものだったので、チルは思わず叫んだ。
「今昼だし! いちゃついてないし! なんで幽霊が昼間に出てるんだよ!」
ほぼ混乱状態のチルの前にイーアが立ち、自然、彼に庇われる様になった。
「おやぁ〜強い思慕を感じたのですが〜、気のせいでしょうか〜」
幽霊がそう言いながら、二人を見る。光のない漆黒の瞳がこちらに向いて、チルは身震いした。まるで枯れた深い井戸のよう、何の生気もない暗闇のような瞳だった。
「思慕? あなたは人の心が読めるのか? カーナリーエの鏡の幽霊よ」
警戒心を強く滲ませるイーアの声を聞いているうちに、チルの気持ちも少し落ち着いてきた。
「読めるわけではありません〜。強いて言うなら、あまりの強い思慕と魔力に引き寄せられてしまったというだけで〜……」
幽霊の男は病人のような痩けた顔で二人をまじまじと見る。
「はて、気のせいでしたでしょうか〜」
(思慕って……!)
チルは必死に堪えながらも、叫び出したい気持ちでいっぱいだ。
(まさか、俺の……!?)
先程の幽霊との遭遇より、一気に心臓の鼓動が速くなり、ばくばくとうるさい。痛いくらいの胸を抑えながら、チルはイーアの後ろ姿を見る。彼がこっちを向いていなくてよかった。絶対に今の自分の顔は真っ赤になっている。
「それについては、うん。もういい。
それより、幽霊のあなたがこの……まだ太陽の高い時間に姿を現したのは? 幽霊って昼夜関係ないのか?」
(あ、よかった)
イーアはそれ以上追求しないらしい。チルは正直、ほっとした。
「あ〜、そうなのです。珍しく出れるなぁと思ったのですがぁ」
幽霊がキョロキョロと周りを見渡した。
「何か〜、大切な事を聞いて、そうそう、わたし、捨てられるんですね〜」
幽霊が掠れた声で言った。
「あっ、さっきの話、聞いてたのか?」
「聞いていたと言うか、聞こえたと言うか〜。そうですか、だいぶ長い時間ここにいましたが、ついに終わりの時ですかぁ〜」
「まだ確定ではない。決めるのはカーナリーエの新しい国主だ」
イーアが言うと、幽霊は撫で肩をさらにしおしおと落とす。
「よいのです〜。私のような、もう〜、いつから居たのかわからないような昏き物は確かに生者の世界には不要でしょう……ですが、消え去るとなればやはり寂しさが勝るもの〜」
幽霊はそう言いながら窓の外を見る。
「昼の世界は、もうどれくらいぶりか……自分でもわかりませんが〜。そうですねぇ、愛おしい彼の方に、最後はお会いしたかった〜……」
幽霊の目線の先、それほど高くない木立の向こう側、だいぶ離れた場所にある白い壁の城のような建物が見える。多分どこかの屋敷なのだろうが、そこを幽霊は何かとても深い感情にこもった、真っ暗な瞳で見つめていた。
「え、なに? 恋人でもいんの?」
「チル」
思わず身を乗り出すチルを、イーアが腕で止める。幽霊がチルを見て照れくさそうに笑った。
「こ、恋人というか〜。彼の方とは想いは交わし合いましたが、将来の誓いをしたわけではないので〜」
幽霊の何か意味がありそうな言葉の意味がわからず、チルは首を傾げる。イーアを見上げると、彼も困ったように笑う。
「相手は男性かい?」
「そうなんです〜。あのお屋敷に住む高貴な方で……お名前は……、いけませんねぇ忘れてしまいました〜」
幽霊になっても思い続けた、愛しい人の名前を忘れるなんて。幽霊の声は悲しそうだ。
だがチルは知っている。幽霊というのはとても不安定な存在なのだ。メアーレで遭遇した幽霊達も、ほとんどが生前の記憶を失っていた。覚えているのは、死の間際の強い感情。痛いとか苦しいとか、憎いとか悲しいとか。そういうネガティヴなものだ。多分この幽霊も、自分の名前すら覚えていないのだろうと思う。それでも愛おしい人の存在は忘れていないのだ。
「あちらの屋敷はベルンシュタイン大公家のものだが」
イーアの言葉に、幽霊はパッと顔を上げた。
「そうそう、琥珀の君です〜。愛おしき我が主人〜」
「琥珀の君って……」
「当代のベルンシュタイン大公だね。という事は……ヴェルザー卿かな?」
確か帝国では、三公爵と北のベルンシュタイン大公のみ、当主を宝石で呼ぶ習慣があるのだ。イーアも『黒曜石の君』と呼ばれている。
「いえいえ、あんな若造ではありませぬ〜。わたくしの愛おしい人は、もっと、ぐっと引き締まっていて……抱きしめていただくとすっぽり包み込まれるようで〜」
幽霊がくねくねと身悶えている。チルは唖然としてその姿を見た。
イーアと言葉のやり取りをしているうち、幽霊の姿が幾分かはっきりと見えるようになった。真っ黒な瞳も暗い眼窩もそれほど怖い印象ではなくなり、三白眼の瞳にも少し光が見えるようになった。どうやら元々、瞳の色は黒らしい。
「それはずいぶん……親密だったのだね」
イーアが気まずそうに言う。
「当代の琥珀の君は確か六十ほどだったと思うけど……つまり君は、もっと古い時代の幽霊なんだね」
「おそらくは〜。と言っても何ひとつ、覚えておりません〜」
幽霊はそう言いながら、再び窓の外に視線を投げる。その瞳はとても切なそうで、それでいてどこか満たされたようで。
「最後に……彼の方の墓に行きたいと思っていたのですが〜。それも叶わないようですね〜」
幽霊を見ているうち、チルも少しずつ悲しくなってきた。この人は、生きている間に愛していた人がいたのに、生前は結ばれず、そして死後は名前すら思い出すことができないでいるのだ。
何だかすごい悲しいことじゃないか。
イーアの袖を掴む手に力が籠る。
「その墓に行けばいいんじゃね? どうせこの屋敷はこれから変わるんだから、あんたがここに居続ける必要もないんじゃねーの?」
「おや〜、藍玉の君。何と甘い誘惑でしょう。ですが私は鏡に宿った幽なる物。ここを動くことはできません〜」
幽霊はきっぱりとそう言う。
「藍玉の君って……」
何やらたいそうな呼び名を使われたが、それよりも幽霊の言葉に頷きたくないチルは唇を噛む。だが、どうすればいいのかなんてわからない。ただ思いが叶わないまま消えるのは、あまりに切ないような気がした。せめて最後は、好きな人のそばに居たいのではないだろうか。
(ぁ。でもこれも俺のわがままかなぁ)
チルはまだ、自分のイーアに対する気持ちが何なのか、まだよくわかっていない。それなのに、この幽霊の気持ちに自分の感情を重ね合わせるなんて、身勝手なのではないか。
「チル?」
ふと顔を上げると、心配そうな顔でイーアがこちらを見ていた。その一見無表情に見える、だが優しく慈しみに溢れた紫の目に捉えられれば、どうしても思ってしまう。
(叶わない恋なら、やっぱり最後くらいは、って思ってもいいんじゃね?)
「なぁ、なんとかこいつをさ、その琥珀の君の墓に連れて行ってやることって、できないかな?」
自分を見下ろすイーアの目が見開く。
「だって……昼間にも出てくるような幽霊だぜ? 未練残したままだったら、悪霊とかになっちゃうかも?」
実際墓場の近くで生活していたチルは、以前何度か悪霊と遭遇した経験がある。連中はたいてい、望みが叶えられないまま死亡時の負の感情を抱え込んでいる。いつか、この幽霊がそうならないとも限らないのだ。
「うーん……それは、多分……」
イーアが言い淀んだ瞬間、音もなく幽霊がチルの眼前に詰め寄る。ぎょっとし身を引くチルだったが、次の瞬間にはイーアの腕の中にいた。
「ありがとうございます〜! 藍玉の君! 嬉しいです〜! ですが私はここを離れる手段がないので……そうですね〜、何か鏡に乗り移りましょう〜」
さっきまでの儚い雰囲気はどこへやら、幽霊は嬉しそうに早口で喋り出す。イーアの腕の中でチルは目を丸くした。
「なに、お前そんなこともできんの!?」
「ええ〜、これまで移動する必要性を感じなかったので〜。どうしましょう、この鏡を破りますかぁ〜?」
幽霊はうきうきと言いながら、いつの間にか右手にステッキのようなものを握っている。
「いやちょっと、待て待て! って、イーアはなせっ」
相変わらずこの相棒は過保護である。
しぶしぶ手を離す彼を睨め付けて、それから幽霊の顔を見た。さらにはっきりとした輪郭を持った彼は、もはや生きている人間とそう大差ないように見える。
「あんたはその鏡に今宿ってるんだろうから、それを壊すのは良くないと思う。何か、別の物に……」
「それならこれはあるが」
イーアが懐から小さな古い鏡を取り出す。今年の夏、チルが見つけてイーアに渡した、緋虎の鏡だ。
「絶対に壊さないと言うなら、貸せる」
「おお、いいじゃん。てかお前、ずっと持ち歩いてたのかよ」
イーアは黙って頷きながら、鏡を椅子の上におく。幽霊も目をきらきらと輝かせて鏡を見ていた。
「だがその前に、まず君がどの時代に生きていて、君に言う琥珀の君が誰かを特定する必要があると思うのだが、異論はあるだろうか」
イーアがはっきりと言う。ちょっと苛々している時の口調だ。
「おっ、そうだな」
「異論はございません〜」
なぜか幽霊とチルが同時に答えた。
「では、さっさと、君が覚えていることを私に言いなさい。年代を特定できるようなことだ。火急速やかに、迅速に」
普段表情の薄いイーアがにっこりと微笑んでいる。これは大抵不機嫌のサインなのだが、その理由がわからず、チルはただ「あわー」と呟いた。
お読みいただきありがとうございます!
帝国は同性婚は事実婚という形で行われ、イーアの時代では異性婚と変わらず一般的ですが、そうでない時代もあったようです。
イーアは久々にチルをぎゅっと出来たのでテンション上がりました。すぐに逃げられてしまいましたが。
宝石の呼称は、
【黒曜石の君】シュヴァルツエーデ公爵
【蒼石の君(元々は瑠璃の君)】ノーヴァ公爵
【翠玉の君】サヴァーランド公爵
この三家と皇帝家は黄金の女神の実子の子孫です。
それに琥珀の女神の子孫を加え、
【琥珀の君】ベルンシュタイン大公
の四家が宝石の名称を持ちます。
皇帝家もその昔は【紫水晶の君】と呼ばれていました。
次回もよろしくお願い致します!




