第1話 真冬の庭にて
冬の空の色が好きだ。
水色と淡い灰色の狭間の色。
中天は抜けるような蒼空だが、地上に近づくにつれて色を変える。
ちょうどこの皇都の背後に聳える山脈に触れた空は、その山脈に色を吸い取られたような灰色だ。
あの山脈はこの皇都の守りの壁、帝国の城壁。
雪を降らせる重く冷たい雲は山脈を越えられず、そのせいか帝都エンデルは穏やかで過ごしやすい気候の地だ。冬に凍えるほど冷え込むことも、街が埋もれるほど雪が降ることもない。
そしてその城壁はその向こう側、北峰五国に度々現れる魔物の侵入も防いでくれる。まさに城壁であり盾だ。一度は登ってみたいものだなと思いながら、イーアはひとつあくびをする。
「おい、しまんねえなイーア」
すぐ真横から声がして、イーアは苦笑する。護衛騎士のアルに欠伸の現場を目撃されてしまった。
「最近、眠りが浅いんだ。なんか変な夢でも見ているみたいで」
「へぇ、一度寝ると朝までぐっすりのイーアが。珍しいな」
人の事をまるで幼児のように言わないでいただきたい。
イーアが抗議の気持ちでアルを睨むと、彼は肩をすくめてみせた。もう身長もほとんど同じなのに、いつまでも子供扱いされるのはいただけない。だがこうして並ぶと、イーアよりアルの方がやはり大人の余裕を備えているようで、それが少し、面白くない。
アルはすらりと長身で、騎士服がよく似合う長い手足、整った顔は常に人当たりの良い笑みを浮かべている。スーデン人の母から引き継いだ褐色の肌は男らしく、見栄えがいい。
一方のイーアの肌は日に焼けてもそれでも白い。鍛えているものの、いつまでも生ちょろい小僧のような気がして、最近ではますます鍛錬を増やしていた。
ノルデン邸で訓練後の水浴びをしていたところをチルに見られ、顔を引き攣らせて言われた言葉をふと思い出す。
『げ、何だよお前。ゴリラにでもなんの?』
「チルに嫌われるかもしれない」
「いきなりどうした。あいつがイーアの事を嫌いになるわけないだろーが」
「そうかな…」
新年の儀が行われたのはつい三日前。ノルデンの姫に扮したチルを連れて、その祭事に臨んだイーアの気持ちはまだ少しだけ浮かれている。大夜会では一緒に踊ることも出来た。運動神経がいいチルの事だから、ダンスも問題ないだろうとは思ったが、緊張した顔で一生懸命踊る姿は本当に愛らしく、イーアは顔が緩まないように抑えるのに必死だった。
「やっぱり騙してお嫁さんにしてしまおうかな」
「おう、できるものならしてみやがれ。あいつのことだ、向こう三年は騙された事に気がつかないと思うぜ」
他愛もない会話をしながら、宮殿の庭園を横切っていく。
宮廷茶会用に整えられた庭は、あちこちに小さなテーブルが準備されていた。真冬なのに外の会場が設えてあるのは、この毎年恒例のパーティが幼い子どもたちの交流を目的としたものだからだ。
もちろん大人しくテーブルについておしゃべりを楽しんでいる子ども達もいるが、たいていの子供達は庭を駆け回ったり花畑で遊んだりと、子供らしい時間を過ごしている。
歩くイーアを見て挨拶する子もいれば、きょとんとしたように見上げるだけの子供もいた。この参加者は十三歳以下と決まっているので、おそらくイーアのことは大人と大差ないように見えているのだろう。
「子供が多くていいなぁ」
「そうだね。…まぁ帝国は常に人手不足だから、貴族がたくさん増えてくれるのは嬉しいよ。…そうそう、ゼクレス子爵。これからはアルのことをそう呼ぶのだった」
「うっ…」
イーアが目を窄めながら悪戯っぽく言うと、アルは心底困ったように眉を寄せる。
「仕方ないだろう? 私の側近がいつまでもワルドやノルデンの名を使うわけにいかないのだから」
この世界の貴族制は、数千年前に存在していたという魔法王国時代に使われていた物に、少し手を加えた形で存在している。このゴルドメア創王がその魔法王国の末裔だったかららしい。
そしてその魔法王国も、さらにそれより古いの時代に存在していた文明を真似ていたらしい。
とはいっても、そもそも魔法王国時代の資料などまともに残されていないのだから、長い時代をかけて帝国に都合の良いように変えたのだろう、とイーアは思っている。
イーアが治める領には男爵と呼ばれる低い位置の貴族が多く、彼らが平民たちやその地主を纏める領主のような仕事をしている。子爵はまた違い、基本的に領地を持たない。帝国中枢でもそうだが、国内でも重要な地位にあるものの、領地を持たない貴族に与えられる地位だ。
イーアの側近のアルや、領事総監を務めているウドがその立場にある。
名前なんて貰ったらもう逃げられないから嫌だと喚いていたアルが叙爵されたのは、今年の新年、僅か三日前のことだ。
「あー。俺の平穏なのんべんだらりな生活は、どこに行ってしまったんだろうか」
二十七歳とは思えないほど情けない事を言う側近を無視して、イーアは歩き続ける。
賑やかな会場から少し外れた場所、小さな池のそばに待ち人が居た。
あまりにも華やかなその容姿に、既婚と知っていても言いよる女性は多い。イーアが幼い時、まだ教育係としてそばにいた時から、彼はこういった場所で人々の注目を集めていた。
それを厭う彼は、こうしていつも人気のない場所に一人でいる。
「ニコル」
呼びかけると静かにその青年、ニコラウス・ヴェルドフェスがこちらを振り向いた。
イーアは生まれた時からこれまで、それなりに見目麗しい人々に囲まれて来た。自分の顔も、まぁ良く整っているほうではあると思う。
だが毎回見るたびに息を呑んでしまうような、彼はそんな美貌の持ち主だった。
その姿を、女神の恩寵と人々は言う。
だがイーアは、それを本人が疎ましく思っていることを知っている。
現ヴェルドフェス公爵にして、生まれはノーヴァ公爵家の長子。現在のノーヴァ当主ヴェルナーの異母兄に当たる彼の方が、当主よりノーヴァの色を強く宿している。
柳のようと謳われる美しい眉、長い金の睫毛は頬に影を落とす。水面を見つめる瞳は穏やかな深緑色だが、よくよく見ると虹彩は紅の色もあり、不思議な印象だ。その白皙の顔も、まるで神が作り上げた最高傑作と言い切ってもいいほど美しい。
だが昔の彼は表情も少なく、さらに他者に対して一切興味を持たない性格だったので、美しいよりも冷たい印象があった。あるものは揶揄するように、あるものは賛美するように『氷の貴公子』などと言われていたのだが。
数年前に溺愛する奥方と結婚してからは、時折微笑むようになった。その微笑みの破壊力の凄まじい事この上なく、おかげでますます取り巻きが増え、彼をうんざりさせているらしい。
それも含めて、今の彼は幸せなのだろう。
しかも今奥方は妊娠中で、彼はこの春には父親になる。そわそわとその日を楽しみにしている彼の姿は、もはや氷の貴公子からは程遠い。
イーアの顔を見ると、彼を取り巻く雰囲気が少し柔らかくなる。
「殿下。…いや、閣下とお呼びするべきか」
「好きなように呼んで構わないよ」
彼に閣下と呼ばれたら、自分も彼を家名で呼ばなくてはならない。
「では、殿下。
お調べになっていた事ですが、やはり妻がお役に立てるかと」
「そうか、とても助かるよ。…確か奥方は臨月では? こんな場所に来て大丈夫かい?」
イーアの言葉にニコラウスは困ったように眉を落とした。
「私も部屋で大人しくしていろと言ったのですが」
「あー。ユーリアが我儘を言ったんだね。すまない…」
イーアの末の妹、ユーリアは極端な怖がりだ。今年の誕生日で五歳になるが、世話をしてくれる大人に怯え、唯一心を許している女官がニコラウスの妻だった。そのため彼女は女官になってから、皇城敷地内の官舎ではなく、王宮内のユーリアの部屋で過ごすことが多いという。
婚約の頃から新婚の今に至るまで、ユーリアが妻君から離れたがらず、ニコラウスにはとても申し訳ない。
イーアが頭を下げるので、ニコラウスはただ苦笑した。
「いえ、妻も姫殿下を溺愛していますから。
…緋虎については妻は話せるそうですが、他の神獣についてはなにも知らないそうです」
「そうか…。不思議なことに、伝承はあるのに記録がないのだよね。でも、緋虎の情報だけでも本当にありがたい」
「ただ、辰砂の魔女なら知っているのではないか、と妻が」
思いがけない名前に、イーアは思わず眉を寄せる。ニコラウスは無表情のまま続けた。
「学生時代に、辰砂の魔女から緋虎の事を教えて欲しいと手紙があったそうなのです。一応口止めされていたようなので、その時は辰砂の魔女と接触はしなかったとのことで…魔女は、神獣について調べているらしいですよ」
イーアは考えを巡らす。
『辰砂の魔女』はここ二十年程の間に有名になった謎の存在だ。魔法が失われたこの世界では、魔女と呼ばれる存在の多くは魔導具士だったが、彼女の場合はすべてが謎なのだ。なぜ魔女を名乗っているのかも。
「妻は宮殿に向かいましたので…よければそちらで」
ニコラウスが促したので、イーアも頷いて歩き出す。
お読みいただきありがとうございます!
この直前、ニコラウスは妊娠中の妻が皇女を抱っこしているのではらはらしておりました。いつもは冷静で落ち着いている男ですが、妊娠中の妻のことになると激しい心配性の過保護になります。
その様子をイーア父が、我が身を見るようだと居た堪れない気持ちで見守っていることを、ニコラウスはまだ知りません。
次回は宮廷茶会後半になります。
よろしくお願い致します!




