【序】蒼穹を見上げ
はあっと息を吐くと、清澄な朝の空気の中で白く空気が染まる。
それを輝いた水色の瞳で見上げ、幼い少女は空を見上げた。昨日までとは違う、澄んだ蒼穹が視界いっぱいに広がっている。
「おかあさま、おそらがきれい!」
「そうよ。こんなお空を飛んだら、きっと気持ちいわね」
子供特有の高い声に、フェリアはくすくすと笑って応えた。
娘のツェツィーリアは今月の誕生日で四歳になる。好奇心が旺盛で目が離せないが、母ひとり子ひとりの家庭だ。その慌しさも含めて、とても愛おしい。
「おそら、とべるの?」
「大昔は竜っていう、大きな空飛ぶトカゲに乗って飛べたそうよ。でも、もうどこにもいないから、わたし達は飛べないわね。鳥さんの気持ちになるしかないわね」
とりさん……と拙い口調で娘が繰り返す。
それを確認しながら、自分たちが住む小さな家の戸締まりを確認した。小さな開拓村の中にある家は、とても粗末な造りをしている。床はなく土間で、家具も最低限しかない。それでも充分だと思えるのは、この村のほとんどの家がこんなものか、もっと酷い状態だからだ。
フェリアのような、夫の居ない女はこの村には居ない。森を切り開くこの村の仕事は力仕事だ。女が一人で生きていけるような土地ではない。
彼女がこの村で生活できるのは、村長代理のような仕事についているからだ。
さらにこの国では、どんな立場の者でも教育を受けなければならない。この辺鄙な土地に教師はいないため、村の子供達の教師役のような仕事も請け負っている。
最初、求人広告を見て役所に現れたフェリアを、地方開発の役人達は胡乱な目で見ていた。
誰も行きたがらないような辺境の地、しかも荒っぽい人間しかいない開拓村だ。小娘が一人、しかも赤子を抱えた状況で務まるわけがないと思ったのだろう。
しかし、基本の読み書きや計算はもちろん、地方の法律にも精通していることを知ると、あっさりとこの仕事を与えてくれた。
おそらく、どこぞの没落した貴族令嬢だとでも思ってくれたのだろう。詳しく身元を明かさなくても良かったのは、本当に助かった。
乳飲み子を抱えて、一人生きていかなければならなかったフェリアにとって、できる仕事は限られている。本来は役人の仕事であるこの村の采配役は、子供と離れられないフェリアには都合が良かった。
村の子供達の教師を務めるときは娘を背負い、村を回るときには驢馬の蔵にくくりつけた籠に娘を入れて、やがて役所から支給された馬の鞍に一緒にまたがり、フェリアは娘を育てた。
いつの間にか地方役人にもしっかり信用され、今では近隣の五つの村の束役になっている。今日もこれから、遠方の村の視察に行く予定だった。
ててて、と幼い足取りで娘が馬に近づく。くるりと馬の正面に立つと、
「いおす、きょうもよろしく、おねがいします」
と挨拶する。
ご機嫌なイオスに鼻面を押し付けられ、ころんと尻餅をつく様も見ていて楽しい。
娘と老馬のイオスは仲良しで、目を離すといつも一緒に遊んでいる。乗り降りさえ手を貸せば、娘は一人でイオスに乗ることもできた。
フェリアは転がった娘を起き上がらせ、お尻のほこりをはらってあげる。娘は転がされた事も気にしていない様子で、きゃっきゃと笑っていた。
「フェリア様、良かった! まだいらした」
ふと、名前を呼ばれて振り向くと、見知った男がひとり、こちらに向かって走ってきた。
「テオさん、どうしたの?」
フェリアより十五ほど年上のその男は、この村の住人だ。いつもは温厚な彼の様子がいつもと違う。フェリアの表情が険しくなる。
「さっき…、山から帰った倅が、変な物を山で見たって、言うんだ」
よほど慌てて走ってきたのだろう。息継ぎしながらも、すぐに話し出した。
「変な物?」
「ああ、最初はでっかい犬だと思ったらしいんだが…、普通じゃない大きさだったらしい」
「犬?」
フェリアは眉を顰める。
この地方に狼はいないし、野犬の話も聞かない。大きい獣はせいぜい狐程度だ。
「黒いやつで、首の辺りが白かったんで、毛皮にしたら高く売れると思って」
近づいたら、雄牛ほどの大きさだったという。さらに、辺りを警戒し見回すその瞳は赤く光っていた。それを不安そうに話すテオの前で、フェリアはぶわり、と全身の毛が逆立つような錯覚を覚える。
「それはどこで!」
滅多に声を荒げることのないフェリアの大声に、テオは驚いたように目を見開く。
だが直ぐに慌てて、東の山の尾根近くと答えた。
近い。
「テオさんは急いで村の人たちに、直ぐに地下に隠れるように言って! それと狼煙を、赤色の狼煙よ!」
地下壕は万が一のために作った小さなものが村に一つ。村人全員が逃げ込むには狭いが、今この状況でフェリアには他の手段は思い浮かばなかった。
慌てて駆け出したテオを見送る間も無く、フェリアは娘を抱え家に駆け込んで武器を取り出す。
「おかあさま、どうしたの?」
「ツェツィ、魔物がでたみたい」
娘に理解できることではないが、フェリアはそう言いながら馬に飛び乗った。片手に娘を抱え、片手は後手に槍を持つ。槍は本来ならば力の弱い女には向かない武器だが、フェリアは槍術しか知らない。人間相手にはなんとかなるが、魔物相手ではどこまで戦えるか。
だが、やらねばなるまい。
馬をかけて村の中心部へ向かう。全部で二十世帯もない小さな村だが、ほとんどの村人が青褪めた不安そうな顔でフェリアを迎えた。男達は地下壕の扉を開いている。その中で一番若い男、テオの息子の姿を見つけて、フェリアは名を呼ぶ。
「ルオ、あなたは急いで市役場に行って! この村に魔物が出た事を知らせるのよ!」
まだ十五のルオは、驚いた顔でこちらを見返す。
「でも……」
「メディナとあなた一人なら走れるはず。魔物の群れを倒すには軍隊が必要よ。だから、誰かが役場に知らせなきゃいけない」
緊急事態を知らせる狼煙をあげても、何が起こったのかを知らせなければ被害が大きくなる恐れがある。
牝馬のメディナは年老いたイオスより足が速いし、持久力もある。全速力で走れば、半日もあれば市役場のある街に着く。そこには数は少ないが軍備もある。そしてこの状況で村を救う方法はそれしかない。
「本当に魔物なの?」
そばにいた老婆が肩を震わせてそう言う。不安そうな囁きが、漣のように人々の間に広がる。
「ルオの見間違えじゃ……」
「荒野から来る魔物は北の城壁で防いでいる筈だ」
無理もない。
ここにいる人たちは南、おそらく半島からの移民だ。
北の荒野に魔物が居ると知ってはいるが、決して城壁を越えることはないと信じている。ーー信じさせられて、この地に移民としてやってきたのだ。
「…何か問題があったのかもしれない。でも朱の目を持つ獣はまちがいなく魔物だわ」
フェリアがそう言うと、年若い女が悲鳴をあげて自分の娘を抱きしめた。
フェリアも自然、娘を抱く腕に力がこもる。娘は怯えているようだが、大人しく彼女にしがみついていた。母の役割を理解しているのだろうか。……その聡さが、いっそう愛おしく感じる。
「馬で全力で走っても、本気で駆ける魔物には敵いません。なので、私が足止めをします」
フェリアの言葉に、その場にいた者たちが目を見開いた。
「いや、フェリアさん、それは危険だ」
老人がそう言うが、彼女は大きくかぶりを振る。
「奴等が人間の存在に気がついたら、ここにやってくるかもしれない。ここじゃなくても、別な村に行く可能性も。どちらにしろ、誰かが死ぬわ」
きっぱりと言い切ったとき、腕の中で娘が震えた。
悩む表情だったルオが馬上の母娘をふり仰ぐ。その顔には強い決意があった。
「わかった。とにかく急ぐから、フェリアさんも気をつけて」
それだけ言うと、風のように走って馬小屋へと向かう。その後ろ姿を見送りながら、フェリアはそっと娘のつむじにキスをした。
娘が顔を上げる。無言で泣いていたのだろうか。涙も鼻水も、すごいことになっている。離れがたく思ってくれているのだと思うと、途轍もなく嬉しい。
「ツェツィ、お母さまとのお約束を覚えている?」
娘はいやいやとでもするように、首を振った。
「だめよ? 何度も言ったでしょう? さあ、言ってみて」
娘の大きな水色の瞳が、じっと自分を見返す。
「おかあさまがいなくなったら、テルのいんちょうにあいにいく」
「そう、その通りよ。良い子ね」
そっとフェリアは娘の額にキスをする。何度も何度も。
「だいじょうぶ、お母さまはいつもツェツィを護るわ。そしてすぐに追いかける。だから心配しないで」
フェリアにとって、すべてに勝る存在。そのすべてが愛おしい娘。細く小さな体も、自分のものと違う金の髪も、フェリアの父から受け継いだ同じ瞳の色も。
だから何が何でも、この子が生き残る選択をせねばなるまい。
抱きしめた感触も、すこししょっぱいその額の味もすべて、自分の魂に刻むように味わい、フェリアは我が子を手放す。すぐそばにいたテオの妻、ライラに渡した。
「この子をお願い。それと魔物避けの香木も焚いてちょうだい」
「わかったわ……本当にだいじょうぶなの?」
ライラはひどく顔色が悪いが、それでもしっかり娘を抱きしめてくれた。娘は抵抗こそしなかったが、それでも溢れるほど大きく目を見開いてこちらを見ている。その瞳からは滔々と涙がこぼれていた。
「任せて」
そう短く言った時、
直ぐそばの森から、狼の遠吠えのような獣の咆哮が聞こえた。
混乱する村人に背を向け、フェリアは槍を構える。
元軍用馬だったというイオスが、それに答えるように嘶いた。修羅場になれているのか。ありがたい。
これから少しでも、あの魔物をこの村から、人の住む里から引き離さねばなるまい。
「魔物とたった一人で戦う事になるなんて、思ってもいなかったよ」
色々なことがあった人生だったけど、さすがに、こればかりは意外で仕方ない。
そっと目を瞑ると、脳裏に浮かぶのは春を思わせる親友の笑顔、そして愛して已まない娘の屈託のない笑顔。その二つが強くフェリアの背中を押す。まるで恩寵のように力を与えてくれる。
勝てる相手ではない。それは理解している。
「ツェツィーリア、どうかどうか生き延びて」
あの、小さな小さな魂を護るためなら、なにもこわくない。
扉が閉まる瞬間、
駆け出した小さな母の背を、藍玉の瞳はしっかりと捉えていた。
お読みいただき、ありがとうございます!
第三部スタートですが、長いのでさらに三部に分けております…
よろしくお願い致します!




