【幻想譚】いつかの誰かの記憶
「うわー、もうこの枠も壊れかかっちまってるよ。これは金属だし、ここでは直せねぇなぁ」
からからと笑いながら言う若い男の声が聞こえる。
ついでイーアが感じたのは、潮の匂い。そして穏やかな波音。
顔を上げると、目の前には真っ赤な虎がいた。といっても、本物ではない。若い男の背中一面に彫られた、真紅の虎。赤い毛皮のなかに黒い縞模様が入り、体の内側は白い。
金の瞳と獰猛そうな牙、今にも跳躍しそうな太い四肢を持つ、勇猛そうな獣。この虎は雌だというが、だがまるでこの男のようではないか、とイーアは思う。
僕が? と思考の中でイーアは首を傾げる。
イーアはこの男を知らない。なのに、今の自分はひどく慕わしい気持ちで男を見上げていた。
これは…とイーアは思う。
自分であって、自分ではない誰かの記憶だ。
夢の中にいるように朧げで、それでいてはっきりした情景にイーアは息を呑む。
イーアの意識を宿している誰かの手が伸び、男の背に触れる。引き締まった背中の虎をなぞるような指先は、ほっそりとしていて美しい。女性のものなのだろう。
「ってか、本当にこれ、幻が見えるのか? 普通の鏡にしか見えねぇけど」
「わたしか、わたしに連なる長子にしか使えないな。それもある程度の魔力のあるものに限られる」
イーアの唇が動く。だが紡ぎ出された言葉を音にした声は、自分のものではなかった。だがどこかで聞いた事のある、感情の少ない声音。
「わたしが死んだら、妹に受け継がれるな。…その方が父も喜ぶかもしれん」
少し投げやりなその言葉に、男が振り向く。
海の男らしい、潮焼けしたぱさぱさの髪は短い。日焼けした顔と、無性髭。その中にある、楽しそうに歪んだ乾いて割れた唇と、こちらを見つめる金の瞳。
「お前は死なないよ。俺が殺させはしない」
男はそう言いながら、イーアの頬に触れる。愛おしさを込めてはいるのだろうが、いささか乱暴なその手つきに、イーアではない誰かがそっと眉を寄せた。
「お前がどれほど生きるのに飽いていても、俺がこの世に縛り付けてやる。覚悟しておけ。緋虎の民の執着は重いぞ」
くつくつと笑いながら、男はイーアに顔を寄せる。決してイーア本人が経験した事のない深い口付けの後、男はニヤリと笑った。蠱惑的で熱を孕んだその金の目に射られ、イーアではない誰かの体がぞくりと震える。怯えでも恐怖でもなく、期待と、そして強い喜びを感じたのだ。
それを誤魔化すように、顔を逸らす。
鎖骨の上を銀の鎖が揺れて、紫水晶のネックレスが揺れた。
男はそれを見ながら、不満そうに眉を顰める。
「お前に何も贈れるものがないのは、男として情けないな」
イーアはくすくすと笑う。この笑い方は妹に似ている…と、思考の中のイーアは思う。
「何もいらない。どうせモノは、いつか誰かに奪われる」
全てを諦め切っているようなその口調に、男はますます面白くなさそうな顔をした。
そして手元の鏡を見て、ふんっと鼻を鳴らす。
「じゃあ、おれはこの鏡をおまえに贈ろう。元々おまえのものだが、お前が生涯手放したくないと思うほどの物に変えてやろう」
得意げなその顔に、イーアは楽しくなる。この男は時々、子供のような顔をするのだ。それが愛おしくてたまらない。そっと手を伸ばし、男の肩に触れた。
「残念ながら、その鏡はわたしに子供が生まれたら、その子に引き継ぐ。…わたしには何も残らないのだよ」
「ならば、その子供も驚くような物にしなければな。緋虎を彫ってやろう。おまえが俺を忘れぬように」
男がさりげなく言った言葉は、イーアの心を抉る。執着は重い、とか言いながら、この男は自分と添い遂げるつもりはないのだ。伸ばしていた手が力を失って膝の上に落ちた。
痛む心を隠すように、そっと目を瞑る。
「ばか、勘違いするな」
それなのに、男の言葉は軽い。
乱暴にイーアの細い体を抱きしめて、刻み込むように荒々しい口付けをする。まるで嵐に中にとり残されたように戸惑いながら、イーアではない誰かは必死にそれに応えた。
今自分は男の腕の中にいるのに、まるで海の中で溺れているようだ。イーアは必死になって男の体をかき抱く。
「お前がどんな生き方を選んでも、俺はお前の影にいる。お前が将来誰の子供を産んでも、どんな男と結婚しても、お前を守るのは俺だ。それを忘れるな」
まだ荒い呼吸を繰り返すイーアに、金の瞳の男がはっきりと言う。イーアではない誰かは震えながら頷き、そしてふと違和感を覚え首を傾げた。銀の髪がさらさらと流れるように揺れる。
ふと男の纏う雰囲気が変わったのだ。
男の瞳が金色に光り、そしてその唇が言葉を放つ。
「ちびすけ、これを見ているちびすけよ。悪いがおまえに俺の力は及ばない。お前は俺よりはるかに強いものの影響下にあるからだ」
思考の中のイーアはびくりと体を震わせる。この男の言葉は、間違いなく今のイーアに向けて語られているからだ。
「お前を守ることは俺にはできない。だが、この夢の世界くらいなら盾になってやろう。ちびすけ…俺のはるか背後に立つ男、末なる者。お前はこの夢を覚えてはいないだろうが…魂に刻め。お前は更なる次代の為に、決して道を誤ってはいけない」
男は強くイーアの意識を宿す女の体を強く抱く。女の唇が苦しげな、それでいて甘やかな息を吐いた。
「お前たちのゆく道を俺はここで見届けることにしよう。…行け」
男の言葉が終わると同時に、イーアの意識は音のない空間を跳ね上がる。
そして現のイーアははっと目を開けた。
ぼうっとした思考のまま、見慣れた天井を見上げる。まだ夜明け前、窓の外の空はまだ薄暗い。太陽が昇る前、薄明の穏やかな時間。
まるで長い時間どこかを旅していたような、そんな錯覚をイーアは覚えた。
「…すごい夢を見た気がする…」
ぼそりとそう呟いたものの、その夢の中身をイーアは一切覚えていなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
第三部開始です。
その前にちょこっと、イーアが見た夢のお話でした!
15歳の少年が見るには、少し刺激が強かったようです。この後、庭で必死に剣を素振りしているイーアの姿があったとか…。
次回は【序】、第三部は長いので三つに分割する予定です。
チルのこと、そしてイーアの家族のお話です。
始まりはとある開拓村のお話。
明日もよろしくお願いいたします!




