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ファントム・ミラー  作者: ひかり
【第二部】緋虎の鏡
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第9話 息ができない、夜

 深夜、アロイス雑貨店の自分の部屋で、お腹の辺りでまるくなっているリンの温かい体を撫でながら、チルはなかなか寝付けずにいた。


 実のところ、全身は怠く、頭はぼうっとしている。ルッソに頼んで、久々に『血誓(けっせい)』を使ったからだ。


 チルは四歳の頃に前の親方に引き取られた。あの男はチルの外見を気に入り、すでにしっかり受け答えする様を聡明な子供だと思ったという。

 毎日厳しく躾けられ、折檻され技術を叩き込まれたが、親方の思惑に反してチルは物覚えの悪い子供だった。


 何より、何かの命を奪う事を極端に嫌がった。そうして仕事を覚えず拒否するチルに、業を煮やした男はチルにあの首輪を付けた。おそらく、五歳くらいの頃だ。

 真っ赤な、まるで鮮血を固めたような、大きな柘榴石のついた魔導具『血誓』。


 魔導具の使用に周囲が気がついたのはチルが九歳ほどの頃。当然のように大問題になり、親方は『蒼眼の鷹』を追われ、チルの身分も新しい団長預かりになった。


 石を使っている間の記憶は残っていない。たぶん、覚えていない方が良かったのだろうと思う。

 ただその間に、チルは優秀な暗殺者だったとあの男に言われた。西部諸国の現在の混乱はあの男は勿論、チルやルッソの『仕事』の結果だという。


(そんなこと、したくなかった)


 過去を思い出すと、思い出そうとすると息ができなくなる。殴られて痛かった。人を殺すことを強いられて、恐ろしかった。

 結果、自分の意思とは関わりなく、人形のように操られて人を殺した。


「…ひっ」

 喉が引き攣る。


 お腹の辺りでもぞもぞとリンが動いたので、起こしてしまったかと焦ったが、リンはすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。

 チルはほっとして、もう一度布団に潜る。


 柘榴石は今はほとんど使っていない。今の団長に使用を知られたら、きっとしこたま怒られるだろう。だが、今回はどうしても使うしかなかった。あの会場にはあの男がいたから。


 大人になったからか、最近では柘榴石を使用しているときの記憶は残る。だが全て朧げで、まるで水の中にいるような感覚だ。

 なので久々に会った親方の顔を、チルはほとんど見ていない。だが。


『大丈夫、親方はチルのことに気がつきもしなかったよー』


 柘榴石を使った後は、自我が戻るまで時間がかかる。公城の整えられた庭の隅で、階段に座りぼうっとしているチルに、ルッソはそう声をかけた。


『うん』

 返事をするのもしんどい。本当はルッソとあの男も会わせたくなかった。あの男は、チルとルッソに偏狂していたから。

 今二人が何事もなく穏やかな日々を過ごしているのも、今の将軍と団長があの男を牽制しているからだ。


 チルは震える手で、ルッソの袖を掴む。


『ルッソ、ごめん…。嫌な思い、させてごめん…』

 ルッソがゆるゆると首を振る。チルはいつも結局のところ、この兄貴分に頼ってばかりだ。


『イーアは、俺に気がついた?』


 これには、ルッソは困ったように笑う。

『どうかなー? あの子、鈍感だけど、チルのことだと鼻が効くからなー』


 チルが脱力したように欄干に頭ぶつけたので、ルッソはさらに困ったように笑う。伸びた細い指が、そっと頭を撫でてくれた。


『チル、これが最後だよ。もう俺はお前を荒事には連れて行かない』

 普段の間伸びする話し方とは違う、しっかり意思を込めた声だった。


 チルはぼんやりとルッソを見返す。

 自分をまっすぐに見るルッソの目はいつもより幾分か優しいが、その言葉はチルにはとてもつらい。


『なんで…』

『それが大公の意志だからね。柘榴石も俺が持つ。もうお前は、こういう仕事をしなくていい』


 ルッソの言葉は、先日の夜会でチルが大公に言われた言葉を思い起こさせた。途端に悔しくて、涙がぼろぼろと溢れて落ちる。


『なんでだよ!』


 チルは握っていた柘榴石のついたチョーカーをルッソに投げつけた。体の感覚が戻っていない状態で投げられたそれはあらぬ方向へ飛んでいき、苦笑いしながらルッソはそれを拾う。


『じゃあ俺は、もうそういう事でしかあいつを助けられないのかよ!』


 泣きながらルッソの痩身の体を叩く。こんなのは八つ当たりだ。だが、それ以外にこの悔しさを晴らす術をチルは知らない。


 無言で自分を抱きしめるルッソの腕の中でチルはわんわん泣いた。

 そこで意識を失い、どうやって戻ったのか、気がついたらベッドで眠っていた。


「くそっ」


 再び胸を強く押されるような感覚がして、チルが息を吐く。

 その時、かたりと店の方から音がした。


 アロイスはアルの命を受けて西方に行っているはずだし、イーアは公城に泊まると聞いている。つまり、この店には今チルとリンしかいないはずで、外にも変わった気配はない。


 チルはリンを起こさないようにそっと体を起こし、枕元のダガーを握った。

 足音を立てずにドアに行く。家中の鍵は閉めているはずだが、鍵なんて針金一本あればなんとでもなる。


 寝室を出ると向かいがアロイスの部屋、左側は台所兼食堂だ。右側が店だが、またかちり、という音が店の方からした。


 足音を消したまま、店へと向かう。


 麻で出来た雑なカーテンの合間から店を覗き込んだ時、ガチャリと音がして玄関の鍵が開いた。そしてすぐに誰かが入ってくる。

 その誰かは几帳面に室内から鍵をかけ、疲れ切った様子でカウンターの方へと歩く。


 その暗闇でも光る金の髪を確認して、チルは思わず素っ頓狂な声を上げた。


「イーア!?」


「あれ、チル起きてたのか?」

 イーアの方も驚いた様子で紫の目を見開く。

 そしてにかっと笑い、手に持っていた瓶を掲げた。どうやら葡萄酒のようだが。

「じゃあ、ちょっと付き合って」


 品行方正なイーアが酒とは珍しい。


 チルはすぐに、カウンターに置いているオイルランプに火をつけた。

 ぼんやりとした灯りに照らされ、疲れ切ったイーアの顔が浮かび上がった。服装は夜会の時のまま、こんな豪華な格好でこの下町まで来たのかと思うと肝が冷える。


 そもそも、彼が公城から出るのを大人たちが許可するわけがないので、抜け出してきたのだろう。


 困ったやつだなーと、チルは苦笑する。

 色々思うところはあるが、何となく不安に押しつぶされそうな夜は、こいつの顔を見れて嬉しい。


 そんなチルを首を傾げて見ていたイーアが、そっと視線を逸らしながら、ものすごく小さい声でつぶやいた。


「…チル、いつもと違うね」


「あ?」


 今夜は一人だけだと思っていたので、男装をしていない。普段も寝る時はしていないのだが、イーアがいる間は必ずするようにしていた。

 今のチルはアロイスのお下がりのシャツ一枚しか着ていないので、その男物のシャツを押し上げて、しっかりと主張している胸をイーアに見られたらしい。

 しかも下は肌着一枚で、素足が露わになっている。


「ぶぁっっかやろおぉぉ!!」


 チルが真っ赤な顔で叫んで自室に飛び込むと、ベットの上でリンが驚いたようにぴょんと飛び上がった。


「にゃに? にゃ? 帝国軍でも攻め入ってきた??」

 どうやら盛大に寝ぼけているらしいリンが、素っ頓狂な事を言うので、チルは思わず声を出して笑ってしまった。

 こんなふうに笑える今があるのは、なんて幸せなのだろうと思いながら。



本当にお読みいただきありがとうございます。

すごく悩んだ回でした…次回もよろしくお願い致します。


うっかりチルの姿を認識してしまったイーアですが、

『いつもあの状態を押し潰しているのか…それは大丈夫なのだろうか…』とどきどきしながら思いました。

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