第7話 記憶を呼び起こすもの
「帝国の若き獅子にご挨拶申し上げます」
そう言いながら恭しく首を垂れる男を、イーアは妙な違和感を感じながら見返した。
白髪混じりの黒髪は大きく波打ち、それを比較的高い位置でひとつ括っている。不遜なほど堂々とした態度でこちらを見ている目は、濃い橙色と茶色の間のような、変わった色だった。
上質な夜会用の礼服にを包み人好きするような笑顔を浮かべている、一見すると人の良さそうな男だ。だが、その笑顔がイーアの心をかき乱す。
その隣で淑女の挨拶をした女は、おそらくイーアより幾つか年上なのだろう。娘というより、男の愛人のような雰囲気だ。
デコルテの大きく開いた黒のドレスを身に纏い、波打つ黒髪も、体の線を強調するようなドレスもいかにもそれらしい。
女は艶っぽい瞳でイーアを見つめている。
普通、休憩中の高位貴族には挨拶を遠慮するものだ。だが、男が率いる一団は堂々とイーアの前に立った。
その尊大な態度に多少苛立ちを感じながら、笑顔を返す。女の頬に朱が走った。
「オーラフ・グシフォーンと申します。かつては軍におりましたが、今は無冠のものですので、お話しさせていただける事を心より嬉しく思います」
男はどこまでも謙っているが、その目を見てイーアは確信した。
自分はこの男を知っている。
「堅苦しい挨拶はいらない。…どこかで会っただろうか?」
質問するイーアを、男はどんな感情も伺えない目で見返した。その顔には今でも笑いが張り付いているが、目だけがこちらを値踏みするかのように、無遠慮にこちらを見ていた。
「いえいえ、私のような身分のものは、公爵閣下にお会いするなどとんでもないこと。お初にお目にかかります。ですが、私が飼っている猫が、公爵閣下に大変懐いているようでして」
イーアは眉を顰める。
「…覚えがないな」
内心、すぐに笑って怒る、藍玉の瞳が浮かんだ。チルは一応軍に属する人間だ。もしやと思ったが、イーアはわざと惚けた。
それも想定の内だったのか、男は表情を変えずに続ける。
「おや。あの猫は躾がなっていないので、てっきり閣下にご迷惑をおかけしていると思いましたが。覚えがないとは、はて」
男の声が、イーアの記憶の深いところをざらりと舐める。
ますます嫌悪を感じて、イーアは黙った。
「こちらの猫の方が躾がなっておりますゆえ、多少毛質は違いますが。閣下に愛でて頂ければ幸いと思い、連れて参った次第でございます」
そう男が言い、隣の女が一歩前に出る。そして艶っぽい微笑みを浮かべながら、イーアを見つめた。
その女を無視して、イーアは男を睨み続ける。
「なんの話かわからないと言っている」
そう言いながら素早くあたりを伺う。リアの行方も気になるしが、この剣呑な雰囲気を周りに悟られたくない。
だがこの男の取り巻きのような連中が、イーアたちと会場との間に壁のように立っている。この男たちにとっても、会場で目立つことは本意ではないらしい。
イーアは素早くザイツに目配せする。
ザイツは主人に馴れ馴れしく話しかけている男に対して、苛立ちを隠さず睨むような目で見ていたが、イーアの視線を受けて躊躇うような視線を返した。
ザイツにはリアを探してほしいのだが、護衛騎士という立場上、イーアのそばを離れる決心がつかないのだろう。
イーアは目の前の人間を無理矢理避けさせ、この場から去りたい衝動を堪えながら、目の前の男を冷ややかに見返した。
男はそんなイーアの変化を気にする風でもなく、ふと笑いを深くする。
「おやおや。公爵閣下は私の猫を盗んでおいて、知らぬ存ぜぬとおっしゃるのですか? そういえば貴方様の母君も、我が国の公女から至宝を盗んだ事がおありでしたね」
男の言葉に、イーアは動きを止める。目上の貴族相手に、あまりにも不敬な物言いだったからだ。
あまりのことに、背後に立つザイツまで硬直している。
「私に母はいないが」
激しい怒りが腹の中を駆け巡る。イーアは必死にその激情を抑えた。
イーアの母は彼を十五歳の時に産んでいる。帝国の法律では結婚や出産が認められるのは十七歳以上と定められているので、イーアは母親の実子ではなく父の婚外子とされていた。
そして自分が生まれた時、父とこの公国の姫は婚約中だった。この男が言っているのは、おそらくその事だろう。
ふと、男が体を寄せる。髪に隠れ表情は伺えないが、笑いを孕んだ小さな声で、イーアにだけ聞こえるように男は囁く。
「そのような事を言われては、母君が悲しまれますよ? あなた様のために身重の体に関わらず、戦おうとされていたのに」
イーアの紫水晶の瞳が大きく見開かれた。
夕闇に迫る林、倒れる母を見下ろしている自分。ひどく腹が痛くて、掴まれている腕も痛い。
忘れていたはずの光景が、一瞬で脳裏に蘇った。
「…おまえは」
「化け物の子が、人を名乗るとは烏滸がましい。さっさと俺の猫を返せ。あれは俺のものだ」
イーアは男をまじまじと見る。一見すると普通でしかない男の目は、奥底に狂気が渦巻いていた。病的なほどに執着を感じ、イーアは言葉を失った。
その隙に、女の掌がそっとイーアの腕に触れた。そこからぞわりと、全身に悪寒が走る。
イーアが見ると、女は紅潮した頬で彼を見つめ返し、さらにその胸まで寄せた。自分がイーアの歓心を買えると信じて疑わないのだろう。
「誰の許しを得て私に触れている」
イーアが女に投げかけた言葉は短い。目の前の貴公子を熱っぽい目で見ていた女は一瞬で青ざめた。
「あ…。あの…」
それでも男の命令に従って、果敢にイーアに微笑みかける。それはこわばった表情の、愛嬌も何もないものだったが。
「おや…この猫は気に入りませんでしたか? よく躾られているので、金色の猫と違い、貴方様を噛むような事はないと思いますが」
「黙れ」
イーアは強く男を睨み、男がはじめて怯んだ。だがすぐに何かを言おうとしたが、それを遮ったのはよく通る静かな声だった。
「公爵閣下、そのような恐ろしいお顔をされていては、女性に逃げられてしまいますよ?」
一人の青年がそう言いながら、二人の会話に割り込んでくる。
初めて見る顔だが、その顔には見覚えがあった。黒の短髪に、挑戦的な釣り上がった蒼玉の眼。いつぞやの女装したルッソの顔だ。今はかっちりした男性用の軍服に身を包み、胸に光る徽章は軍部大尉のもの。
そして彼の右側には、同じ黒髪の妖精のような娘が立っている。その姿に、イーアは眼を見開く。
鬘だろう黒の長髪は、夜会の煌々とした灯りに照らされ、キラキラと輝いている。白い顔も、藍玉のような瞳も見慣れたものだ。見慣れない真っ赤な柘榴石の付いたチョーカーが少し不似合いだが、華奢すぎる薄い体によく合う、桃色のふんわりとしたドレスを着ている。
妖精という言葉がまさにふさわしい。なのに、その顔はごっそりと表情を削ぎ落としたように、にこりともしない。まるで、陶器の人形のように。
(チル?)
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