第2話 嬉しいはずなのに…
「今日の姐さん、すげぇ綺麗だ」
ごくりと生唾を飲み込みながら、チルが真顔でそう言うと、薄暗い店の中に佇むピアは満足げに頷いた。爪を黒く塗った指先を頬に当て、ふんわりと柔らかく笑う。
「でしょう! 今回は本気で変装頑張ったの!
チルに褒められると、うれしいわぁ」
話し方はいつものピアなのに、とにかく外見や雰囲気が全く違う、服装も違う。混乱しそうな頭で、チルは彼女の姿を頭のてっぺんから爪先までじっくりと見た。
いつもはミルクティー色の髪を短く揃えているのに、今日は黒髪。焦茶の瞳はいつもと同じだが、垂れ目を強調した化粧で別人のような雰囲気を醸している。
普段は中性的な彼女の、初めて見せる大人の色香に同性のチルでさえどぎまぎしてしまいそうだ。
(つか、胸、盛りすぎじゃねぇの!?)
言葉に出せないが、ついまじまじ見てしまう。
「喋り方もちゃんとかえたのよぉ」
そう言いながら、彼女はこほんと咳をする。
そしてカウンターに体を乗せ、その豊満な胸を目立たせるようなポーズを取った。その蒼い瞳が怪しく輝く。
「『黒猫と蝶の館』のマナラィです。忘れられない夜にして差し上げますわ。
どう!? いつもと違うでしょ?」
「違うけど…姐さんがやると娼婦って感じしないなぁ。なんか暗殺者っぽい」
チルは苦笑いした。
「えー!? そうかしらぁ。どきどきしない?」
「しない。やっぱ姐さんは姐さんだ。」
先程の緊張も興奮も冷めて、チルはカウンターに頬杖をつく。正直、ちょっとだけ安心した。変装して妖艶な雰囲気を纏うのは、チルの兄貴分だけでじゅうぶんである。
「なんつーか、『戦う』意志みたいなのがあるんだよなー。姐さんも団長も」
チルの言葉にピアは拗ねたように唇を尖らせる。彼女はチルが九歳頃からの顔見知りなので、チルにとってはとても気安い存在だ。
「仕方ないわよぉ。私たち北の人間はみんなそうなの。戦闘民族、なーんて陰口言われるわぁ」
「あー、確かにそうかも。陰口じゃないけど、とにかくめっちゃ強い…」
数日前、呼び出されて公城行ったチルは、ピアの兄である蒼眼の鷹の団長が、公城の稽古場で暴れていたのを目撃したばかりだ。あれは模擬戦だったのだろうが、大公国軍の兵士数人まとめてのしていた。
「俺、姐さんと団長には絶対喧嘩、売らないでおく」
「そうしてちょうだい。そして約束のもの、これよぉ」
彼女はそっと胸から小さな布包みを取り出す。それをそっと、カウンターの上に置いた。
「チルが言った通り、グシフォーンの屋敷、あの男の書斎にあったわぁ」
そう言いながら、ピアはそっと布包を開く。
小さな鏡だった。
ガラス張りの鏡だが、だいぶ古く表面はくすんでいる。所々腐食して黒くなっている場所もあるが、一応写し出すという鏡本来の目的は果たせる状態だ。
チルはおそるおそる手を伸ばしてその鏡に触れる。裏側を見ようとひっくり返して、そっと眉を寄せた。
裏は木彫りで虎の模様が彫られている。
ところどころ剥がれているが、赤い塗料で染められ、瞳の部分には黄色い宝石が嵌めてあった。確かに古く一見高価には見えないが、これは何かとてつもない代物のような気がする。
「うん、多分これで間違い無いだろうな」
ぼそりとチルが呟くと、ほうっとピアがため息をついた。
「よかったわぁ。これで安心だわ」
そう言いながら笑う彼女に硬い笑顔を見せて、チルはすぐに手元の鏡に視線を落とす。
二年前の夏、チルはイーアからこの鏡の捜索を依頼された。
最初の年はメアーレ中の古道具屋や雑貨屋に声をかけて探し回り、その次の年は貴族のコレクションや商人の私財にも捜索の範囲を広げた。
だが、何の手掛かりも見つからなかった。
イーアの父によると、鏡の背面には虎の模様が彫ってあったという。その特徴をもとに探したが、やはり何の進展もない。諦めかけていた時に、ふと思わぬところで手掛かりが見つかった。
「まさか、あいつが持ってたとはな」
チルの言葉に、カウンターにもたれかかるピアも困った顔で首を傾げる。
「チル、よく覚えていたわねぇ。あのお屋敷にいた頃って…」
ピアが言葉を濁すので、それにチルは苦笑で返した。
「俺じゃない。ルッソが覚えてた。…前の親方が『子供狩り』してた時の…ほら、ルッソのやつ、子供逃してただろ? その時にあの男が…」
ピアが言葉に詰まったチルの顔を心配そうに覗き込んだ。
「チル?」
はっとしたようにチルは顔を上げて、彼女の顔をしっかり見る。
「いや、姉さんには感謝してるんだよ。俺もルッソも、あの屋敷には行きたくないし…」
今までイーアから話だけ聞いていた幻の鏡、思ったよりずっとそれは近くにあった。
ルッソとチルが昔住んでいた屋敷、今はグシフォーン子爵と呼ばれる、『蒼眼の鷹』の元親方が住む屋敷。
もうあそこから連れ出されてだいぶ経つ。当時の記憶はあやふやなのに、時々鮮明に脳裏に蘇る。いつも暗い廊下、折檻部屋として恐れられていた地下室、殴られて縛られた、悪趣味な肖像画の部屋。
殴られて床に転がった兄貴分の姿。駆け寄ったチルの腹を蹴る、波打つ黒髪の男と、その口元の冷酷な笑い。冷たい首輪の感触、自分を庇う兄貴分の温かい血の匂い。
ひゅっとチルの喉が鳴った。
「チル」
するりと白い手が伸びて、チルの頭に触れる。
カウンターに身を乗り出したピアが、強い力でチルの体を引き寄せた。
「頼ってくれてありがたいわぁ。あなたがあそこに行かなくて良かったぁ」
チルの額がピアの肩に触れる。ふわりと柔らかい匂いがして、チルはぱちぱちと瞬きをした。
「ありがとう…姐さん。あの屋敷に忍び込むのは大変だったろう」
「あらぁ、大丈夫よぅ。それに今回はカンタンだったのよぉ。親方が若いコをたくさん呼んでくれたので、わたしもそれに紛れ込んだの!」
「はぁ…あいつ、ほんとどうしようもない変態だな」
チルが心底嫌そうに言うので、ピアはくすくすと鈴が転がるように笑う。
そっとピアの体が離れ、チルはちょっとだけ名残惜しい気がした。子供っぽい気がするから、絶対に口には出さないけど。
「これでその…例の坊やとのお約束は果たせるわねぇ」
煙管を取り出してカウンターの上に置きながら、にっこりと笑うピアの顔はとても優しい。
「そうだな。きっと喜ぶ…」
とても嬉しいはずなのに、なぜかとても寂しい気分だ。胸がきゅうっと締め付けられるような。
(あいつとの約束、果たせたのに… )
イーアは喜んでくれるだろう。
彼は毎年、この店に来るのは、この鏡を探しているからだ。
それが見つかってしまった。つまりはきっと、もうここに来る理由がなくなる。
元々身分も生きる場所も全く違う。ここで会うことがなくなったら、もう二度と彼と会うことはないだろう。一緒にご飯を食べたり、どうでもいい遊びを二人でしたり、そう言う時間が無くなるのだ。
それは、とてつもなく寂しいとチルは思う。
そんなチルの様子を怪訝に思ったのか、ピアはそっと優雅に首を傾げた。
「なにか、問題でもあったのぉ?」
チルは黙ったまま、ゆるゆると首を振った。
「例の坊や、きょう来るのでしょう?」
「ああ、そういえばそうだったな」
いかにも忘れていたように言いながら、チルは壁掛けの時計を見上げる。本当は朝からずっと時間を気にしていたけど。
時刻はまだ五時(10時)になったばかりだ。手紙ではお昼頃には着くと書いてあったから、まだ少し余裕はあるはず。
きっと船旅で疲れているはずだ。食事は何にしたらいいだろうか。
(やっぱり肉食いたいよなー。さすがに作るのはしんどいだろうから『子羊と杯亭』に行こうか)
なにせ、一緒の食事は一年ぶりだ。楽しみで楽しみで、なんだかそわそわする。
ピアはそんなチルにお構いなしで、カバンの中からがさがさと書類を取り出した。
「そういえばチル、わたしあなたに頼みたいことがあったんだけどぉ…。
そう! それより! この前バッシュ卿の夜会にいたぁ?」
突然思い出したらしいピアに言われて、チルは思わずその顔を見る。驚いてぱちぱちと瞬きをした。
「やっぱりぃ。ルッソがとっても綺麗なお嬢さん連れてるから、誰かなぁって思ってたら」
「姐さん、あの場にいたのか!?」
「ええ、給仕役でねぇ。大公様がいらっしゃるので、警備に駆り出されたのよぉ」
普段、チルはあまり表舞台に経つようなことはない。だがなぜかルッソがパートナーが必要だと言い出し、チルはひさびさに着飾らせられて引き摺るように連れていかれた。
最初はこの国の国主、ワルド大公の警備のためかと思ったのだが。
「びっくりしたわぁ。どこのご令嬢かと思ったのよぉ。しかもあのお化粧って、ルッソの技よねぇ」
「そうだよ、なんか無理矢理、命令だって」
つい不貞腐れたような言い方になってしまう。
実際、あの場には何人か顔見知りもいたのだが、おそらく彼らには気が付かれていなかったと思う。城の連中の中には、未だにチルのことを男だと思っている者もいるらしい。
ルッソにさんざん塗りたくられ、その上着飾ってコルセットやらアクセサリーやらガチガチに装備を固められた。普段とまるっきり違う容姿になっていたのだが、どうやらピアには気がつかれていたらしい。
「やーん! とっても可愛かったわぁ! わぁん、どうして付き人に指名してくれなかったのぉ!」
ピアが頬を染めて興奮して言うので、思わずチルは一歩引く。がたり、と背後の戸棚に肘がぶつかり、何かが落ちた。
「つ、付き人って貴族のお嬢さんがつけるようなもんだろ?! 俺には必要ねーよ!」
「そんなことないわよぅ。貴族って面倒なんだから。わたしが付いてたら多少は…ねぇ?」
ねぇと言われても。
こう見えてもピアは北のどこかの国の伯爵家の令嬢だ。確かにそういう駆け引きには慣れているだろう。だが、チルには全く関係ない世界の話だ。
チルが意図を図りかねているうちに、ピアがそっとため息を吐く。
そしてぐいっとカウンターに身を乗り出し、チルの顔を覗き込んだ。ついでに盛りに盛った乳房がカウンターにのり、思わず見入ってしまう。巣のピアはここまで大きくないので、どうやって作ったのか知りたい。知ったところで用途はないのだが。
(それより小さくする方法を知りてーな)
チルの思考を読んだのか、ピアがぷうっと頬を膨らませる。
「ちゃんと話を聞きなさい、チル。あの時、大公様に何か言われたでしょう?」
ピアがチルの顔を覗き込むようにさらに首を傾げる。
あまりにも近かったからか、ピアは一瞬のチルの緊張に気がついたようだ。
「やっぱり、何かあったのねぇ」
気遣うような声を聞きながら、チルは全く関係ない窓の方を見る。この話はしたくなかったが、ピアは追求を緩めない。
「まぁ大方、例の坊やのことでしょう? 大公様、あの子を取り込もうとされているものねぇ。何を言われたの? 兄貴はそのことを知ってるの?」
チルは矢継ぎ早に質問するピアを見据えた。
「姐さん、あいつはこの店に来る時はただの『坊や』なんだ。だから、そう言う話はここでしないでくれ」
「そうは言っても…。あなただって巻き込まれているじゃぁない。それに」
言いかけたところで、チルの手が伸びてピアを止めた。そしてもう一方の手は、素早く鏡の入った布包をカウンターの下に押し込む。
ピアはそれを見届けてから、店の入り口のドアへと視線を移す。
その直後、アロイス雑貨店の扉が大きく開いた。
お読みいただきありがとうございます!
しょっぱなからちょっと重い表現があり、すいません。
お色気担当のフリをしたピアの登場です。
面白そうだな? と思っていただけましたら、嬉しいです。
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