【序】 緋虎の鏡
暑くて気だるい夏は終わり、街は秋の祝祭で賑わっていた。
広場では露天商が店を並べ、交易港らしく大陸中から届いた色とりどりの商品を並べている。
数年ぶりのお祭りに歓喜した民の前で、大陸の西からやって来た旅芸人達が愉快な技を披露していた。
そんな活気あふれた広場から少し離れた、林の中。
有事のため、街の中にあえて残してある木々の中はひんやりと肌寒い。その木立の間、両手で小さな幼子を抱えた娘が、おぼつかない足取りで歩いていた。
明るい鳶色の髪は全く手入れされておらず、着ている服も季節に合わない薄いワンピース一枚に、持ち物も肩にかけた布の袋ひとつだけ。ただ真っ直ぐに前を見る朱紅の瞳は、木漏れ日を受けてきらきらと光っていた。
ひどく痩せているが、下腹部だけが大きい。臨月が近い、妊婦なのだ。
彼女は数歩歩いてから、盛り上がった木の根に躓いて膝をつく。そして子供を守るように、そのまま後ろに尻餅をついた。そに衝撃で、服の中に隠してあった紫水晶のネックレスが飛び跳ね、彼女の痩せた胸の上を転がる。
「…びっくりした。おちびちゃん、大丈夫?」
彼女は朱紅の瞳をぱちぱちと瞬きながら、慌てて子供の顔を覗き込んだ。
優しい手つきで子供の金色の髪を撫で、自分の肩にひっついていた子供の顔を上げさせる。子供は驚いたような、不安そうな目で娘を見上げているが、痛がるような素振りはない。
安心して彼女はそっと息を吐く。
そして幼子の紫色の瞳を愛おしげに見つめた。
「転んじゃった。ドジなママだね」
くすくす笑いながら言うと、幼子の表情が柔らかくなる。そのふわふわとした頭髪を撫でるだけで、彼女の心が温かいもので満ちていく。
「もうきっとだいじょうぶだよ。ユーリのところに帰ろうね」
そう言いながら、彼女は周りを見渡す。心のうちは不安でいっぱいだったが、それを顔に出してしまうとこの子が怯えてしまう。彼女の息子はとても聡い子なのだ。
ここはいったい、どこなのだろう。
それに…と思いながら、膝や臀部の痛みを無視し立ち上ろうとする。だが、ますます大きくなったお腹は重い。一度座り込んでしまうと、立ち上がるのはとても大変だ。
きっと、あと数週間でこのお腹の子は産まれてしまうのだろう。
こんなふうになってしまった自分は、帰る場所などあるのだろうか。
そんな不安を、ぎゅっと心の中に押し込める。
せめて息子だけでも、彼のところに連れていかなければ。
「おちびちゃん、歩ける?」
子供はこくりと頷くと、彼女の前に立つ。そのまましっかりした足取りで先に行くので、彼女は慌てて木の幹にしがみつきながら立ち上がった。
「待って、今行くね」
息子はあまり喋る方ではない。今も立ち止まって、心配そうにこちらを見ていた。この半日、ずっと歩き詰めで二人ともだいぶ疲れていたが、日が落ちる前に安全な場所に行きたい。
そしてここしばらく、まともな食事を摂っていなかった。せめてこの子だけでも、何か食べさせてあげなければ。
何歩か歩こうとして、またすぐにその場に蹲ってしまった。酷く腰が痛い。荒い呼吸を繰り返す彼女の体に、息子がしがみついた。
「だいじょうぶ。ちょっと休ませてね」
子供はこくりと頷く。
紫の瞳が不安そうに揺れていた。
「大丈夫かい」
彼女は痛みを堪えるのに必死で、その男が近づいてきていたことに気が付かなかった。声をかけられて初めて、その存在を知る。
顔を上げると、波打つ赤みがかった黒髪の男が立っていた。歳の頃はよくわからないが、彼女の夫、ユーリよりはだいぶ年上のように思える。
「だいぶお困りのようだね。何かお役に立てることはあるかい?」
彼はそう言いながら、ゆったりと微笑む。紅葉した木の葉のような色の瞳が優しげに弧を描き、親しみやすい雰囲気を纏っていた。着ている服はだいぶ高級な物のようなので、おそらくこの男は貴族だ。
「はい…。こんにちは」
彼女はこてんと首を傾げて、男を見返す。だいぶ惚けた返答だが、彼女は真剣だった。
この男が何者なのかがわからない。助けてくれそうな様子だが、その言葉を素直に信じて良いのか、判断がつかなかった。
男は一瞬笑いを堪えたような顔をしてから破顔して、彼女を見る。
「…もうすぐ日も落ちる。どこかに行くなら、送ろうか?」
この問いかけに、彼女はゆるゆると首を振る。
「どこにも行く宛、ないので」
何かを不安に感じたのか、息子がしっかり彼女にしがみついた。
「だいじょうぶ、です」
男の言葉は優しい。その笑顔も、とても柔らかいものだった。だが、何かが彼女の心に引っ掛かる。
痩せた息子の体を引き寄せて、警戒感を露わに男を見返した。
「じゃあ尚更お困りじゃないか。私は宿を経営しているので今夜はそこで休まないかい? 美味しい食事も準備できるよ。その子は君の息子かい? お腹が空いているんじゃないか」
男はそう言いながら、二人に一歩近づく。
もしこの痛みがなければ、彼女は子供を抱えて一目散に逃げ出しただろう。だが、今はそれが出来ない。
「この子はわたしの、弟です。…だいじょうぶだからっ!」
彼女が叫ぶのが早かったか、男が手を伸ばすのが早かったか。
男は息子の手を強く引き、彼女から引き剥がす。子供が初めて、声を出した。
「おちびちゃん!」
「勘のいい女だな」
男はそう言いながら、息子の口を塞ぐ。ぐもった子供の声に、彼女は悲鳴をあげて、立ち上がった。男に掴み掛かる。
「…お前、ナディアだな。皇帝の愛人だろう。こいつが今帝国中で捜索されている、エアハルト殿下か」
男は酷薄な目で彼女を見つめる。彼女は大きく被りを振りながら男から息子を取り返そうとした。
「違います! その子はわたしの弟! そんなご身分の方は知りませんっ!」
男は容赦なく、彼女を蹴り飛ばした。あっさりと地面に倒れた彼女を見下ろし、男は口元を歪ませる。
「このガキの存在で、皇帝を引き摺り下ろせるからな。そりゃ、大公家の連中も必死に隠すわけだ」
「違う!」
地面に転がる彼女は立ち上がれず、それでも男を睨みあげる。子供は暴れながら抵抗しているが、男が乱暴にその腹を殴った。ぐったりした息子の姿に、彼女は悲鳴をあげる。
「…まさか皇帝が、こんな子供を孕ませたとなれば、そりゃとんでもない醜聞だ」
呆れたように男が言うが、娘の耳には届いていない。ただ、真っ青な息子の顔だけがその朱紅の瞳に映る。
「今日はろくでもない日だったが、最後にいい拾い物をしたな。さて」
男は剣を抜く。
「お前が姿を晦ませたのは去年だったと思うが…その腹の子は皇帝の子ではないな?」
男は確認するように言うと、剣を振り上げる。
その剣が振り落とされる刹那。
ざっと男の背中を何かが掠めた。
「っ…!」
男が慌てたように振り返るが、そこには何もない。
「なんだ…!?」
男が困惑した顔で周りを見渡す。倒れた女と物言わぬ樹木以外、何もないというのに。
再び、男の背中を何かが襲う。
今度ははっきり、痛みを感じた。焼けるような激痛が背中に走る。それと同時に、男は膝をついた。
「なんだ!?」
恐慌状態に陥った男の腕から、強い力で子供が奪われる。顔を上げると、先ほどまで倒れていた女が子供を抱えて立っていた。
その朱紅の瞳が怪しく光る。まちがいなく、陽が翳った森の中ではっきりと光を放っていた。
赤く光る瞳は、魔物の証。
かつて知識として教わったことを思い出し、男は戦慄した。人の姿をした魔物の話など聞いたことはないが、まさか。
男が女に剣を突きつけたが、女は子供を抱えたまま、妊婦の動きとは思わないほど素早く後退る。そのまま、真っ赤に光る目で男を睨み据えた。
「お前は…何者だ」
男の声が震える。
娘は何も言わない。獣のような足取りで、ゆっくりと男から距離を取る。その姿は、ひどく不気味で、男は一歩も動けない。
そうして娘が視界から消えた頃、ようやく男は自分が女から奪った布袋を持っていたことに気がついた。
男はそれを放り投げた。不気味な女の持ち物だ。気味が悪くて仕方ない。
地面に落ちた袋からひとつ、何かが転がって乾いた岩の上を転がった。思わず、男はそれを目で追う。
鏡だった。
手のひらに乗るほどの小さな鏡。
男は立ち上がり、それを拾い上げた。小さいのに、重い。裏側には見事な虎の模様が描かれていた。
「…これは」
呟いた男はまだ知らない。
自分の背中に、まるで獣の爪痕のような傷が交錯するようについている事を。
そしてその片方は深く、一生彼の背中から消えることがない事を。
いつみお読みいただきありがとうございます!
感謝です…自分ですごく楽しんで書いているので、読んでいただけるのは本当にありがたいことだと感動しております。
第ニ章開始です!
第二章はちょっと趣味に走りすぎた…? と反省しておるシロモノですが、どうぞ宜しくお願い致します。
明日もよろしくお願い致します!