第4話 甘ったれのままで
船はまっすぐに、大河の流れに逆らって走る。
イーアは船縁にひっついたまま、流れる景色を放心状態で見ていた。
今イーアの乗っている船は、東の沖合にある諸島王国の所有する、大陸最速の技術を持つ船乗りのものだ。水面を滑るように移動しながら、真っ直ぐに皇都へと向かっている。
帝国の首都、皇都エンデルは巨大な三つの湖に隣接する都市で、その湖からは大きな3つの大河が流れ出ている。
この川は蒼河、三つのうち一番距離が長いと言われている運河だ。ワルドの公都メアーレから、この河をまっすぐに登れば皇都に着く。
陸路では、整備された大陸道を使っても数ヶ月かかる旅も、この船を使うと僅か十日程度で済んでしまう。
百年ほど前に、とある魔女が開発した魔導具『風伯』を使えば、船は波風に逆らって進むことができるのだという。かなりの大型の船でも河を遡って皇都まで行けるので、ゴルデン大陸の移動手段として船舶の果たす役割は大きい。
その中でもこの諸島王国の船の速さは突出している。今も船を操っているのは諸島王国の伯位を持つ者で、風伯の使い手としては大陸でも最も腕が良いらしい。そういえば風伯を作り上げた魔女は、彼の祖母ではなかっただろうか。
(…流石、としか言いようがないけど)
そこまでぼんやり考えていたイーアだったが、再び込み上げるものがあり身を乗り出す。もはや吐けるものは全部吐いてしまっているので、にがい胃液だけを苦しみながら吐き出した。
「大丈夫か? イーアは船には強かったのになぁ」
背中を心配そうにさすりながら、アルが話しかける。申し訳ないが何も返答は出来ず、イーアはただひたすらえずいた。
なんとか落ち着いて、差し出された水を口に含む。苦しい呼吸をくりかえし、ため息を吐いた。
「昨日、全然眠れなかったから」
なんとか絞り出すように言うと、アルが口角を跳ね上げた。その深緑の瞳に好奇心を滲ませて、にやにやと笑う。
「やっぱりそうかー。いやー、男になったなイーア」
「違うそうじゃない!!」
変な誤解はしてほしくない。慌てて声を上げると、アルはとたんにつまらなそうな顔をした。
「なんだ。まだかよ」
「…アル、昨日チルが僕の部屋に来たのに気がついていたね?」
「うん、まぁ俺が寝てる横、登ってたからなぁ」
イーアは再び込み上げるものを堪えながら、思いっきりアルを睨む。
「どうして止めてくれなかったんだ」
アルは困ったように眉を下げる。
「悪い、俺もすっかり寝入っちまって」
嘘だ。
イーアは悪びれた様子もない顔をまじまじと見て、それから深くため息をつく。
結局、チルは夜明けまでイーアの後ろで眠り、明け方のまだ暗い時間に、来た時と同じようにそっと帰った。
今朝の見送りの時も何事もなかったように、いつもと同じようにチルは笑っていた。それがイーアには面白くない。
まぁ、それよりもとんでもない事があったのだが。
今朝、ルッソが例のメイド服を着て見送りに出てきた。その姿が、なかなか衝撃だった。
一瞬、誰かわからなかった、黒い長髪の美女。
腰の辺りまで伸びた黒髪に、しっかりと化粧されたその顔。ぱっちりと開いた目は黒い睫毛で縁取られて、その瞳は綺麗な蒼玉の色だった。
『ルッソ!?』
瞳の色は確かにルッソのものだ。
だが、理解が追いつかず、イーアはただひたすら混乱した。
ルッソは若い女性が接待するような店の経営を手伝っているそうで、いかにもそう言う店の服、と言ったメイド服を見事に着こなしていた。長い手足を惜しみなく晒し、短いスカートの下には太ももの半ばまでの靴下を履いてる。
細いウエストに、控えめだが女性らしい胸元。そこにいたのは、いつも細目でへらへらと笑っている男ではなく、ひと目見ただけで強く印象に残るスレンダーな美女だった。
その姿でいつもと違う声で、艶っぽく流し目で。
『いってらっしゃいませ。ご主人様』などと言うのだから。
思い出すだけで、イーアは再び吐き気を催す。
見慣れているのだろう。
チルたちは大笑いしていた。よほどイーアの驚いた顔が面白かったのだろう。
忘れていたが、ルッソも『蒼眼の鷹』の一人なのだ。あの変装が文字通り朝飯前なのだから、相当やり手の方なのではないだろうか。
「いったい彼は何者なんだ…」
イーアが苦しげに言うと、隣に座るアルが首を傾げた。
「あいつはガキの頃から仕事をしてたからな。イーア如きではどう頑張っても敵わんだろうさ」
アルはからからと笑う。
イーアは無言でその顔を睨みつけた。
「いいか、イーア。チルもそうだが、あいつらは『そういう存在』だ。俺たちはああいう連中をうまく使わなきゃいけない。でないといつか、誰かに必ず足元を掬われる」
アルの口調が真剣なものになった。イーアはまじまじとその顔を見つめる。
「これからお前に近付いてくる連中は段違いに増える。保身のため、お前を食い物にするため、いろいろな形で、お前を利用しようとするやつが増える。それはわかっているよな」
アルの意図が読めないまま、イーアは頷く。
「もちろんお前を陥れようとするやつだって現れる。利用するにしろ陥れるにしろ、お前に不利益になる事から俺はお前を守る義務がある。だが俺一人では限界があるな。だから、チルをお前に会わせた」
「…アルが何を言いたいのかが分からない」
イーアの言葉に、アルが困ったように笑った。
「チルは裏稼業の人間としては半人前だ。今の団長は、あいつを表の世界に戻したがっていたからな。だから、そう言う仕事はあまり期待できない。だが、あいつは女で、女にしか出来ないことがある。…あいつはわかってると思うぞ? そのためにイーアと引き合わされたってな」
イーアは思いっきり顔を歪める。これ以上吐きそうな話を聞きたくなかった。
「それ以上言ったら、僕はアルの事を軽蔑するけど?」
自分で思っていた以上に冷ややかな声が出た。
アルは少しだけ眉を跳ね上げて、イーアを見返す。
「確かに、僕はそれほど優れた人間ではないからね。罠に嵌ったり、利用されたりするだろう。けど、そんなふうに誰かの人生を消費するのなんて絶対に嫌だ」
「おいおい、お前が堕ちたら俺まで巻き込まれるんだが?」
呆れたように言うアルを、イーアは下から睨め上げる。
「アル、君は僕に属す者だ。体の一部だね。…それくらいの覚悟を持て」
不服そうに眉を寄せる優男を見上げながら、イーアは笑う。
「心配しなくて良い…そう簡単に間違えたりはしないよ…。僕だって、自分の責任くらい理解している」
「そんな乳臭いセリフを言っていられるうちは良いが。お前が継ぐ場所は、そう甘くはないからな」
イーアは深く呼吸しながら、目を閉じる。
船酔いのせいで気持ちは悪いし、目眩もする。アルの言うこともわかるが、やっぱり面白くない。
(…あの甘ったれを僕が使う?)
全く実感が湧かない。
(チルにはもう少し、甘ったれのままでいてほしいな)
船は軽やかに風を裂いて進む。
イーアは川面を見ながら、自分たちが子供でいられる時間がもう少し続けば良いなと思った。
お読みいただきありがとうございます!
短めの番外編はここまでで、
次回から第二部になりますが…。
その前に1話だけ、アルとルッソのお話【異想譚】を挟みます。
次回もよろしくお願いいたします。