ノエル・フライハイトのランチタイム
ティル・ナ・ノーグは貿易都市である。
湾岸に石を重ね、火を焚き、城を建てて、最後に――これが最も重要なことだが――船を置いた。
塩や砂糖、端切れ一枚あれば家族が一か月暮らせる額の反物が数々の大陸から海をまたいで運ばれる。
それはカネの循環であり、同時にこのティル・ナ・ノーグの存在価値を高めることとなった。
今となってはこの街無くては世界の経済は成り立たないほどの重要拠点へと変貌していた。
とはいえ地元の人間は人口三万人中わずか一パーセント。この街を動かしているのは外国人労働者である。
なぜならここは雇用の自由を完璧に保障してくれる世界有数の経済特区だからである。
世界中から富と宝と人が集まる街――それが常若の国なのだ。
さて、この経済特区にはもう一つの特徴がある。
エルフ、ドワーフ、ホビット、ケンタウロス、アーラエ、海坊主、サキュバス、ヴィーヴル……。
ありとあらゆる人種のるつぼたるこの街は、当然ながら多種多様な文化が複雑に絡み合っている。
数少ない共通点をあげるとするならば、労働は最高の調味料ということだろうか。
何が言いたいかというと――
ここのごはんはとっても美味しいのだ。
さて、ここで注目してほしい。
据え置かれた噴水。白い大理石で作られた泉の受け皿にコインを投げ込むと願いが叶うなんて言い伝えもある。
街を四分する十字路の中心に位置するそれは――まさにティル・ナ・ノーグの中心であり、豊富な観光スポットの一つでもある。
とはいえ注目してほしいのは噴水ではなく、そばのベンチに腰かけている少年である。
少年の名はノエル・フライハイト。
童顔で華奢だけど可憐な印象はない。むしろ筋張った手が彼を“男”だと証明しているくらいだ。
日に焼けたレンガのような色をしている髪から零れる耳。
金のピアスが付いたその耳をよく見てみればかすかに尖っていて――わかる人が見ればすぐにわかるだろう。
彼が人間ではないと。
もっとも、ティルナノーグに住む者の9割が“そう”なので、あまり目立たないけれど。
彼の整った顔立ちには憐憫が浮かんでいることが多い。
とはいえ、今日のノエルは上機嫌だった。
彼が今抱えているのは紙袋。されどただの紙袋にあらず。
人気のパン屋“ラ・ルセーヌ”の限定クロワッサン。それが二個、彼の手元にある。
朝早く起きたので偶然買えたのだ。この時間が来るまでずっと楽しみにしていたのである。
袋を広げるだけで香ってくる小麦と火の風味。
食欲をそそるには十分な香りであろう。
クロワッサンは二個。まずは一個をしっかりと味わって、適度に腹を満たした後でより一層パンの風味を味わう。完璧なランチプランだ。
そっそくクロワッサンを一つ選んで口に運ぼうとしたその時。
「やあノエル」
突然の来訪者によって、ノエルの至福は止められた。
「ヨハン……?」
いきなりくさびを打たれたノエルは驚きながら相棒の名を呼ぶ。
整った美貌に真紅の髪。細身の長身はさながら研ぎ澄まされた長剣のようだった。
彼の名はヨハン・ペタルデス。
その道では有名な情報屋である。
常に柔和な笑みを絶やさないリアリスト。
そんな彼をあえてあげつらうとするならば――
「それはクロワッサンかい? ちょうど空腹だったんだ」
ひどく利己的でマイペースなところがある点だろう。
「お前に買ったんじゃないんだよ! おい待て!」
いったいどんな手品を使ったのか。手にしていたクロワッサンはいつの間にかヨハンの手の中――気のせいか、手袋に包まれた指は金属で出来ているように見える――に納まっていて、ノエルが止める間もなく口の中に押し込まれていた。
硬質な音を立てながら手を振って、ヨハンはその場から立ち去っていく。
取り残された形になるノエルはぽつんとベンチの隅にいた。まるで最初から自分以外居なかったかのような錯覚すら感じる。
ノエルは無言で袋を見下ろす。
すでに楽しみは半分になってしまっている。仕方ない。半分に割って食べることにしよう。
しかしある学者いわく、いいことの後は悪いことが起こる。悪いことの後も悪いことが起こる。
その学者の格言をノエルは身をもって思い知ることとなった。
「やあノエル」
さっきまでヨハンが座っていた席に、別の相手が来訪してきたのだ。
「アクチェ……」
心底いやそうな顔でノエルは隣のヴィーヴルを見つめた。
小柄な体格に合わせてしつらえた高級スーツ。大人びた格好にそぐわぬ幼い顔立ち。
頭から生えた羊のような角と、顔の半分を包む仮面が、彼が人非ざるものであることの証左。
アクチェ・ヴァルカ。ノエルの雇い主である。
もぐもぐもぐもぐ。
「……お前、何喰ってんの?」
「ふぁへへない」
「ほおばってんだろ俺のクロワッサン!」
ノエルの楽しみをかみ砕いて嚥下した少年は、ノエルの目をしかと見たうえで悪びれることなく肩をすくめた。かなりムカつく。
「炭水化物は糖質も多いし眠気を誘う。だから君のために身を犠牲にしているんだよ? 君、感謝って言葉を知らないのかい?」
「図々しいって言葉知ってるか? 何なら今すぐ剣で頭蓋骨に刻んでやろうか!?」
彼の名誉のために言っておくが、普段のノエルはもっと温厚だ。
ただ単にこのヴィーヴルが人を怒らせる才能に秀でているというだけである。彼の前では慈悲深い善人ですら憎悪に濡れる。
「ごちそうさま」
「いやお前何しに来たんだよ!」
嫌がらせをして満足したのか、ファッキン雇い主は厚いコートを翻して立ち去っていく。
コートにはポケットが多くついていたり、靴底はゴムになっていたりと金を持っているわりには実用的なつくりになっている。まるで常に逃げられる準備が出来ているかのような……。
「…………」
ノエルはしばらく時間が止まっていた。
噴水の水音だけがむなしく響く。
袋の隅に残っていたクロワッサンがひとかけら。
これが今の彼のすべてである。
残ったそれを口にしようとして、気づく。
ノエルが座っているベンチの前に、“それ”はいた。
正確には一人ではない。一匹だった。
子猫程度の大きさだけど、猫よりも毛並みは良い。
翼のような長い耳。
ガートと呼ばれる愛玩動物でティル・ナ・ノーグでは、幅広い層に愛されている。
桃色だった毛並みはすっかり汚れていて、独り佇んでいるように見える。
「……おまえ、ひとりか?」
言葉が通じるわけでもないけれど、それでもノエルは話しかけていた。
それは心を埋める儀礼のようでもあった。
「俺もだ」
それから、残り少ないクロワッサンを放り投げる。
放物線を描いて飛んでいくそれを、ガートは器用に口で受け止めた。
久しぶりの栄養なのだろう。おいしそうにそれをかじっている。
やがてガートは嬉しそうに路地裏へと駆けていく。
その先にはそっくりな、だけどより大きな体のガートが待っていた。親なのだろう。
裏切り者、とノエルは愉快そうに照れる。
「あれ? ノエルくんだ」
見られていたことに気づいて、ほころんでいた顔を引き締める。
そこにいたのは、ガートと同じ色の髪をした少女だった。
「クラリスか……」
隣りいいかな? とクラリスと呼ばれた少女は問いかけた。
「“くん”は良いよ。なんかくすぐったい」
言いながらノエルは席を空ける。
クラリスは隣に腰掛けると、あるものに目を止めていた。
「あ、それクロワッサン?」
ちょっと待てお前もかとノエルは戸惑う。あげようにも中身は空なのだ。
抗議を上げる前にクラリスが紙袋を掲げていた。それはノエルが持っているものと同じものだった。
お揃いだねとクラリスは笑う。
心なしか、その袋はノエルのよりもずっと大きく見えた。
羨みではなく実際に大きかった。たぶん本人が買ったのではないのだろう。優しい両親がいるのか、それとも――世話焼きの親友か。
早速ランチにありつこうとしていたクラリスの目が鋭くなる。
普段ふわふわとしている彼女から放たれていると思えないくらい、その光は硬かった。
視線の先にいるのは怪しげな男。
ノエルも見覚えがあった。店に貼ってあった似顔絵。だけどキャンペーンポスターの類ではない。ポスターに描かれていたイラストは笑顔ではなかったし、下に沢山の丸ーー金額が添えられていた。名前よりもでかでかと。
つまり、賞金首だ。
クラリスは普段こそ摘んできた花を売っているが、生計を立てるためにギルドの仕事にもかかわっている。
その一つが賞金稼ぎというわけだ。こう見えて彼女は結構弱くない。
「これ預かって!」
紙袋を押しつけると、身軽になったクラリスはひょいひょいとベンチや石垣を飛び越えていく。まるで重力から解き放たれているかのようにその足取りは軽い。
「ちょっと待てよ! どこに置けばいいんだよこれ!」
押し付けられた袋に狼狽えるノエルに反して、クラリスは背中を向けたまま手を振って、
「お腹の中にでも入れちゃえば?」
何でもないことのように言って消えていった。まるで蝶のように。
「…………」
噴水の水音が愉快そうに撥ねる。
やることもなくなって、ノエルはベンチに腰を落ち着けて袋の口に指をかける。
香ってくるのは小麦と野菜と肉の香り。
自分が買ってきたよりもずっと豪華で沢山あって、しかも焼きたてだった
それが全部自分のもの。
今日はいい日になりそうだった。
もっもっもっもっ。
ノエルが幸せを噛み締めている間、遠くから賞金稼ぎ達の声が聞こえてきた。
どうやらクラリス以外にも仲間がいたらしい。
「ティーア! ありったけのナイフ投げて!」
「分かった!」
「刺さってる! あたしにも刺さってる!」
もっもっもっもっ。
「アタランテ! 構わないから火炎放射!」
「クラリスぅぅぅ! あたし火葬になっちゃう!」
「おっけー」
「いやあああああ! チャーシューにされるううううう!」
もっもっもっもっ。
「このアマがどうなってもいいのか!?」
「選択は二択! 1! ここで人質殺して天馬騎士団に捕まる。2! ここで私のナイフを受ける!」
「3。みんな仲良く和解でもいいと思うなぁ」
「ミーナはここで死ぬ覚悟できてるから!」
「覚悟してない出来てない! 死んじゃう! このアマ死んじゃう!」
「お前黙ってろ!」
「きゃっ!」
「てめえクラリスに何すんだコラア!」
「なんだこの人質いきなり元気になって……止めて殺さないでぎゃああああああああああああああ」
「大変! ミナーヴァが暴走した!」
「ちょっと! 賞金首四つ折りにするのやめて!」
もっもっもっもっ。
あとから知った話だが、とあるギルドが倒産したらしい。
腕利きの情報屋と羊みたいな角の貴族が動いたのだとか、そうでもないのだとか。
そして、クラリスが始めた“新事業”も後押しとなっていた。
そのせいで、クラリス・リベルテがこれまでにない不幸と直面することになるのだけれど。
それはまた、別のお話。
最後の「もっもっ」が書きたかった……っ!
ノエルくんに幸あれ!
【ゲストキャラクター】
ノエル・フライハイト (Noel Freiheit) creator: ひかりごけさん
クラリス・リベルテ (Clarice Liberte) creator: (上記と同じ)
ヨハン・ペタルデス(Johan Petaroudes) creator: ヤスヒロさん
【声だけの出演】
ティーア・ヘンティネン(Tiia Hentinen) creator: 長月マコト(相良マミ)さん
アタランテ・フィービー(Atalante Phoebe) creator: タチバナナツメさん