第31話 地獄の番犬ケルベロス その2<ケルベロスの逆鱗>
マユミさんはその体勢のまま動くなと言う。このムニュッとした感覚と甘い香りを楽しめということだろうか? そんなバカな……。
「あの……、えっと……」
「ダメ甚くん、コンタクトがずれちゃったみたいだから、少し待っててね♡」
何だコンタクトレンズがズレただけか。僕はホッとして力を抜いてゆるゆると上半身を起こそうと動き出した。
マユミさんはそのままの格好でゆっくりとコンタクトを直している。傍から見ていると、涙を拭いているようにも見えなくもないかも。――そう僕が思った時だった。
「甚……ねえ何やってんの……アンタ……」
後ろの方から聞こえてきたのは那智によく似た声。声のトーンからするとかなり怒った那智のように聞こえるけれど、きっと空耳だろう、いや空耳であって欲しい。
「ほう……、度胸があるじゃないか、岸本……」
次は神楽坂先生の声で空耳ですか? 空耳に返事をするのも何ですけれど僕は何も度胸なんて無いですよ、ねえ神楽坂先生。
「せんぱい……、なん……で、そんな……」
ああ、ついに三人お揃いで空耳か……、でも空耳にしては空気が振動し始めてるな。どうやらこれは本物らしい。
空気の振動で嫌な現実を受け入れた僕は、恐る恐る振り返る。
そこには那智、瑞希、そして神楽坂夏美先生27歳。三人が地獄の底から湧き上がるようなオーラを湛えて立っていた。
ちょっとまって、なんで三人で地獄の番犬ケルベロスみたいになってんの? 阿修羅マンに例えていいけど、なんで三面とも怒りの面になってんの? 一人ぐらい笑いの面でもいいんじゃない? だって僕は一人で場所取りしてたんだよ! ねえ、ねえってば!
僕は立ち上がってゆっくりと距離を取り始めた。どうやらマユミさんのコンタクトも元通りになったようだ。良かった、これで事情を説明できる。そんなことを思っていたら。
「甚く~ん、ごめんね~、お連れさんが来たみたいだから、じゃあね~」
僕の一縷の願いは打ち砕かれ、マユミさんはお友達のもとへと大きな胸を揺らして去っていった。ケルベロスのうち二つの顔は、マユミさんの大きな胸を見て不機嫌さがさらに増したご様子。
「え、ちょっとまってマユミさん……」
立ち尽くす僕のところに、ついに地獄の番犬ケルベロスの怒りが降り注いできた!
「甚! アンタね、私たちと来ていながらっ!!!」
「岸本、今度こそ婦女暴行か!? それとも何か、大きければ大きいほどいいって言うのか!」
「せんぱい……、なんで……、なんで……」
まてまてまて! 話せばわかる、キミたち話せばわかるっ! これは誤解だから話せばわかる、世の中対話だ、対話が重要なんだっ!
「きしもとせんぱいのバカーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
大きな口を開けて叫んだのは確かに瑞希だった、これは完全に爆発のパターン。
こんなところで爆発すると人目につくじゃないか、でも芝生広場だからクレーターぐらいで済むか……、巻き戻した時にどうやってごまかせるだろう。
ところがどっこい瑞希の様子を見ているといつもと違う。
瑞希の周りの土はえぐれずに、僕の方へまっすぐに地割れのようなものが進んできたのだ。
ちょっとまって、これって新しいパターン? 参考書で見るような『新傾向』ってやつ? そんなの聞いてないよ、もしかして衝撃波が僕にだけ向かって来てるの!?
僕の目にはスローモーションの映像のように衝撃波がやってくる、もう少しで僕に届く。――と、その時、広場の誰かが遊んでいたバレーボールの球がポーンと飛んできた。
目の前で衝撃波がバレーボールに当たる、衝撃波を受けたバレーボールはグニャリと変形し、もの凄いスパイクとなって僕の腹にめり込んできた、ボールとともに吹っ飛ばされる僕。
身体が宙を舞いそのまま芝生に背中からゆっくりと落ちていく感覚、腹も痛いが背中も痛い、あまりの痛さに僕は呼吸も出来なかった。
スローモーションが解け、ケルベロスの三人が驚いた表情で僕の所に走って来た。真っ先に駆け寄って来た瑞希はキュロットスカートをはいている。地面に寝ている僕が首をあげると青いストライプのパンツ、――いわゆる縞パンがキュロットの隙間から見えていた……。
――いいか瑞希、キュロットスカートだからって気を抜いちゃダメ、だぞ……。
痛いけれどもこれだけは心のメモリーに焼き付けなければ……。
そんな僕の努力もむなしく目の前が真っ暗になって、意識はそこで途切れたのだった。