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寝取られた恋人が戻ってきた、が……いまさらもう遅い  改訂版

作者: 青水

 寝取られ。

 そんな現象は、漫画や小説といった物語の中でしかないものだと思っていた、つい先日までは……。


 ◇


 その日、バイトが予定よりも早く終わった俺は、特に行きたいところもないので、すぐに我が家に帰ってきた。

 さてドアを開けようか、というときに――微かに声が聞こえた。声は隣の部屋じゃなくて、我が家の中からだ。


 ……声? どうして、声が……? 

 俺は首を傾げ、不思議に思った。我が家に誰かいるとしても、それは恋人くらいだ。恋人が一人で声を――いや、違うよな……。

 一体、どういうことなんだ……?

 気のせいだろうか、と思い、ドアに耳をべったりとはり付け、目を閉じて、集中して中の声を聞いてみると――。


 あっ、という喘ぎに似た声。


 ……ん? あ、喘ぎ声? 

 気のせいか? ……いや、気のせいじゃない。

 俺は眉根を寄せて考える。


 はて、俺は出かける前に、アダルトなビデオを見ていただろうか? そして、大音量で流れたそれを放置して出かけただろうか?

 否、そんなことはない。ありえない。絶対にない。

 現実を見なさい。でも、直視できません。

 だから、他の可能性を考えてみることにした。


 たとえば、我が家にカップルの空き巣が忍び込み、金目のものが大してないことにがっかりして、でも何も取らずに何もせずに撤退するのは嫌だな、と他人の家のベッドで背徳的な性行為をする。

 ……ありえないな。絶対にありえない。馬鹿馬鹿しい。そんな想像はナンセンス。


 俺は音を出さないように、異常なまでにゆっくりと静かに鍵を開けると、麻薬の売人を現行犯逮捕するために突入する警察官になったような気分で、ドアノブを音を立てないように捻り、大きく息を吸い込み覚悟を決め、思い切り勢いよくドアを開けた。


 靴を脱いでいるような時間と余裕はない。色褪せたスニーカーを履いたまま、廊下を三歩で、三段跳びをするように跳び抜けて、廊下と部屋を隔てるドアを、やはり勢いよく開ける。そして一言――。


「何やってるんだ!?」


 ナニをヤってるかなんて、一目瞭然だったが、形式的に確認するために、そんな声を上げた。ベッドでは夕方だというのに、男女が生まれたままでプロレスを行っていた。男は知らないやつで、女はもちろん知っている。俺の恋人のカオリだ。

 突如として乱入してきた俺に驚愕を隠せないカオリは、


「タクマ!? え、どうしてっ!?」


 と、大きく声を上げた。混乱もしているようだ。


「あれ? だって、確か今日のバイトは8時までじゃ――」

「店長が『店が空いてるから、今日はもう帰れ』って。それで帰ってきたら、これだよ。おいおい、どうなってやがるんだ、これは?」

「ち、違うの……」


 カオリは小刻みに首を振って否定した。

 今更、そんなこと言い訳じみたことを言おうとしても、何の意味もない――それどころか、マイナスに働くっていうのに。せめて、素直に認めろよ。


「違うって、何が?」


 俺はキレそうになるのを必死に抑えて、平常を保とうと努めながら尋ねた。しかし、その声色はわずかに怒気を帯びていた。


「い、いや……違わないけど……」


 だったら、言い訳しようとするな。


「浮気だよな。なあ、浮気だよな?」

「ごめん……」


 俺から目を逸らして、俯きながらカオリは謝った。

 そこで、チャラそうな間男くんがこちらを見て、青ざめた顔をした。彼は細マッチョからマッチョ要素を抜いたような体型で――つまり、ひょろっひょろで――、肩辺りまで伸びたぼさぼさの髪の毛は明るい茶色だった。中途半端にイケメンで、中途半端にプレイボーイそうだ。


「おい、お前」


 俺が指を差して言うと、男は慌てて――そしてビビッて――ベッドから降りた。それから、曲芸のごときスピードで、服を着ていく。


「カオリを連れて、さっさと出てけ」


 俺が冷徹に告げると、カオリがその場で土下座した。


「ごめん、タクマ。許して……」


 ぽろりぽろり、と顔をあげたカオリの瞳から液体が流れ落ちる。

 しかし、その涙に対して、俺は何も思わなかった。――いや、まったく何も思わないわけじゃなかったが、少なくともポジティブな感情を抱くことはできない。

 その涙が心から反省してのものとは思えなかったからだ。


「もう二度とこんなことしないから」

「いや、これからは好きなだけ不貞して構わないさ」俺は言った。「ただ、俺はもうお前と付き合うことはできない」

「そ、そんなっ!」


 カオリが悲鳴じみた抗議の声を上げる。


「たった一回の過ちで……」

「たった一回?」


 俺はわざとらしくはっきり言って、わざとらしくこれ見よがしに、大きくため息をついてみせた。

 やれやれ。たった一回って……。

 それが、どれだけ大きな『過ち』か、カオリはまったくわかっていないようだ。罪の大きさをわかってない。今のこいつならば、殺人を犯しても、『たった一回の過ちで……』と言いそうだ。


「俺は一回たりとも浮気をしたことはないぞ」


 それに、と続ける。


「お前、余罪がいくつかあるだろ」

「うっ……」


 俺の指摘を受け、カオリの顔が引きつった。

 わかりやすいな、こいつ。俺は思わず苦笑した。


 正直、確証なんてまったくなくて、ただの当てずっぽうだったのだが、見事に当たっていたようだ。できれば、『余罪なんてまったくこれっぽっちもないっ!』と強く否定してほしかったのだがなあ……。


「このまま、付き合っていたところで、俺たちはどこにも行けやしないさ」


 どこにも行けやしない――結婚というゴール(もしくは、新たなるスタート)にたどり着くことはない。


「それよりも、そっちの兄ちゃんとよろしく付き合えばいいじゃないか」

「う、ん……」


 カオリは間男を一瞥した後、すぐに急いで服を着た。

 二人の背中をぐいぐいと押して、俺は我が家から追い出した。俺の家は休憩数千円のラブホテルじゃあないんだぞっ!


 カオリは――そして間男も――日本語とは思えないような複雑怪奇な言語を駆使して、言い訳のようないちゃもんのような、よくわからないことをぐちぐちと言っていた。当然、そんなものは無視する。


 彼らの知能指数はどうなっているのか……? もしかしたら、浮気をすることで、知能指数がいくらか下がるのかもしれない。それか、知能指数が低いからこそ、こんなずさんな浮気をしていたのか……。頭が良ければ、もっと高度でバレにくい浮気をするだろう。


 やがて、二人は宇宙人じみた意味不明な言語を発するのをやめて、手を繋いで仲良く(?)どこかへ去っていった。


「やれやれ……」


 俺は首を振ると、生暖かい生々しいベッドを睨みつけた。汗とその他諸々でぐっしょりと汚れている。

 うわあ……。これ、どうしたものかな……。こんなベッド、使いたくねえよ……。

 はあ、と俺は大きくため息をついた。


 ◇


「――ってことがあって、別れたわけだ」


 バイトの休憩時間、俺はユイカについ先日の――生々しい浮気の現場を見てしまった話をした。

 ユイカは俺より二個下で、大学一年生だ。通っている大学は俺と同じところで、学部は文学部らしい。文学部というと文学少女然とした大人しい子がたくさんいるイメージだが、それはあくまでイメージ。彼女は日によく焼け浅黒くて、活動的だ。体育学部にいそうな感じ。まあ、それは俺も似たような感じか……。


「ほへえー」


 と、ユイカは何とも間の抜けた声を出した。


「先輩、恋人寝取られたんですかー。それはそれは……」


 にやあ、とユイカはチェシャ猫みたいな笑みを浮かべた。

 しかし、そのちょっと馬鹿にしたような笑みが、不思議と不快ではない。


「――大変でしたねえ」

「ああ、まったく大変だよ」


 俺はため息をついた。ここ最近、ため息をつく機会が増えているように感じる。感じているのだから、実際に増えているのだろう。

 ため息をつくたびに、自分が不幸になっているように感じる。幸せがどこかへ逃げ去っていくような気がする。ため息をつかないようにしようかな、と考えるが、気がつけば『ふう』とか『はあ』とか吐いているのだ。もはや、癖になりつつあるのではないか、とすら感じる。


「精神的疲労がとんでもない」

「だから、最近元気なかったんですね」

「そうか。そう見える?」

「見えますよ」


 ユイカの目にはそう見えるようだ。主観的じゃない、客観的視点。彼女がそう言うんなら、きっと俺はかなり元気がないんだろうな。


「自分で思っているよりもさらにへこんでるんだな、俺」


 ユイカはコンビニで買ったおにぎりをむしゃむしゃと食べながら、


「――ってことはですよ、先輩は今、フリーなわけですね?」


 と、リスみたいに膨らんだ頬で言った。


「フリーって、彼女がいないって意味合いか?」

「イエス」


 ユイカは大きく頷いた。


「まあ、そうだな」

「ふうん。彼女いないんだー」


 ユイカは呟くと、おにぎりをもぐもぐと食べる。

 ユイカは高校まで女子校に通っていたらしい。女子しかいない環境というのは、想像するだに恐ろしい。いかにもドロドロしていそうだ(偏見だろうか?)。だが、男子しかいない男子校というのも、いろいろな意味で混沌としてそうだ(やはり、偏見だろうか?)。

 ちなみに、俺は共学出身だ。男女比率もほとんど半々。


「そういえば、お前って彼氏とかいるのか?」

「あ、気になります?」


 ユイカはにやにやといやらしく笑う。


「私に彼氏いるか、すごーく気になっちゃいます?」


 すごーくってほどではないが、まあどちらかというと気になる。

 しかし、正直に『気になります』と答えるのも、なんだか癪だったので、


「いや、そこまでじゃない」


 と、俺は答えた。


「答えたくないなら、別に答えなくても構わないぞ」

「答えます答えます」


 ユイカは慌てて早口になった。

 んんっ、と妙になまめかしい咳払いをすると、背中に定規を入れたのかというくらい姿勢を正して、それから、俺を焦らしているのか言葉を口の中で溜めて、熟成させてからようやく言った。


「なんと…………いませんっ!」


 驚きの大発表、みたいな言い方だった。そこまで大した発表じゃない。


「ふうん」

「いません」

「そっか」

「ずっといません」

「へえ」

「……」


 俺のリアクションが思っていたよりもだいぶ薄かったからか、ユイカはけっこう露骨にがっかりした不満顔をしてみせた。

 俺は内心で苦笑しつつ、


「意外だなぁ!」


 と、オーバーリアクションで言ってみた。

 すると、ユイカはにやにやしながら、


「そうですかね?」

「お前、美人だし、言い寄ってくる男とか結構いるだろ?」

「いるかいないかで言うと、いますけど……」


 俺が『美人だ』と言ったからか、ユイカは口元を緩ませた。弛緩しきった顔つきである。表情がコロコロ変わるので面白い。


「つくらないのか、彼氏?」


 俺が尋ねると、豆鉄砲を食ったような顔をした。それから、表情を二転三転させて、最終的には苦虫を嚙み潰したような顔になった。


「好きな人がいるんです」

「へえ。誰なんだ?」


 しかし、ユイカは俺の質問には答えず、言葉を続ける。


「でも、その人には恋人がいて……」


 恋人がいて……なんだ?

 気になったのだが、しかしその後の言葉は紡がれなかった。

 食事を終えると、俺とユイカの休憩時間が終わった。今日は夜の8時までバイトがある。客が多く、それなりには忙しい。あの日とは大違いだ。


「先輩、今日は8時まででしたよね?」

「ああ、お前も?」

「はい。バイト終わったら、一緒に帰りませんか? 話したいことがあるんです」

「構わないが……」俺は言った。「話したいことって?」

「それは……」


 ユイカは言い淀む。口に手を当て、小悪魔的に微笑んだ。


「秘密です」


 ◇


 バイト終わり。

 俺たちは二人で夜道を歩いている。


 話したいことってなんだろう? 

 気になるな。だが、俺から聞くのもな……憚られる。


 俺はユイカが話を切り出すのを待ったが、彼女は黙ったまま俺の隣を一定の速度でてくてく歩いている。その顔は、緊張か何かで少しこわばっていた。普段は見せない顔だ。明るく元気な彼女にしては珍しい。


 やがて、幅の広い川の上をまたぐように作られた橋に差し掛かる。名前も知らない橋。老朽化して今にも壊れるんじゃないか、と心配になる。けれど、見た目よりかはずっと頑丈なようで、前に大きめの地震があったときもびくともしなかった。


 橋の真ん中あたりで、ユイカはぴたりと止まった。俺も止まる。彼女は橋の欄干にもたれてどこか遠くを見た。俺も欄干にもたれてみるが、彼女が何を見ているのかわからなかった。夜の川ははっきり見えないし、夜空にはいつもみたく星が輝いているだけだ。


 ユイカは何かを話そうとしている。でも、話し出すまで、もう少しだけ時間が必要なようだ。俺は夜空とユイカの横顔を交互に見ながら、彼女が口を開くのをただじっと待った。無理に聞こうとはしなかった。

 しばらくして、ようやくユイカが口を開いた。


「先輩、さっきの話ですけど……」

「さっきの話?」

「はい。私に好きな人がいて、だけどその人には恋人がいて……って話」

「……ああ。あの話がどうかしたのか?」

「先輩、けっこう鈍いんですね」


 ユイカはくすりと笑って、俺の顔を見る。


「私の好きな人は、先輩です」


 …

 ……。

 ………。

 まったく、これっぽっちも気づかなかった、というわけではない。好意を持たれているな、とは前々から思っていた。だが、それが恋愛感情であるとは思わなかった。……いや、思わないようにしてきた、と言うべきか。

 俺にはカオリという恋人がいて、だから仮にユイカに告白されても俺は付き合うことができない――できなかった。


 だが、今は違う。

 俺は恋人のカオリを、誰かも知らないチャラ男に寝取られた。今の俺には恋人はいない。フリーなんだ。だから、誰かと付き合ってもかまわない。


「先輩、私と付き合ってください」


 ユイカは俺の目を凝視して、きわめて真剣な表情で言った。

 俺をからかうために言った冗談なんかじゃないことはすぐにわかった。ユイカは本気で告白し、俺と付き合いたいと心から思っているのだ。

 それに対して俺は、俺は――。


「……」


 何も、言葉が出てこなかった。

 口の中がからっからに渇いていた。……緊張、しているのか?

 黙っている俺に、ユイカが言った。


「彼女さんを寝取られて悲しいんですよね? 私は絶対に先輩を裏切りません。彼女さんの代用品でもなんでもいいので――」

「ユイカはユイカだ」


 俺ははっきりと言った。言葉が流れるように出てくる。


「他の誰かの代わりなんかじゃないし、ユイカの代わりもいない」


 カオリとユイカ。

 二人はまったく違った人間で、それぞれに良いところがある。

 もちろん、人には良いところだけじゃなくて悪いところも、それぞれたくさんある。カオリは浮気をした。けれど、ユイカは俺を裏切らない――浮気しないと言う。俺はその言葉を信じよう。


「わかった。付き合おう。これからよろしくな、ユイカ」

「よろしく、タクマ!」


 ユイカはそう言うと、がばっと抱きついてきた。

 俺はいささかの恥ずかしさを感じながらも、ユイカのことをきつく抱きしめた。


 ◇


 ユイカとの交際はとても楽しいものだった。

 カオリとチャラ男の生々しい姿を目撃して、ひどく傷ついた俺だったが、ユイカと一緒にいるうちに傷口は癒え、鮮明すぎるほど鮮明だったその記憶が、少しずつ曖昧にぼやけていった。


 そのうち、元カノのことはすっかり忘れ、ユイカのことばかりを考えるようになった。

 毎日のようにデートをして、お互いの家を行き来する。すぐに、俺たちは同棲するようになった。

 そして、あっという間に、ユイカと付き合い始めて半年が経過していた。


 ある日、自宅でユイカとゲームをしていると、ピンポーン、とインターフォンが鳴った。誰だろう? 宅配便とかかな?

 出てみると、そこにはカオリが立っていた。


「カオリ……」

「タクマ……」


 カオリはやせ細っていて、泣きそうな顔をしている。

 この半年間、カオリの人生が決して幸福なものではなかったのだと、一目見ただけで分かった。かわいそうだとは思わない。同情したりもしない。俺は彼女にされたことを今でも覚えているし、それに俺とカオリは現在では赤の他人なのだから。今の俺にとって、カオリは地球の裏側に住んでいる人間とそう変わらない。


「何の用だよ?」


 俺はぶっきらぼうに、とげとげしく尋ねる。

 カオリは俺の態度に萎縮しながらも、小さな声で辛うじて言った。


「……よりを、戻さない?」

「戻さない」


 俺は即答した。

 いまさらよりを戻そうだなんて、都合がよすぎる。過去のことは水に流そう、とか言うんじゃなかろうか。やれやれ……。

 俺ははっきりと言ってやった。


「俺さ、新しい恋人ができたんだよ」


 そう言った瞬間、気配を感じて振り返る。ユイカがひっそりと立っていた。彼女の目は俺ではなく、カオリを見つめている。怒りなどの負の感情を無理矢理押さえつけ、能面のような無をぎりぎりで保っている。


「あなた」


 ユイカはいつもと違って、感情の抜け落ちた冷たい声だった。


「タクマの前の彼女さん?」

「ええ……」

「今、タクマは私と付き合ってるんです。あなたはタクマを裏切って悲しませた。もう二度と、私たちの前に現れないでください」


 そう言うと、ユイカは玄関のドアをぴしゃりと強く閉めた。問答無用と言わんばかりに。それから、鍵をかける。さらにチェーンもかける。

 ドンドンドンドン、と外からドアを叩く音と、すすり泣く声が聞こえる。


「ごめん。ごめんね……私が悪かった。お願い。許して……」


 俺は何か言おうと口を開きかけたが――。

 ユイカが俺の手を掴んで、ゆっくりと首を振った。返事をしないで、という意味だろう。それから、俺の腕をぐいぐいと引っ張りながら。


「ゲームの続き、しよっ?」

「……ああ」


 カオリのことは忘れよう。今日のことも忘れてしまおう。

 彼女との関係はとっくに終わったんだ。今は――そして、これからはユイカとの関係が続いていく。


 ◇


 その後、カオリが俺の前に現れることはなかった。

 ある日、俺は友人と飲みに出かけた。その友人は趣味で、周りの人間関係に関する様々な情報を収集している。なかなか変わった趣味だと思う。探偵とか情報屋とか向いていそうだ。


「いやあ、お前と飲むの久しぶりだな」


 俺は言った。

 今日、突然『飲みに行かないか?』と連絡がきたのだ。最近、彼とは飲みに行ってなかったし、今日はユイカが用事があり、俺はバイトもなく暇だったので、快くオーケーの返事をした。


「しかし、どうして突然?」

「ん? ああ……実はな、お前の元カノについて、ちょっと情報が手に入ったものだからな。教えてやろうかな、と思って」

「ああ、カオリのことか……」


 久しぶりに、カオリのことを思い出した。

 俺が微妙な顔をしているのを見ると、友人は気を遣ってか、


「聞きたくないのなら、話さないが」

「いや。教えてくれ」


 俺は言った。彼がどんな情報を手に入れたのか気になったのだ。


「それでは――」


 そして、彼は話しだした。

 カオリは俺と別れた後、あのチャラ男と付き合い始めた。しかし、彼は見た目を裏切ることないチャラ男であって、カオリ以外にも十数人の女と関係を持っていたようだ(十数人!? 驚きだ!)。

 それだけではなく、彼は怒りっぽく、暴力を振るう性癖(?)があるとかで、カオリも散々な目に遭ったとか……。


 その彼は、つい先日、交際女性の幾人かに暴力を振るったとして逮捕された。そのことはテレビのニュース番組でも報じられた(ちなみに俺は知らなかった)。

 彼の逮捕後、カオリは体に違和感を覚え、検査をしてみた。もしかして、自分は妊娠しているのではないか、と。


 結果、妊娠していることがわかった。

 しかし、お腹の子の父親は逮捕されてしまった。一人で産んで育てるのは難しく、かといって子をおろすには時期が遅すぎた。自分が妊娠しているとは、それまでこれっぽっちも思ってなかったのだ。


 どうしよう、とカオリは考えた。

 考えに考えた結果、前の彼氏であるタクマ(俺)とよりを戻して結婚しようと企んだ。妊娠した時期は俺と別れた前後だったので、あなたの子よ、とか言えば俺を騙せると思ったようだ。


 しかし、自分が妊娠していることを俺に告げる前に、ユイカによってシャットアウトされてしまった。その後、カオリは何回か俺に会いに来たようだが、その度にユイカが注意し、最終的に『もし、また私たちの前に現れたら、今度は警察を呼びますから』と言ったようだ。

 警察を呼んだところで、カオリが逮捕されるようなことはおそらくないだろう。しかし、カオリは怖くなったようで、二度と現れることはなかった。


「で、その後、カオリはどうなったんだ?」

「子供を産んで……そこから先はわからない」


 カオリはどこか遠くへ行ってしまったのだろう。死んでいる、ということはないと思う。どこでどんな仕事をしているのだろう? もしかしたら、誰かと結婚したのかもしれない。彼女が現在、幸福か不幸かは、聞いてみないとわからない。


 他人の不幸は蜜の味、なんて言うけれど、俺は別にカオリが不幸であってほしいとは思わない。しかし、カオリの幸せを願うほどお人好しでもない。

 彼女が幸福でも不幸でも、俺はどちらでも構わない。


「――というわけだ」

「なるほどな」

「よかったな。騙されなくて」

「『あなたの子なの』とか言われても信じなかったさ」

「それもそうか」


 カオリの話はそこで終わった。

 友人とはそれから二時間ほど飲んで、別れた。情報通の友人の話はどれも面白かった。でも、一番印象に残ったのはカオリの話だった。


 その後、俺は一人バーに入って、適当に酒を飲んだ。もう少し酒を飲んで酔いたかったのだ。酔ったほうが思考力が落ちる。カオリのことをあまり深くは考えたくなかった。


「カッコウ」


 と、俺はカウンター席で呟いた。


「カッコウ?」


 バーのマスターが不思議そうに反応する。

 何でもない、と俺は首を振って微笑んだ。


 カッコウという鳥がいる。彼らは『托卵』をする。他の鳥の巣に行って自らの卵を置き、そこにある卵を一つ持ち去ったりするのだ(帳尻合わせのために)。自分で育てずに、見知らぬ異なる鳥に子を育てさせる。

 カッコウほどひどくはないが、カオリが俺にしようと企んだことは、カッコウを彷彿とさせた。


 俺はカクテルとウイスキーを飲んで、いい感じに(?)酔った状態でバーを後にした。


 ◇


 家に帰ると、ユイカがいた。ラフな格好でソファーに寝転がりながら、テレビをのんびり見ていた。顔をこちらに向けると、柔らかな笑みを浮かべて、


「おかえり」


 と、言った。


「あれ?」俺は首を傾げた。「今日、用事があったんじゃなかったっけ?」

「そう、同窓会」


 リビングの掛け時計を見ると、まだそれほど遅い時間じゃない。もっとも、同窓会というのは夜遅くまで飲んで騒ぐようなイベントではないのだから、先に帰宅していても全然不思議ではない。

 俺がソファーに座ろうとすると、ユイカは起き上がって場所を空けてくれた。ソファーに座ると、ユイカがすすっと寄ってきて、甘えるようにもたれてくる。


「タクマはどこに行ってたんだっけ?」

「友達と居酒屋に」


 情報通の友人から聞いた話の数々を、俺はユイカに話した。けれど、たった一つ――カオリについての話だけは、ユイカには話さなかった。

 彼氏の元カノの話なんて聞きたくないだろうから。それに、決して明るい話題ではないから。だから、カオリのことは俺の心に留めておく。


「酒臭い」


 鼻をつまむ仕草をしながら、ユイカは言った。

 ははっ、と俺は苦笑した。


「かなり酒飲んだからなぁ」

「記憶を飛ばすほど飲んだりしないでね」


 ユイカが心配そうに言ったので、俺は力強く頷いておいた。記憶を飛ばすのはシャレにならない。気をつけよう。


「あ。もしかして、何か嫌なことでもあった?」

「え? どうして?」

「嫌なこととか忘れたいこととかがあったから、たくさんお酒を飲んだのかなって」

「いや」俺は首を振った。「友達と久しぶりに会ったから、飲みすぎただけだよ」


 嫌なこと。

 忘れたいこと。

 あるとしたら、それはきっとカオリのこと。

 しかし、友人からむりやり聞かされたというわけじゃなくて、気になって自分から聞いたのだ。教えてくれ、と――。


 カオリに未練があるわけじゃない。ただ気になったというだけ。彼女のことは忘れてしまいたいはずなのに、なぜかやけに気になったのだ。

 人間の心は複雑だな、と俺は思った。


「なあ、ユイカ」

「なぁに?」

「大学を卒業したら結婚しよう」

「卒業ってどっちが?」


 ユイカは笑った。酔ってるなあ、と思ってるんだろう。

 事実、俺はかなり酔っていた。だから、こんなことを言ったのだ。


「あー……じゃあ、俺が卒業したら」

「いいよ」


 即答だった。

 俺は嬉しくなってユイカのことを抱きしめた。

 ユイカは俺を抱きしめると、優しくキスをした。


 ◇


 恋人を――カオリを見知らぬチャラ男に寝取られたことは、正直かなりショックだった。だがしかし、あのとき寝取られて別れたからこそ、今があるのだと思うと、あれは必要なことだったのかもしれない、なんて今では思うようになった。


 俺は今、とても幸せだ。

 この幸福が死ぬまで続けばいいな、と俺は思う。



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― 新着の感想 ―
[一言] バーでめちゃくちゃ酒飲んで酔っぱらってる男がカッコウって呟いたら察しのいい奴なら大体分かると思う
[一言] 寝盗られも、そこにいたるまでの話があるだろうし。もともと浮気性のけがありそうだし、別れて正解ですね。ユイカはそういうのが、嫌いそうだし付き合って正解でしたね。お幸せに!
[一言] 面白かったです♪ 寝取られ女は何で裏切っておきながら、よりを戻せると思うんですかねぇ~…。 ┐('~`;)┌ これからも頑張ってください!\(^o^)/
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