策動する世界の裏側で。
アインスエフ大陸はアスカラオルト帝国西部、北の端から南の端にいたるまで万里の長城が築かれており、それを三分割する形で三つの敵対勢力との間で過去数百年近くにわたって人類はしのぎを削っていた。それは帝国が成立するよりもはるか昔のこと、無数の小国が国家を守護するために築いた城壁を帝国はただ繋げたに過ぎない。その果てで長大の城壁都市、全長にして3500キロメートル、高さは平均90メートル、最高の場所では130メートルという超巨大建造物は成り立っている。
城壁都市と呼ばれるからには城壁の上に都市がある。分厚い石壁の反対側、帝国側には堅牢な雰囲気を漂わせる人外魔境の側とは対照的な帝国文化、すなわちオルト地方とアスカラ地方の文化が融合した複合建築の街が連綿と続き、帝国において神聖、あるいは幸運を指し示す茜色の屋根の家々が続いていた。城塞の裏側にさながらスロープのように造られた都市は常駐する兵士達の宿舎であり、武器を鍛造する工廠であり、巨大な備蓄庫であり、またあるいはここを抜かれればその先にあるのは蹂躙だけという人類世界の最初にして最後の守りの壁でもある。
駐屯している兵士達の他、その家族も都市内には住んでおり、一様にその家族もまたなんらかの形で城壁都市内の様々な軍事施設に従事している。都市人口はその甲斐もあり、100万とも300万とも呼ばれている。まさに帝国の首都、ミナ・イヴェリアを除けば帝国随一の人口密集地というわけだ。
都市は等分に10の管轄区に別れ、それぞれが隣接する帝国貴族の領地に帰属するが、管制区の区長には独自の裁量権が認められ、半ば自治領と化している。区長はすべて帝国皇帝に直々に任命された準伯爵以下の貴族である一方、城壁都市を包括する領地を治める貴族達の爵位は最低でも伯爵級だ。貴族社会とは厳格な縦社会だ。よほどの名門出身でもなければ上の爵位の人間に逆らうことはできない。管制区の区長達は独自の裁量権を認められてはいるが、しかしだからといって好き勝手し放題、というわけではないのだ。
都市の行政を管制区の区長達が治める中、軍事は帝国六大将軍と呼ばれる六人の大将軍のうち三人によって総括されている。それぞれ最北の第一から第三管制区を第三将軍ジーク・ジゲンが、第四から第七管制区を第一将軍ディルク・ヴィヒターが、第八から第十管制区を第四将軍のトーマ・ハモンが指揮しており、彼らの間に階級の上下関係はないが、帝国軍人として長年にわたって帝国を守護してきたディルクが彼らの中ではリーダーとして扱われている。
とどのつまりは年功序列、ただしが年功の長という点でディルクを疑う人間は帝国軍内には一人もいない。貴族社会では年功序列という言葉は老害を嘲笑する言葉だったが、実力主義の軍人社会においては何よりも尊ばれるものだ。そんな彼らの下には30万人を超える帝国兵が列をなし、日夜迫り来る亜人種と、あるいは異形種との間で大陸を朱に染める大戦争を続けているのだ。
——叫声、絞音、雑踏。そして悲鳴。
はるかな城壁、その長城から無数の弓矢が放たれる。一度に放たれる弓矢の数は万、あるいは数万。ヒュッっと風を切り、大きな弧を描き、眼下の朱色の大地を真っ黒に染め上げる無数の屍の群れに向かって降り注いでいく。
屍兵、そう屍兵である。かつて指輪王アウレンディルが創造した九人みさきと同じ屍の尖兵。それが城壁の向こう側、朱色の大地を埋め尽くさんばかりの、もはや数なんて数えるだけで馬鹿馬鹿しいほどのおびただしい数、この地にはいた。一様に黒い鎧と黒い槍、そして黒い盾に身を包み、ケタケタと肉がわずかに残っただけの醜悪な屍の軍兵は降り注いでくる鏃の雨を前にして彼らは恍惚の笑みをうかべた。
弓矢が頭蓋を砕く、あるいは関節を、あるいは口腔を、あるいは頚椎を。前を進む味方が崩れると、急停止できなかった味方がつまづき、衝撃は伝播する。だが鬼気迫る焦土と血風、汗と鋼の匂いが立ち込める地獄の戦場において、その程度の伝播はさざなみに過ぎない。進みゆく死霊国イムガムシャの屍の軍兵は止まることを知らず、崩れた味方を踏みつけて前へ、ひたすら前へと城壁に向かって行進して行った。
城壁のまさに根元まで進んだ屍兵達はそのレンガの継ぎ目に手を伸ばし、骨を食い込ませ、はるか90メートル先まで登っていく。当然だが城壁の上に兵士達がそれを見逃すわけがない。それまではるか遠くの屍兵達へつがえていた弓矢の向きを直下へ修正し、登ってくる屍兵達めがけてこれでもかと、バキュンと矢を射る時に絶対に出ないような音と共に放った。それから身を守るように盾を構えるが、何度も矢が当たれば体勢を崩すことは必定、まして足場が不安定な城壁という平地ですらない場所でだ。矢の衝撃に耐えられず落ちてゆく屍兵、しかし彼らは笑顔で、そう笑顔で落ちていった。地面に落ち、砕け散るその時まで、確かに口角を歪ませて。
落ちてゆく屍兵達、それを補充するかのように別の屍兵が、さらに別の屍兵がするすると城壁を登ってくる。ちぃ、と城壁上の帝国兵達は舌打ちをした。再び狙いを定め、矢を放つ。当たる。だが当たるだけだ。肉の体を持たない屍兵達には痛覚がない。頭蓋を貫かれれば機能は停止するが、それ以外の箇所では弓矢が当たっても確たる傷は負わせられないのだ。
関節を砕けど、脊椎を破壊せど、頚椎を破損せど屍兵は止まらない。進む速度を少しでも緩めたければ彼らの腕部を狙うしかない。屍兵がジリジリと迫り来るプレッシャーと背後からの絶叫で冷静さを欠いている兵士達にとってそれは難しいことだ。そもそも彼らが射った矢もすべてがすべて屍兵に当たるわけではない。盾や鎧に当たる、という意味ではなく、本当に屍兵に当たらないのだ。なぜなら放たれた矢のいくつかは城壁に刺さった無数のハーケンに当たっているからだ。
城壁の50メートルから80メートル付近に刺さっている無数のハーケンは遠目からでもわかるほどで、それすなわちハーケンの数だけ屍兵達が、否亜人種と異形種の群れが何度も何度も大城壁めがけて特攻を繰り返した証左でもある。反面、80メートルより上は一切ハーケンが刺さっていない。だがそれは敵勢力がそこまで手をかけた試しがない、というわけではない。大城壁の歴史上、何度となく壁上に敵勢力が登頂したことはあった。その度に全力で防衛を担っている帝国軍は彼らを再び城壁の外へ押し戻してきた。ハーケンが存在しないのは壁上の兵士達が敵が退いた瞬間を見計らって撤去作業をしているからに他ならない。
クソ、クソと何度も悪態をつきながら兵士達は弓矢を放つが、彼らは人間だ。何度も弓をしぼれば筋は傷つくし、肌は剥ける。集中力は長くは続かず、目は疲れからぼやける。交代で射っているとはいえそれでも疲労は蓄積する。対して屍兵は疲れない。彼らは死者だ。意志なき亡霊だ。与えられた命令に従い、ひたすらにそれを実行するだけの木偶と言ってもいい。
そんな敵だ。容易に、彼らは城壁の頂上にその白骨化した手を架けた。
「来るぞぉ!第49大隊から第68大隊は半円形の構え、半円百槍だ」
続々と登ってくる屍兵達、それを向かえ討とうと弓兵達を下がらせ、完全武装の歩兵大隊が前へと出る。軍団技巧「半円百槍」の構えを彼らが取ると兵士達の体から眩い白色の光がほとばしり、突き出した無数の槍の穂先が青い燐光をおびた。
「突けぇ!」
部隊長を務める口髭の男の号令と共に槍が槍が突き出され、的確に屍兵達の頭蓋を、あるいは胸部を刺し貫いていく。グシャ、ガシャ、と頭蓋と鎧、兜が砕ける音がこだますが、それと同時にキェーと鳥がいななくような悲鳴が鳴り、胸部に槍が刺された屍兵がそれをものともせずに前進を始めた。
「突き落とせ!」
常人なら息を呑む光景、それを見ても冷静に部隊長は指示を下す。半円陣形を解き、盾撃を屍兵の集団に浴びせ、その体を砕かん、あるいは衝撃のままに城壁から突き落とそうとした。数でいえば壁上の屍兵は劣勢だ。人間一人の一撃一撃程度ならばともかく軍団技巧発動中の千人近い人間の重撃を喰らえば吹き飛んでいくのは必定、耐えられるものではなく、二十、三十、あるいは百と次々と屍兵が壁上から落ちていった。
「次が来るぞ!第293区域の弓兵をすべて後方へ下げ、各壁上歩兵大隊は光盾の構えを取れ!奴らをここから先には行かせるな」
落ちていく屍兵を一瞥した部隊長は新たな指示を下す。続々と壁上に登ってくる壁上歩兵大隊らは盾の隙間から槍を突き出し、一見薄そうな、しかし内実はとても分厚い光の壁、「光盾」を展開し次々と登ってくる屍兵へ適時槍の一撃を、あるいは盾撃を加えた。
だがいかに軍団技巧を発動をさせていると言っても決して無事ということはない。迫り来る屍兵達、見るもおぞましい白骨化した邪悪な亡霊達はただ槍で突く、剣で切るだけではない。彼らは歯で噛んでくる。潰れた腕骨を凶器に変えて突き刺してくる。おぞましい、恐ろしい、見るに耐えない。そんな感想と共に恐怖が掻き立てられ、気が緩んだ端から兵士達は裂かれ、引き摺り出され、食われ、なぶられる。崩壊した箇所を補おうとするとその隙を突いてさらに屍兵達が雪崩れ込んでくる。
「クィーゼ小将軍、第52大隊が劣勢です。予備兵を出しますか?」
「いや、今は第56大隊の方が先決だ。第62大隊から兵を回させろ。あそこはまだ余裕がある。脅威を均衡化させるのだ」
クィーゼと呼ばれた口髭の部隊長の指示を受け、伝令が壁上を走る。劣勢の大隊へ比較的優勢な大隊の兵士を補充し、危険度の均一化を行う。そうすることで一気に防衛網が崩れることを防いでいた。犠牲を最小で抑えるため、遊兵を作らないようにするための遅滞戦術、それが帝国軍の防衛における基本戦術だ。
ただ兵を移動しているわけではない。指揮官に求められるのは見定める力、どの大隊が今最も危ういか、どの大隊が今最も安定しているか。一手間違えれば兵士は不必要な補充を受け、遊兵化してしまう。最低でも二手、三手先を読んで初めて均衡するのだ。
——そして耐えていればやがて本命が、斬首部隊が横撃を加えてくる。
今回のストーリーはどちらかというと後々の帝国との戦争がもたらす結果に焦点を置いています。作中でも度々出ていますが、帝国は三つの亜人種、異形種の勢力と西側の国境で争っています。言うなれば人類の防人というわけです。それが消えたら、どうなるんでしょうね?




