ロサ公国へ
強風吹き荒れる11月末のアンダウルフェル海域を三隻の大型船が進んでいく。そのすべてが衝角部に砕氷用の大型螺旋角を装備し、ガリガリと音を立てて流れてくる氷塊にその切先を突き立て、瞬く間に亀裂を入れ、砕いていった。吹き荒れる風がマストを揺らし、白い帆に何度となく殴りかかりボォボォと衣がはためく音を発し、立っているだけで脳が右へ左へと再現なく揺れるひどい環境だが、水夫達は誰一人動じることなくテキパキと忙しそうに甲板上を動いていた。
その様子を上部甲板から眺めながら界別の才氏シドは白い息を吐いた。それは暇を持て余した要人がちょっかいを掛けに来たようにも、あるいは誠実に励み具合を視察しに来たようにも見えた。これが普段から評判のよろしくない、とどのつまりはサボり癖がある氏令であれば明らかに前者だったのだが、ことに見に来たのがシドであると働いている水夫達はどっちか首を傾げた。それは無論彼に同道しているこの船の副船長である大髭の大府カイゼル・ゴーハーも同じ気持ちだった。
唐突に船室から出てきたシドを上部甲板まで案内し、眼下で働く水夫達を眺める彼の隣に立つことすでに三十分。ほとんど体勢を変えずに手すりに肘をつき、交差した両手の上に顎を置くシドは一言も発さず、ずーっと甲板を見つめていた。別に何か面白いものがあるわけでもないのにわざわざ寒風吹き荒ぶ船外に出てただただ水夫の動きを眺めているシドの考えがカイゼルにはわからなかった。
「失礼ですが、才氏シド」と一言声をかければいいのかもしれないが、それが相手の逆鱗に触れるかもしれない。特段シドは苛烈で知られている氏令ではないが、行動が予測できないという点では最もよく知られている氏令だ。
「大府カイゼル。実にいい船だな」
だからかシドの唐突な賞賛への反応が一拍遅れた。ハッとしてカイゼルは我にかえり、ありがとうございます、と名ばかりの礼を口にした。手すりに背中をもたれさせる形でシドはカイゼルに向き返り、別におべっかじゃないぞ、と前置きをして話を続けた。
「実際にいい船じゃないか。水夫達はキビキビと働き、船は風や波をものともせず快速性を保っている。もちろんこの辺りの海洋図を把握して航行しているからってのもあるけど、いい船は船員がよく働くもんだ。まさにヤシュニナの誇りだよ、君達は」
「ありがとうございます、才氏シド。そのお言葉、我ら一同胸に刻み、粉骨砕身の努力をこれ以後も続けさせていただきます」
「そこまで言われるほどじゃないよ。俺はここアンダウルフェル海域、つまりムンゾ王国の沖に来るまでアル=ヴァレアからじゃ4日はかかると思ってたのにこの船は2日でここまで来れた。この分だとロサ公国まではあと10日もかからないかな?」
そう、シドを乗せたこの船を含めた三隻は今一路ロサ公国へ向かって航行している。鎖国国家であるロサ公国への威嚇を込めて三隻の大型艦を向かわせているという政治的な都合上、なるべく速やかに目的地に着きたいのがシドの心情だ。その点において現在の使節団のスケジュールは順調と言ってもよい。
さる11月27日に出発した船は現在うまい具合にムンゾ王国沖を進んでいる。船が止まるような大型海洋モンスターに遭遇することもなければ、回避を余儀なくされる氷塊に出くわすこともない。そも11月末のグリムファレゴン島近海はその寒冷さゆえに多くの海洋生物は水底深く潜り、遭遇率が低いというのが通例で、また流氷にしてもまだ薄く、容易に砕氷用の螺旋角で破壊できるほど強度は低い。
「この時期に流れる『マンウェイの風』をうまく捉えられたことが幸いしました。あの風は北から南にかけて吹く独特の風、帆いっぱいに風を受けたおかげで予想以上の快速性を得られました」
「ああ、なるほどね。ならばその風を捉えられた幸運に感謝しよう。それはさておき、大府カイゼル。君はロサ公国についてどれだけ知っている?」
シドの問いにカイゼルは数瞬、考え込んだがすぐに首を横に振り、ほとんど知りません、と口にした。そうだろうな、とシドは頷く。
ロサ公国はその領土のほとんどを凍土に閉ざされた極寒の半島国家だ。ボラー連峰の裾に築かれた首都ヴェートラストより以北には人間種は住んでおらず、その人口のほとんどが帝国との国境とも言えるボラー連邦周辺に集中している。建国から約500年、常に鎖国し続け、独自の文化を形成している、という伝聞は市政に流れているが、それ以上のことを知っている国外の人間は数えるほどだ。
かく言うシド自身も知っていることは決して多いとは言えない。せいぜい知っているのは現国王、ヘルムゴート・ビョール3世が苛烈な性格の人間で、常日頃から帝国北部方面軍と小競り合いを繰り広げている、ということと、ロサ公国の資源が危ういということぐらいだ。
「しかしそうなりますと彼の国が我々に求めているのは軍事力ではなく資源では?」
「そうとも言えない。例えば当事国では使い物にならない資源でも別の国では重宝している、なんていう事例はいくらでもある。ロサ公国はその極寒ゆえに未踏破の領域が多い。探そうと思えばいくらでも探せるはずだ。俺らの国が氷晶を発見したみたいにな」
地質は違うが、ヤシュニナとロサは似通った部分が多い。寒冷地にある国家、というのもその一つだ。こちらは武装した船舶三隻、よもや発見即攻撃などにはならないだろう。こちらが資源を探す協力をする、と言えば資源に乏しいロサ公国は乗ってくる可能性が高い。よしんば見つからずとも軍事力の供与は欲しいはずだ。帝国と戦争状況にあるならばなおさらだ。
他にも新しい資源以外にもロサ公国をこちら側へつかせる手札はある。例えばロサ公国独自の進化を遂げた「雪の麦」という麦は非常に独特な味わいで、保存用のパンを作るために効果的だ、という話だ。例えばその麦をヤシュニナの東方航路を用いて東方諸国に流せば莫大な利益を見込めるかもしれない。無論そのためにある程度まとまった肥沃な大地をロサ公国が獲得する必要がある以上、決して楽な手札でもない。
「なんにせよ。面白いじゃないか。まだ見ぬ土地、まだ見ぬ国家に訪れる。これぞヤシュニナが商業国家として隆盛を極めた一因だからな」
そのシドの期待に応えるように船はまた一段と強い寒風を白い帆に受け、氷海の上で加速した。
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