船にて氏令はくつろぐ
グリムファレゴン島の近海は寒い。人ではとても素肌をさらすことなどできず、大半は厚手のコートに身を包み、上からニット帽、耳当て、タートルネック、手袋、レッグウォーマー、長靴と防寒装備をばっちりとした上でさらに体の熱を保持する特殊なマジックアイテムを装備してようやく船外に出ることができる。
これは海に落ちたことも想定していて、一つでも欠かすと海に落ちた時の生還率は絶望的だ。真冬の夜の海は異常に冷たく、一気に熱を奪い体力を削っていく。
今ムンゾ王国の領海線近くに錨をおろしている船の上でも同じような格好の船員達が右へ左へ忙しそうに甲板を動いていた。普通の海域だったらせいぜい周囲を警戒していればいいのだが、グリムファレゴン島の海は普通の海ではない。
無数の大型海洋モンスター、時折深海から上がってくる正体不明の海流、船に倍する大きさの氷山、そして天から飛来する雷と竜の群れ。一級の船乗りでも海難事故で海の藻屑と成り果てる悪所、それがグリムファレゴン島の東海岸だ。
今帆船が錨を下ろしているムンゾ王国近海は比較的海難事故の確率が低く、他と比べれば穏やかだが、それでも気は抜けない。まして氏令が二人も乗船しているとなればなおさらだ。
「寒そうだなぁ。俺らは環境ダメージ受けねぇから苦しみはちょっとわかんねーけど」
扉についた丸窓から甲板の様子を見ながらアルヴィースがやや小馬鹿にしたような口調でそう言った。普段と変わらない出立ちでそんなことを言われたらシドは肩をすくめるしかない。
シドとアルヴィースは外見的には人間とそっくりだが、彼らは異形種とひとくくり呼ばれる人外の存在だ。シドは精霊種、アルヴィースは鬼種であり、彼ら異形種は肉体があろうがなかろうが環境ダメージ——マグマ地帯での熱気など——を受けない。もっともある程度レベルが高ければ環境ダメージは無効化できるので種族特権ではない。
「寒さを感じるのって生きてる証だと俺は思うんだけどなぁ」
「そうは言ってもなぁ。やっぱ寒そうにしてる奴らを見ると、なぁ?」
性格悪いなコイツと思いながらシドは仮面をズラし、丸机の上に置かれたティーカップへ手を伸ばした。反応がないシドにアルヴィースは何を思ったのか、話題を変えてまた話を振った。
「そういや今回の亡命の件、帝国にはどんくらい漏れてんのかな?」
「少なくとも帝国の領海は無事に抜けられたらしいけど」
仮にも要人、仮にも貴族だ。細心の注意を払い、今回の亡命作戦チームは作戦を遂行したはずだ。しかし人の口に戸は立てられぬという言葉通りに情報はどこから漏れるかわからない。港を出る時などは特に念入りに作戦を練った。船の出港申請書の偽造も完璧だ。一瞥した程度では偽物かなんてわからない出来だ。
帝国という国家は強大な軍事国家であると同時に貴族官僚主義が根強い国家だ。皇帝の直参の貴族が高位文官として振る舞い、帝国内外を行き来する出入国の書類には特に優秀な文官が当たると聞いている。だから途中でバレること、強行突破もシドやアルヴィースは覚悟していたが、蓋を開けてみれば帝国の領海はすでに抜けた、という報告が上がった。その時点で彼らが懸念することはほとんどなかった。
「あーあ、早く帰りてぇよ。船酔いなんざしねーけど地面が揺れてるってのは落ち着かねーって」
「予定だとあと一時間も経たずに目視距離に入るはずだ。そっから先は船を燃やして俺らはヤシュニナへっていう手筈だな」
さすがに偽装船をそのままヤシュニナに入れるのは露骨すぎる、という観点からこうして戦国時代のような乗船シャッフルを行っているのだ。今回使われた船はすべて隠滅される。乗組員も最低二年間は別の名前が与えられて生活をすることになる。船二隻の処分、偽造身分証の発行でかなりの金が飛ぶが、テリス・ド・レヴォーカの持つ草案とは比べようがない。
最低でも五年以上の平和が確約される文章と一時の多額の出費とを天秤にかけた場合、どちらを取るかは自明だ。金銭出費を気にするようでは国のトップは務まらない。
「だからあとはディプロテクター達がちゃんとテリス君をこの船に乗せてくれれば万事解決……ん?」
突然入口のドアが叩かれたので、千乱は仮面を深く被った。ドアの向こう側から聞こえてきた声がこの船の副船長のものだったので、彼は柔和な口調で「どうぞ」と言った。
入ってきた副船長は大柄な雪男で少し窮屈そうに船服を着ていた。船帽を取り、副船長はちょっとこもった声で「例の船が見えました」と言った。
それを聞き、アルヴィースは満面の笑顔を浮かべ、シドは仮面の下でほくそ笑んだ。そのまま艦橋に案内され、副船長が示した方向に一隻の砕氷船が見えた。こちらに合図を送っているのか、マストの見張り台からオレンジ色の光が点滅している。
「連絡船の準備を。移送中の周辺警戒を大に」
しろ、とシドが言おうとして大きく口を開いた直後、爆音が彼の耳に届いた。ブゥーンという音と共に落雷かと間違えるほどの轟音がさっきまで航行していた船から響いた。呆気に取られ、シドやアルヴィース、他の船員達も目の前の光景に見入っていた。そんな彼らが正気に戻ったのは炎上する砕氷船のマストが折れ、大きな水柱が飛沫を上げてからだった。
「すぐに船を近づけろ!。人命救助を最優先で行え!」
すでにシドの頭の中には草案のことはなかった。草案よりも人命が優先されていた。
突発的な事故、突然の炎上を前にしてすでに彼の頭の中では草案は燃えたものとして扱われていた。平時ならば人命よりも草案を優先するべきところだろうが、突然の船の炎上という予想外すぎる出来事に彼も混乱していた。
シドの号令に従い、副船長をはじめ、周りの船員も慌ただしく移動しはじめた。春初めとはいえまだ流氷漂う海原に浸かれば真人間など数分と保たない。海棲亜人種でもない限りは間違いなく凍死する。次々に救命ボートが降ろされていく中、隣で事態を静観していたアルヴィースがシドの肩を叩いた。振り返ったシドにアルヴィースは水面を指差した。
「シド、俺は草案を」
アルヴィースに言われてようやくシドは草案のことを思い出す。アルヴィースの言葉にシドはうなずき、彼自身は船長や副船長に錨を早く上げるよう急かした。
そして炎上する砕氷船を一瞥し、苦々しげに「ふざけんな」と吐き捨てた。
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