船を見ゆ。
アインスエフ大陸東岸部の地形について。
アインスエフ大陸東岸部はメルカトル図法の地図で見る現実の北アメリカを想像してもらえればと思います。またヤシュニナ氏令国もあるグリムファレゴン島の面積はグリーンランドの約1.3倍、ただし近海に合わせれば四国と同面積の島が二つあり、その内大きい方にヤシュニナの首都ロデッカがあります。
作中に登場するアスカラオルト帝国は東岸部のおもに北部(アメリカ大陸で言うとラブラドル半島の真下からノースカロライナ州まで)を支配しています。
「ディプロクター殿。本当に大丈夫なのだろうな?」
三月のグリムファレゴン近海はまだ冷たい。雪がしんしんと甲板へ降り、獣の羽織もので身を包んでいてもまだ寒さが肌を刺す。氷海を砕氷用に作られた衝角で砕きながら進んでいく船はたった一隻ということもありひどく寂しく、より一層閑散とした空気を醸し出した。音が不自然に反響し、この先の未来を陰鬱に感じさせた。
海上を征く船は流れてくる氷の塊を削り分けて進んでいる。そのせいか船はグラグラと左右に揺れ、時には流氷の上に一部が乗り上げることもあった。
落ち着かない心境のテリス・ド・レヴォーカに彼の護衛としてヤシュニナから派遣されたディプロテクターは微笑を浮かべて答えた。
「レヴォーカ伯爵、我らをご信用ください。この船は高度に商船に偽装されております。すでに帝国の領海線は超え、今から帝国が追撃してこようものならそれは近隣国家への宣戦布告に他なりません」
おびえるテリスは幾分か安心したのか、ほっと胸を撫で下ろす。もう40も過ぎているというのに心配性だな、とディプロテクターは眼前の金髪碧眼の中年男性を鼻で笑った。すでに帝国の海からは逃れたのだ。何を気負う必要があるのか彼には理解できなかった。
万が一追手が船に乗り込んできても自分を初め、多数の優秀な護衛がこの船には乗っている。レベルの平均は68。人間至上主義国家の帝国基準で見ればこれは圧倒的強者の数値だ。帝国歩兵の平均レベルが30弱と言えばその強さが一層際立つ。
加えてディプロクターなどは人種ではない。ディプロテクターは鎧に憑依したゴースト、アーマードレイスと呼ばれる異形種だ。同レベルの人種と比べても肉体性能は抜きん出ており、一方的になぶり殺すことも容易だ。なによりディプロテクターはプレイヤーだ。ことゲームの立ち回りにおいて自分と同レベルの煬人に負けるなど彼は考えていなかった。
「伯爵の心筋を悩ませておられる問題がおありになる、とおっしゃるのでしたらもう一度今回の亡命の手順をおさらいしましょう。何か不安点があればおっしゃってください」
こくこくとテリスは首を上下に振った。今は少しでも安心できる話が聞きたい、と考えている様が見え見えだった。嘆息し——息は出ないけど——ディプロテクターは何度やったかもう思い出せない説明をまた口にする。
「今我々はアインスエフ大陸とグリムファレゴン島の間にある海、トーリンの海を航行しております。ここを抜け、グリムファレゴン島西部の四小邦国郡筆頭であるムンゾ王国の領海に入る手前で伯爵の身柄は同海域で待機中の別の船に預けられます。その船はヤシュニナへ直行いたしますのでご安心を。
帝国の領海を抜けた今となってはこれ以上語るべきことはありません。あとは伯爵の御手でそちらの文書を我が国の首脳部へお渡しなされば万事解決いたします」
そう言ってディプロテクターはテリスが後生大事に抱えている孔雀石の小箱を示した。厳重に鍵がかけられたそれは唯一テリスの持つ鍵でのみ開けられる。ディプロテクターに言われてテリスの小箱を持つ手に力が入った。
その中身はテリス、ディプロテクター双方にとって重要な機密書類だ。帝国の新税に関する法案、その原文が収まっているともなれば特殊な小箱に入れることはなんら不思議ではない。箱は厳重に閉められ、テリスが持つ鍵以外で開けようと思えば中の書類が燃えてしまう仕組みになっている。
「——そうそう。実はこれは本国から出航前に聞いた話なのですが、ちょっとお耳をよろしいでしょうか?」
疑いもせず自分に寄ってきたテリスの耳元でディプロテクターは小声で囁いた。
「伯爵がこれよりお乗りになる船には氏令が二人、随伴するとのことです」
それを聞き、テリスの表情がこわばった。動揺するテリスを見てディプロテクターは内心彼に同意していた。氏令と言えばヤシュニナの政治における最高位だ。全員が日々多忙で朝から晩までそれこそ一般の文官や軍官よりも長い時間、机と椅子に縛られる。
テリス一人のためにそんな人物達が二人も、と聞けば当の本人が動揺するのは自明だ。だが現実はわずかに異なっている。
氏令が忙しいというのは正しいが、彼らが別に一日中仕事をしているのかと言われれば答えはノーだ。特にこれからテリスが乗る船で待っているシドとアルヴィースなんかは仕事終わりに朝まで酒をかっくらっている姿が頻繁に目撃されるほど問題行動が多い連中だ。時には真っ昼間から酒場にいることもある。
「そう動揺なさいますな。氏令と言えど色々です。それに氏令の何人かは私同様異形種でもありますので疲れとは無縁かと」
人間至上主義国家出身のテリスからすれば笑えない話だろうが、ヤシュニナの氏令の半分以上は亜人種と異形種だ。シドやアルヴィースは外見こそ人だが中身は精霊と鬼神でどちらも異形種だ。多種族国家を謳う通り、氏令会議内では多様な種族の氏令がその席についている。
対してテリスの母国であるアスカラオルト帝国は人間至上主義国家だ。人種、とりわけ「SoleiU Project」のシステム内で非量子世界のホモ・サピエンスと同義とされるエレ・アルカンが収める他種族を排斥し肥大化していった国家だ。同じ人種であるエルフやドワーフ、ハーフ・フットなどすら差別し、奴隷化して、平民はもちろん知識人すらそのことに疑問は抱かない。
「(ましてそのトップオブトップなら言わずもがなだろぉな)」
本来だったら考えてはいけないことだろうが、ディプロテクターはヤシュニナに渡った後のテリスの動向がどうなるのか非常に気になった。上流階級の生活に浸りきり、他種族の差別を是とするこの男がどうやって昨日まで見下してた相手と仲良くできるのか。
いっそここで殺した方が互いのため、と思ったが自分の任務を思い出し、彼は上げかけた手を引っ込めた。わざわざ自分の評価を下げてまでテリスのために手を汚す必要などない。どのみち水が合わなくてもヤシュニナを一歩出ればテリスは死ぬのだから我慢するはずだ、きっと。そんな希望的観測を胸にディプロテクターは震えるテリスに船室へ戻るよう促した。
——それから約二時間後、彼らの乗る砕氷船は氷海と闇夜の境界線上に佇む一隻の帆船を確認した。
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