ジャック・ボーイ
第九州の州都トランより西へ130キロ、ムンゾ王国との国境から15キロ離れた小都市シャルヴァーに八千のヤシュニナ軍が集結していた。兵士達の野営地が都市の防壁の外まで膨れ上がり、雪が溶け茶色でなだらかな大地の上に無数の軍靴の跡が刻まれた。
整列し、行進する彼らの軍靴の音は大地を揺らし、冬眠から目覚めた昆虫や熊の類だって逃げ出してしまう。威勢のいい掛け声と共に天へと向けられた槍の穂先が幾度も煌めきを発した。数キロ先からも見える穂先の光、それは軍隊の証だ。だが軍隊の証は穂先の光だけではない。
絶えず上がる戦場食堂の煙柱は一つや二つでは決してなく、二十、三十と空の青に消えていった。遠くから見れば山火事のようにも見えたかもしれないが、それにしては白すぎる煙を見て「あああそこで大勢が野営しているんだな」と察せられる。
「充足具合は?」
「おおよそ問題ないかと」
大角の将軍トーカルト・アルコストの返した応えに埋伏の軍令シオンは満足そうに頷いた。いつ動くとも知れない相手と相対している以上、兵士の士気を保ち続けるだけで一苦労だ。練兵を繰り返し危機意識を訴えてもまだ足りない。結局は日がな一日メシを食っているだけになったが、それでも日々の練兵にちゃんと参加してくれる点でまだ士気は保たれていると見ていい。
軍隊を国境付近に設置し、相手の神経を逆撫でするような状況を演出していることも士気を保っている理由の一つだろう。特に第九州はムンゾ王国要塞都市ミーグルと国境を接している。常時二千人近い兵士が駐屯し、炊き上がる煙の量はシャルヴァーの比ではない。ここ数日もその傾向は以前として変わらない。
「しかしいざ開戦となればここの兵一万では遅滞戦闘を展開するのが関の山でしょうね。もちろんムンゾ王国全軍が一斉に国境を乗り越えてくる、という前提の話ですが」
ヤシュニナ兵一人とムンゾ兵一人の平均的な力量を数値化した場合、わずかにヤシュニナ兵が勝る。モンスターの出現数がヤシュニナ側の方が多く、その討伐の一端をヤシュニナ兵が担っており実践慣れしているという点を含め、同数での戦闘ならばヤシュニナ兵がムンゾ兵に負ける道理はない。
だが差はわずかだ。例えば二対一の状況になればヤシュニナ兵は負ける。現在のヤシュニナは第九から第十一までのムンゾ王国と国境を接している州に二千名ずつ兵士を配備しているが、もしムンゾ王国が各個撃破の策を取り、順繰りに総力を上げてヤシュニナへ侵攻した場合、決して少なくはない被害が国境周辺に生じる。
襲撃を受けた都市は焼かれ国民は凌辱され攫われる。ありとあらゆるインフラが破壊され街道は掘り返されるし、河川には岩が投げ込まれる。貴重な技術職は殺され、価値ある遺産は焼かれるか奪われるかして失われる。国力の回復までには数年を必要とするだろう。技術に関しては完全に遺失するかもしれない。
「こればかりはレベルでは解決できないからな。再三のことですまないが西側への警戒は厳にしておけ」
「かしこまりました。それと兵士の間での噂話程度の話ではありますが、本当にムンゾは動くのかと疑問の声が上がっています」
「ある程度は仕方ないだろうな。ただしあまりに噂が大きくなれば厳罰を以って対処しろ。軍内で余計な話を流布されても困るから……ん?」
バサバサと鳥の羽ばたきが聞こえた。それが自分めがけて近づいてくることに気がついたシオンは腰の剣に手をかけた。その鳥の正体に気がつくとすぐにシオンは手を離し、右手を天に掲げた。それを止まり木として毛並みの優れた鷹が舞い降りた。
一見するとただの鷲だが、その鷲の眦には白く、瞳は黄金色に輝いていた。グリムファレゴン島でも北部周辺にしか自生していないエレイアと呼ばれる珍しい大鷲の特徴だ。そしてこの鷲はヤシュニナにおいては別の意味も持つ。
腕に止まった鷲の足にくくりつけられた人差し指サイズの巻筒を取り、シオンはトーカルト・アルコストに鷲へ餌を与えるように指示を出した。トーカルト・アルコストが鷲を連れてこの場を去ったと同時にシオンは巻筒の中から丸められた羊皮紙を取り出した。コロンと手のひらに落ちたそれを広げ、小さく描かれた文字をシオンは順に読んでいく。
すべてを読み終えた頃、鷲に餌を与え終わったトーカルト・アルコストが帰ってきた。どうしたんですか、と聞くトーカルト・アルコストにシオンは笑顔を浮かべて羊皮紙を手渡した。鷲と引き換えに受け取った羊皮紙の中身を見て、トーカルト・アルコスト自身もまたなるほどと呟いた。
「これは才氏シドの策謀でしょうか?」
「それだけではない。恐らくだがミュネル王国に未だに潜伏している王弟エッダとその配下も蠢動しているだろうな」
ムンゾ王国、ミュネル王国の人心揺らぎつつあり。その一文だけが記された羊皮紙を口の中へ放り込みつつトーカルト・アルコストはシオンへ視線を向けた。いつになく上機嫌の上司を見ていよいよ決戦かな、と彼と長きを共にした副官は軍の編成へ出向こうとした。
「待て、そう慌てるな。恐らくだがまだ動く必要はない」
しかしシオンはそれを制した。怪訝そうに眉間に皺を寄せる副官にシオンは笑みを浮かべて答える。
「我々は最小の犠牲で勝利するのだ。この意味、わかるか?」
わずかに熟考した後、トーカルト・アルコストは顔を挙げ、おずおずと答えた。その答えがシオンの想定していたものだったのか、彼は歯茎をむき出しにして野獣を思わせる笑みを浮かべた。わずかに揺れる双肩、わななく指先、秋日が明らかな高揚がシオンを包んでいた。
まるで何かが起こるのを待っているかのようにシオンはただずっと西の地平のみを見つめていた。
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次話投稿は9月21日21時を予定しています。




