笑い声
そして笑い声が樹林の間をこだました。
離れた場所にいるはずのラァ達の耳にもその声は届いた。ヒスヒス、クスクスという気味の悪い笑い声が辺り一帯に響き渡り、それは非常に不快で寒気を覚えさせた。
まるで知らない内に化け物の腹の中に入ってしまったかのような強烈に嫌な予感を覚え、自然とラァは利き手を腰の短杖に伸ばした。
視線をオーク達に戻せば、円陣のど真ん中に放り込まれた自分達の仲間の無惨な姿に彼らは狼狽する。円陣を解き、振り返る彼らは視界の端から伸びてきた毛むくじゃらの黒い手が掴み一人、また一人と闇の中へと引き摺り込まれていった。
何が何だか、もうわけがわからない。
視線で黒い手の主人を追うが、闇に紛れているせいでどこにいるのか皆目見当がつかない有様だ。それはラァの部下達も同様で双眼鏡や単眼鏡を用いて首を左右に振るが、肝心の黒い手の正体は全く掴めなかった。
やがて最初は20人以上いたオーク達も気づけば6人にまで減ってしまった。その間、闇の中から襲撃は続きオークの死骸が闇の中から投げ捨てられる光景が何度も続いた。一様にひどい有様で、首をコルクでも回すかのようにネジ切られた者や、さば折りにされた者、縦に折り畳まれた者など殺しのヴァリエーションは豊富で見ていて飽きるものではなく、毎度毎度誰かがえずいた。
「……いた!」
ラァがようやく黒い手の主を見つけたのはちょうどその時だった。14人目を黒い手が連れ去った時、彼女は闇の中から現れた黒い毛むくじゃらの生き物の後ろ姿を見つけた。現れると同時に樹林の影に消えるそれを彼女は追い、その姿をしっかりと脳裏に焼き付けた。
それは巨大な猿のような化け物だった。全身毛むくじゃらで妙に腕が長く手も大きい。がっしりと掴んだオークは逃げ出そうともがくが、乱雑に木の幹に打ち付けられ、気を失った。
化け物は気を失ったオークを拾いあげ、バナナの皮でも剥くかのように空いている方の手の爪先を灰色の肌に刺し込んだ。そして痛みとともに目を覚ましたオークの反応を楽しむかのように化け物はより深く深く爪を食い込ませ、肌を裂いていく。
しかしその肌を最後まで裂くよりも早くオークを握っていた方の手に力を入れすぎたのか、ねんどを千切るかのようにオークの肩周りの部位が根こそぎ引きちぎられた。臓腑が弾け、オークの瞳から生気が失せる。壊れたおもちゃには興味がないのか、ポイっと投げ捨てられたオークの体は仲間達の足元に転がった。
一連の光景はプレイヤーとして長い間生きてきたラァですら絶句するものだった。況や同じ光景を見てしまったプレイヤーではない彼女の部下達はえずくを通り越して盛大に吐瀉物を吐き出していた。辺り一体に酸味がかった生暖かい空気が流れ、それを鬱陶しいとばかりにラァは風で吹き飛ばした。
かく言う彼女も吐き気を抑えるので精一杯だ。目の前で見た光景は彼女の記憶にない類の狂気、あるいは無垢の現れだった。
拷問でも趣味でもまして生きるためでもない。純粋にそれがなんだかわからないけど、とりあえず触れるから触ろう、という好奇心からくる暴力。未知に切り込む冒険心と言ってごまかし美化していた嗜虐心と好奇心をまざまざと見せつけられている。
——上位者ゆえの傲慢。傲慢ゆえの不遜。不遜ゆえの童心。
「ヤシュ」
その獣の名前をこぼし、ラァは歯軋りした。
見たことはない。見たと言う話を聞いたこともない。ただ、おせっかいな歴史学者コンビがそういう生き物がいることを教えてくれたことだけを彼女は知っている。
大いなる夜魔。指輪王やその主人たる冥王以前の原初の脅威。
「——起源としては『名もない者達』と同じですが、進化の過程が違います。言うなれば知性というものを彼らはこの世界には持ちません」
曰く、無垢なる闇の子。曰く、夜闇の王。曰く、寒涼の瞳がごとき獣。大鴉ことエリアライ・ラメッシャはヤシュについてそう語った。そしてそれと同等の脅威についても。
「——セルファ。それは混沌の海より出し侵略者。記録者に迎合し、今世ことごとくを塩に帰す魔」
「——キオン。それは白喪の孤島より来る略奪者。剽窃者に恭順し、今世ことごとくを霜と化す魔」
「——アール・ラー。それは破滅の空より降臨せし殲滅者。編纂者を礼賛し、今世ことごとくを朱に染めし魔」
——ビースト、と続く。脳裏で何度となくエリアライの声が反響する。それら一つでも残れば世界は破滅する。「終焉戦争」を超えた先にある真なる最終クエストだとエリアライは語り、それに息を飲んだ自分がいた。
そんなエリアライの言ではヤシュはこう呼ばれている。
「ヤシュ。それは深淵の峡谷より這い上がりし暴虐者。保管者と共謀し、今世ことごとくを闇夜に誘いし魔」
それは偽りではなかったとラァは自覚する。
だって、ほら。
くるりと振り向いたその表情はとても子供っぽくて楽しそうなのだから。
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