陣地設営
森の匂いが濃くなるに連れて徐々に木漏れ日は途絶え、闇が濃くなっていく。鳥の鳴き声もか細くなっていき、聞こえるのは軍靴が落ち葉を踏みしめる音ばかりが耳元で響き、静けさがだんだんと不安を掻き立ててしまう。
——やがて空気が重く感じるようになり、無性に喉をかきたくなってくればもうそれは森の術中にはまったも同然だ。もう逃げれない。
迷い、眩み、そして気づけば一人になっている。列を離れればそれみたことかとばかりに今まで樹林の影に潜んでいた獣達が現れ、哀れな子羊を食らう。
それは実際、掌国軍でもあった。いくらラァやその配下が行軍する兵士達を監視していても森の魔力に魅せられて自分の意思とは関係なく列を離れてしまう者はいる。連れ戻すにしても数が多ければ人手が足りない。
結果、目的地に辿り着くまで何人もの兵士が、具体的には一個大体500人規模で行方不明者が出た。慣れない環境の変化、森の魔力という面以上に、水分補給の制限や体の汚れを落とせないなど衛生面での不満が大きなストレスの要因になっていた。
「仕方のないことではあるでしょ。なんせ、この遠征軍の半分以上は北部と西部の基地から選抜された人材だし。まー森林戦に慣れっこの北部方面軍とは比べられないでしょ」
目的地、樹林の一角に見える小高い丘陵地帯は周囲がよく見える高所であり、アルカン大樹林のような視界の悪い地形では陣地とするのにちょうどよい場所であった。中でも最も高い丘に陣を敷いた掌国軍はそこを中心に丘陵地帯一帯を要塞化し始めた。
あちらこちらで兵士達は木を伐採し、巨大な木の壁を築いていく。瞬く間に本陣が置かれた丘は禿山となり、元々樹木が生えていた場所には一夜城もかくやと言うべき巨大な城が築かれていった。亜人や異形を多く抱える掌国ならではの荒技である。
その築き上げられた要塞の見張り櫓で掌国軍が上級準魔将、昌益・ドーアンは上司であるバシュラのうめきに答える。目を包帯で覆っているにもかかわらず、彼が見張り櫓に登っているのは彼がバシュラの副官だからだ。
赤いフード付きのローブを着ている盲の男。顔立ちは人間のそれだが、耳が尖っていることからエルフだとわかる。しかしエルフに似合わず顎髭をちょんと生やしている変わり種だ。そも、生粋のエルフはヒゲなど生えないが。
昌益の隣に立つバシュラは彼の返答を面白くもなさそうにふん、と鼻息を荒くするが、否定はしなかった。全くの根拠がないわけでもないからだ。
「ラァがもっと気を遣えば抑えられた被害ってか?」
「そうは言わん。どのみちこのリスクは避けられなかった。むしろたった500人ちょっとの損害で喜ぶべきだ。本来なら、こんな行軍はあってはならないからな」
昌益の巻く包帯がわずかにゆれる。眼下の兵士達を見下ろせば、その動きは緩慢と言わざるをえない。櫓の下では大きな建材を担いだサイクロプスの兵士にゴブリンの兵士がぶつかり、両者がずっこけた挙句、サイクロプスが持っていた建材が宙を舞い、積み上げられた建材の山に激突して被害を拡大させていた。やる気を疲れが上回り、その理由は言うまでもなくストレスと空腹だ。
富栄養淡水による悪影響は単純な水分補給面、衛生面での弊害にとどまらなかった。川辺を行軍する際は少しでも水に入らないように神経質にならないといけないし、衣類を洗うにも不便となる。加えて、この弊害はすべてに適応される。実践部隊であれ、輜重部隊であれだ。
名もない荒野の厳しい環境に加え、森林の奥地にいる掌国軍へ目的の物資を届けるのは難しい。いっそ、森をすべて焼いてしまってもよかったが、ヒスやバステットなどの原生生物の反撃を思えば迂闊なことはできなかった。
「食い物は最悪、自力で確保できる。けど、水はな」
あと衛生面、と昌益は付け加える。さすがに何十日も同じショーツで過ごす趣味は彼にもない。バシュラのような全裸さんなら話は別だが。
「幸い、兵士どもも徐々にこの環境に順応してきた。しばらくすれば状況も落ち着くだろ」
昌益の言葉にバシュラはそうだな、とこぼす。肯定しているのか否定しているのかわからない曖昧な声音だった。陰鬱な気分になりながらバシュラは物憂げに北を臨む。
はるか北側から攻めくる指輪王の軍勢、それをいち早く見つけることが勝利への近道であることは言うまでもない。そのための拠点、そのための遠征である。
「前途多難だな」
今も森林の奥地、最前線で敵軍を探すラァは思い、盛大なため息がこぼれた。
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キャラクター紹介
昌益・ドーアン)アングマール掌国上級準魔将。レベル139。種族、エルフ(銀のエルフ)。趣味、編み物、手術、読書、農業。好きなもの、刃物、農具、本。嫌いなもの、権力、健康な人物、工業化。
盲目のエルフ。視力がゼロなわけではない。皮肉屋。戦力分析に長けている。生粋の農業愛好家で、掌国で度々農業テロを起こす問題児。ポルポトとか安藤昌益とか毛沢東が好き。農耕型社会主義者。




