荒野行軍
さて、地理の勉強をしよう。
アングマール掌国はアインスエフ大陸南部北方、白喪連山の西側にあるメソアリカ地方一帯を占拠する巨大国家である。その北側にはアルカン大樹林があるのだが、実は掌国は厳密には国境を大樹林と接しているわけではない。
掌国と大樹林の間には無国籍地帯があり、小規模な荒野が広がっている。その荒野自体に明確な名前はなく、住む人間もいない。掌国よりも赤道に近いためか非常に温暖で、大樹林と異なり水気もないためか、カンカンに太陽が照りつける死の大地と言える。
掌国を出発した掌国軍がまず足を踏み入れるのがこの荒野である。単純な砂漠と違い、大地の岩盤は硬く、左右を小高い丘が占めているため見晴らしはすこぶる悪い。草木一本生えない大地だけあって、水場もなくジリジリと肌を焼く太陽はただ歩くだけで体力を奪い喉を渇かせる。
列をなして歩く兵士達を見晴らしのよい丘から眺めながら、ふぅ、とラァはため息を吐いた。これだけはなれないな、と。
荒野自体の面積はそれほどあるわけではない。軍隊が丸一日歩けば踏破できる規模だ。しかし、水分補給のための大量の水がめや水樽を乗せた荷馬車隊と並走するとなれば話は変わってくる。大規模な行軍はさらに足をにぶらせ、落伍者が出ないか、騎乗を許された士官級は自分の隊以外にも目を向け、時には列を離れ木陰で休ませたりしていた。
「ほんと嫌になるよな、ここ」
なれない、というラァの心境を察してか彼女の隣にいた上級魔将の一人、マルショワリーが声をかけた。灼熱の荒野にも関わらず、暑苦しい鉄仮面を被った長身の騎士風な出たちの男で、非常にゆったりとした言葉遣いで話しかけてくる。少なくとも最上位魔将の位にあるラァへの言葉遣いではなかった。
しかしラァはマルショワリーの言動にとやかく文句を言うようなことはなく短く「そうね」とだけ返した。肩をすくめ、マルショワリーは続ける。
「正直なところ、ラァはどう思っているんだ?この戦いに勝ち目があるって思ってる?」
眼下、葬列のように行軍する掌国軍を見下ろしながら、マルショワリーは直截に聞いてくる。その歯に衣着せぬあけすけな態度は見習いたいところではあったが、周りのことを考えればもう少しトーンを抑えて欲しかった。おもむろに彼の足を蹴ると、馬が反応して、ブヒンと声を上げた。
ドゥドゥと手綱をにぎるマルショワリーを他所にラァは視線を行軍する時軍へ向け、彼の問いについて心の中で答えた。
——勝てる戦じゃないといやだなんて。
だから小物なのよ、とラァは嘆息する。加虐趣味があるわけではないが、勝てるかどうかわからない戦というのは心地がいいものだ。何が起こるかわからないという未知感がたまらない、とラァは口元を緩ませる。
あるいは一方的な蹂躙が待っているかもしれない。する、されるに限らずどちらも大好きなラァにとってわかりきっている結果など面白くもなんともない。少なくとも、他人から与えられた分かりきった答えなど1ミクログラムの価値もない。
それでも敢えてマルショワリーの小物感にあふれた質問に答えるならば、おそらくその答えはイエスだろう。
睥睨する視線の先、列を成す掌国軍の軍勢はその総数13万という大規模なものだ。軍の中心となるのは実践経験豊富なラァ率いる北部方面軍であり、数は4万ほど。その傍を固めるのは北部周辺の基地からかき集めた生え抜きの精鋭達だ。
それ以外で目立っている軍と言えば最上位魔将筆頭たるバシュラの率いる中央軍の存在だろう。建国戦争時、その威容をメソアリカ全体に轟かせた生協な軍隊で、その数は2万と北部方面軍の半分程度だが、装備、質共に上である彼らは単純な数の差などものともしない。事実、その武勇を買われて中央軍は先鋒を務めている。
軍隊の規模、質の二つの面で十分過ぎるほど贅沢な遠征だ。加えてこちらには指輪王軍を一網打尽にする策がある。これ以上何を望むのか、と問いたくなるくらい完璧な布陣だ。
「——マル、そんなんだから、お前はいつまで経っても雑魚なんだよ」
馬を落ち着かせ終わったマルショナリーを背後から現れた声がけなす。んだと、と喧嘩腰で振り返るマルショワリーだったが、振り返ると彼の目の前に刃こぼれした包丁が現れ、それは鉄仮面をコツコツとつついた。驚き落馬するマルショワリーに馬上から下卑た笑い声が響いた。
「げひゃひゃひゃ。どーだ驚いたか?」
クルクルと手の中で包丁を回すその男は胸を膨らませ、肩を振るわせる。のっぺりとしただぶだぶのフェイスマスクを付けた両腕が妙に太い男、加工職人を思わせるエプロンを付け、それ以外に衣服は一切纏っていない。俗に言う全裸さんである。
「エド、てめぇ」
「おお、おお。睨むな睨むな。小皺が増えるぜぇ?」
ま、わっかんねーけどなぁ、とエドと呼ばれた男はより一層下品な声でケラケラと呵呵大笑した。それは丘を越えてよく響き、行軍をしていた兵士達の一部がつい顔を上げるほどだった。
「エドワード。あんたには北部方面軍の先導を命じたはずだけど」
冷たい目をラァはエドワードに向ける。美女の冷ややかな視線に、しかしエドワードは何も感じることがなかったのか、わざとらしく肩をすくめた。
「そーいうなよ。ラァ。万事副官に任せてある。俺ぁちとばかし列を離れて周囲を見て回ってただけさ」
「軍律違反って言葉、知ってる?」
「そりゃもちろん。だからこーして副官にちゃーんと引き継ぎしてんだぜ?ほら、こーゆーのはきちんとしねぇと混乱するからな」
「食えいないやつ」
実際、きちんと引き継ぎをした上で自分の元へと来たのなら、ラァはとやかく言うことはできない。軍律は絶対だが、常に絶対というわけでもない。何かあって、司令官自らその上司に報告するということは往々にして存在する。
「それで何かあったの?」
「ぁあ。別に。ちっと窮屈だったんでな。気晴らしにいつメンでだべろうかな、と」
——前言撤回、こいつ殺そう。
ふって沸いた殺意がラァの手を腰の短杖へといざなった。しかしラァがそれを抜くことはなかった。続くエドワードの言葉が彼女を間一髪で静止させた。
「話したいこともあったからなぁ」
「何を話すって?」
抜きかけた杖を握ったまま、ラァはエドワードに詰め寄った。おどけた様子のエドワードは咳払いをして、話し始めた。
「お前が中央に出張ってた頃だ。実は何体か大型のモンスターが北部戦線の要塞を襲ったことがあってな」
「はぁ?珍しくもないじゃない」
名もなき荒野を抜け、北部戦線に突っ込んでくるモンスターはそう珍しいことではない。大抵は大森林での生存競争に敗れ、逃げ出した個体だ。荒野で力尽きるものもいれば、北部戦線まで生き延びる個体もいる。そして、北部戦線に攻め込んでくる個体は大概、大型で精強な個体だ。
「俺も最初はそう思ったさ。けどバステットやヒスっていう大森林の生態系ピラミッドの頂点に君臨してる奴らが混ざってたとなりゃ話は変わってくる。生存競争に敗れたにしたって、バステットは特にな」
なるほど、とエドワードの言にラァは思案顔を浮かべた。
彼の言うバステット、ヒスとはいずれもアルカン大樹林の生態系ピラミッドの頂点に位置している。バステットは巨大な猫型のモンスター、ヒスはコブラに似た蛇型のモンスターである。両者はそれぞれ森林の東側、西側にその支配域を広げており、森林の西側に面している北部戦線に舞い込んでくるモンスターは大概ヒスだ。
東側に支配域を持つバステットが西側に流れてくるというのは稀も稀だ。実際、ラァも長い北部戦線勤務の中でバステットを西側で見た回数は限られる。おそらく両手の指で数えられるくらいだ。
「森でなーんか異常が起きてるって考えるのが自然だろぉ?」
「そーね。で、それをなーんで出発前に言わなかったのかしら?」
「すまねーな。仕事が色々と。ほら、そこの落馬したボンクラと違って俺仕事はできるから」
んだと、と起き上がったマルショナリーは槍を手に取り、エドワードに襲い掛かろうとする。しかしそんな暴挙をラァが許すわけもない。抜いた短杖を構え、即座に魔法を発動させる。
杖から迸った灼熱の炎が飛びかかろうとしたマルショナリーを瞬く間に包み、彼はあっちぃ、ともんどり打って崖下へと転がっていった。
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キャラクター紹介
マルショワリー)アングマール掌国軍上級魔将。レベル140。種族、風鬼。趣味、仮面の手入れ。好きなもの、仕立てのいい衣装、美味しい料理。嫌いなもの、見下してくるやつ、梅、冤罪。クラス、スピアストライカー。
鉄仮面を被った騎士風の男。毒舌家で何にでも噛み付く。しかし中身は小物で、自分を大物に見せるために毒を吐く。臆病者で、しかし他人から舐められるのは我慢ならない小市民のような人物と言える。
エドワード・プレインフィールド)アングマール掌国軍上級魔将。レベル137。種族、ハイ・イースト。趣味、家具作り、苦行。好きなもの、綺麗な人、包丁、加工道具。嫌いなもの、飾ってるやつ、ドライフルーツ、ボノボ。
手製のフェイスマスクを付けた怪しげな男。粗野な口調が目立つ人物で、本人はロールプレイの一環としている。家具作りを副業としており、彼の作った家具は一部の界隈ではカルト的な人気がある。ラァの足に執着しており、彼女でも何度か作ったことがある。




