聖廟都市エンキ
アインスエフ大陸は大きく北部と南部に分けられる。現実における北アメリカ大陸、南アメリカ大陸をベースにしており、南部は北部に比べて森林地帯が多く、自然豊かな土地が広がっている。
「橋渡しの大地」を超えた先にあるシルガリア草原は大陸南部の入り口だ。粉青を思わせる白と青が混じった草原の海が広がり、木々は数えるほどしか生えていない。高さもせいぜい数メートルで、もっぱら草原をかける獅子や豹のベッド代わりに使われている。
草原に生える草花はいずれも深く大地に根を張り、何度踏みつけられてもすぐに立ち上がり、すくすくと育つ。木々の根本に生える白い花はほのかだが心が落ち着く効果があり、草原を生きる人々にとって薬の材料に使われている。
壮麗にして銀嶺、高潔な銀の宿の銀のエルフの聖地はこの場所にあり、生まれ故郷である孤独な都がこの草原の中心にあり、世界の中心まで繋がっているとされる大空洞の真上にそれはある。白喪の都市だ。今は人はおろか、蛮族も寄り付かず、ただ唯一聖櫃のみが都の玉座に安置されている。
いついかなる時も草原に足を踏み入れればどれほど血が薄かろうと銀のエルフであれば自ずとその道のりが示され、空には鴒が飛ぶ。ゆえに巡礼のため、足を運ぶ銀のエルフは絶えず、彼らによって踏み固められた道はやがて舗装され、白い石レンガの街道が作られた。
シルガリア草原を抜けると見えてくるのはアルカン大樹林だ。樹林の奥へ進むに連れて樹高は軽く数百メートルを超える。まるで人の侵入を拒むかのように幾重にも樹林が交差したその森は玄代に入ってなお、神代の伊吹を感じさせる独特な原始の雰囲気を漂わせていた。
否、それは雰囲気だけではない。森の奥へ進めば進むほど深緑が濃くなっていき、同時に空気も変わる。あまりに綺麗すぎる神代の空気は、玄代を生きる種族にとって毒になりうる。さながら高山病にかかったかのような意識の混濁と呼吸困難に見舞われ、逃れなければ遠からず果てることだろう。
遠い時代、遠くは大陸南端まで広がっており、またこの森ははるかファンゴルン大樹海と繋がっていたとされる。歴史的にはなんら物的証拠はないが、そう思わせる理由にこの樹林の奥地に住むレッサーバステットと呼ばれる巨大な猫型のモンスターがいる。
ファンゴルン大樹海を根城にする神代以前から大地を跋扈する大山猫、バステット。その下位種と目されるのがレッサーバステットだ。原種が全長数百メートルに達するのに対して、レッサーバステットの背丈は決して周囲の樹林を超えない。しかしアルカン大樹林の絶対王者として彼らは君臨している。
その大樹林より東へ行くと、樹林を切り開いて建てたと思しき白亜の城壁が見える。樹林を超える数百メートルの壁はレンガでもなければ土でもない。縫合痕が見られないほどなめらかな質感の不気味な城壁である。
直上には円盤型の構造物が下部から三本の足を伸ばして立っており、絶えず弧の部分が不気味な虹彩を放って右へ左へ揺れていた。それは揺れるたびにグォングォンと特殊な音を放った。
城壁を越えると、その先には無数の白いガラスの柱が見える。立ち並ぶ巨大な柱群は城壁の高さを軽く越え、500メートル、600メートル、700メートルと柱群の中心に近づくに連れて高さは増していく。中心に立つ柱の高さは2,000メートルを越えていた。
さながら天へと至る梯子。無数のガラスの柱が連なり折り重なる姿は神秘的であり、無数の結晶の集合体に見える。しかしそれらの柱は決して透き通っているかといえば、そんなことはなく、表面は鏡のように反射していて、空の景色を映していた。
何を隠そう、これらの柱はすべて人工物。人の手によって作られたごくごくありきたりなビル群に他ならない。
聖廟都市エンキ。この街はそう名付けられた。同時にこのエンキという名前は国の名前でもある。
大樹林の東数百キロ四方を埋める広大な都市国家、アインスエフ大陸南部の数少ない文明国の一つである。
そのエンキを支配するのは人間種ではない。エレ・アルカンやエルフ、ドワーフが住んでいないことはないが、彼らは決して都市の支配者ではない。
ビル群を飛翔する影がある。空を飛ぶその影は無数のビル群の合間を縫うように抜け、時にビルの周りを回りながら上昇する。
飛輪の中に見える彼らのシルエットは一見すると人型だが、人には備わっていない部分が見えていた。背中から生える薄い半透明の翼、鳩や鷹といった鳥の翼よりは魚のヒレに近い形状のそれは銀色の骨格によって支えられ、羽ばたくことなく飛翔させる。
姿は人に近いが、体のところどころからは人工物が露出している。鋼のパーツ、歯車、よくわからないチューブ。あるものは顔の半分を覆う機械が取り付けられ、あるものは足の片方が巨大な鉄の筒で覆われていた。
機械仕掛けの天使。彼らはそう呼ばれている。古の時代、エアと冥王の大戦争の折、とある神格によって作成された不死身の天使達だ。
戦うためだけに作られた彼らは、しかし戦争の中で確固たる自我に芽生え、神々の支配から解放された。以来、天使達は数を減らしながらも、この世界の住民として生きてきた。
エンキはそんな彼らの最後の楽園、そして研究施設である。
「んー。こいつはえーっと?」
エンキ中央部に聳え立つフラッシュ・タワー。エンキの支配者層の居住区であると同時に研究所も兼ねているその構造物の最上階でだらけた男の声が響く。特殊な椅子の上で伸びをして、体を左右に降る男は寝ぼけ眼でパソコンをぼんやりと眺めながら、首をひねった。
椅子を移動し、目の前に映っていたデータがなんだったかを確かめるため、男は別のパソコンを起動させる。ひとしきり履歴を振り返り、ようやく男は寝起き直後に見たデータがなんだったかを理解した。
「あー。これあれか。大陸の振動値か。はー。うーん。うまく地震に偽造してんのなー」
男は燃えるような炎髪をかきながら、したり顔でデーター値をプログラムに落とし込む。すでに起動していたプログラムコードはチチと受信音を発し、直後八角形の映像が映っていたディスプレイタブが音紋に似た軌跡を描き始めた。
プログラムが始動したことを確認し、男は満足げにうなずくとそれまで座っていた椅子から立ち上がり、盛大に腰お伸ばすため、背後方向に向かってグラインドをした。彼がグラインドをすると、背中から半透明の白い翼が無数にこぼれ落ちる。普段は収納している翼が気の緩みからボロリと崩れ、広大な研究室兼自室に溢れ出した。
「ありゃりゃ」
溢れ出た衝撃で机やら、椅子やら、パソコンやらが吹き飛んだり潰れたりするが男は気にするそぶりを見せない。日常茶飯事、よくあることだ。こんなことを見越してとりわけパソコン類は頑丈に作ってある。下手な金属製の盾や鎧よりも頑丈だという自負があった。
早々と翼を消し、骨格だけを触手か、電気チューブのように引き摺りながら落ちてしまったパソコンを元の場所に戻したり、椅子を立たせていると、ふと無事だったパソコンの右端で何かが点滅していた。なんだ、と持ち上げかけていた椅子から手を放し、男はディスプレイに駆け寄った。
「えーっと?なんだ電子メール?」
男は訝しむ。電子メールなんていう旧時代の連絡方法を使える文明力はエンキ以外にはない。そのエンキでもパソコンでメールなんて打つ暇があったら、直接話した方が早いくらい電子メールが使える種族は身体能力が優れている。思い立ったが吉日、文面考える前にダッシュだこの野郎、というわけだ。
だから電子メールなんて送ってくるとなればそれこそエンキの外にいる人物に限られる。それは誰だ、と男は頭の中で候補をさらった。
普段はグータラ放題なだけに咄嗟の脳みその働きはすこぶる悪い。まるで油を差していない機械製品のような働きの悪さだ。
「——まぁいいや」
ウイルスかなんかだったらすぐにパソコンぶっ壊そ、と脳筋思考で男はマウスを操作して送られてきた電子メールを開いた。ウイルスへの対処などここ160年以上してこなかっただけに、対応が雑になっていた。
「んー?なんだーこれー」
メールを開くと普通の文面が映し出された。こいやウイルスのつもりで熱球を用意していただけに肩透かしを食った気分になった。
「えー。もうすぐ春ですね、そっちはどうですか、元気?んー?てか誰だよこんな文章送ってきたやーつって」
げぇと男は差出人を見て嫌そうな顔を浮かべた。この場に彼の部下や仲間がいたらきっと面白がってカメラをパシャパシャ回しただろう絵になる顔だ。
「シードぉぉぉおおお???なーんであいつが俺に。あーめんど。めんどくさー」
文章を一行読んだだけでなんだか眠気が込み上げてきた。機械仕掛けの天使は眠くならないのに、眠気を覚えるのはきっとよほどその先を読みたくないからだろう。
「やだなー。あーめんどくさいなー」
ごねて何度もパソコンから目を逸らすが、送られてきたメールの内容が重要なんだろうことは男にもわかる。50年以上、なんの音沙汰もなかった男からの突然のメールとなれば、緊急事態を疑う。金ないからちょーだい、ぐらいのノリでは決してないはずだ。
恐る恐る男はマウスのカーソルを回し、文章を読んでいった。簡潔にまとめると、内容は指輪王の侵攻についてだった。
「指輪王?マジ?」
一度、相対したことがあるが、その強さは名前負けしない尋常ならざるものだった。一度倒しはしたが、あれで滅ぼすには至らなかった。
男は、ヴィーノは乾いた声で笑った。160年の年月を経て現れた宿敵の復活、なるほどシドがわざわざ自分ごときにメールを送ってくるわけだ。
どうやってメールを送ってきたのかは想像がつく。昔彼に渡した通信端末からだろう。レギオンマスター間の円滑な連絡のため、と特注品を渡した記憶がある。
「しかしそうかー。指輪王かー」
——よし、逃げよう。
元「七翼」のレギオンマスターにして現エンキ市長のヴィーノはそう決意した。
*




