Note Story CH.1
ヤシュニナ歴157年7月27日、シドはポリス・カリアスの自宅兼仕事場である旧庁舎の執務室にいた。すでに日は落ち、月が深い闇のなかにぽっかりと浮かんでいる頃合い、執務室の中は真っ暗で、窓から差し込む月明かりが窓際を照らすばかりだ。
帝国宰相との会談を終え、彼らの要求を帝国駐在の大使との連名で本国に伝え終わった彼は再び平穏極まるデスクワーク生活に戻っていた。朝から晩まで陳情書や報告書、許可書にサイン&ハンコをする日々、イスキエリでなければ腱鞘炎になっていたかもな、と愚痴を言いたくなるくらいには煮詰まった日々を送っていた。
ポリス・カリアスがヤシュニナ領となってから3年の月日が経過した。その間、行政規則や処理方法などはすべて従来のやり方からヤシュニナ式へと移行された。そのままのシステムを流用しても、結局ヤシュニナ本国に報告する際には書式をヤシュニナ式に戻さなくてはいけないのだから、二度手間だろうということで最初からヤシュニナ式で処理をするようにした。
最初の1年はミスが多く頭を抱えたが3年も経てば素人も経験者の仲間になる。さらに3年が経てば熟練者の仲間入りをする人間も出てくるかもしれない。すべからく、短期の促成栽培よりも長期の熟成栽培の方が旨みを抽出できるのだから。
仕事が安定し、残業をすることもなくなり、空き時間が増えた。その時間を使って日記をつけてみたり、本を読んでみたりと色々やってはみたが、どれも長続きはしなかった。
思えば、暇な時間を満足に過ごしたのことなどここ数十年なかった気がする。常になんらかの仕事に追われ、職場で寝泊まりすることも珍しくはなかった。もっとも、イスキエリであるシドに睡眠の概念はないが。
なんにせよ、暇は暇だ。水平線に日が登るまで呑気に月を眺めていられるほど気が長くもなければ風流を楽しむ感情があるわけでもなかったので、椅子から立ち上がったシドはおもむろにワインボックスから適当に一瓶見繕って、グラスに注いだ。
帝国は北方、ヤーク伯爵領産の赤ワインだ。おおよそ40年前にアサムゥルオルトⅪ世即位のみぎり、帝室へ献上されたものの内、市井に下賜された10瓶をシドが密かに買ったものだ。ぶっちゃけワインの味などこれっぽっちもわからないが、冷水代わりにはなるだろうと一口飲んでみたが、渋みが強いように感じた。
「なーんか、前飲んだ安っいホットワインの方がまろやかだったな」
保存方法を間違えたか、とワインボックスに手を差し込むが、適温だ。じゃぁやはりワインそのものがまずいのだろう。あるいはもう数年待てばほどよい味わいになるのかもしれない。いずれにせよワインの名産地の一品だっただけにちょっとだけ残念だった。
机の上に腰かけ、シドは夜闇を睨む。庁舎から見えるのは市街、そして港湾だ。夜の月明かりのおかげか、海辺の景色は昼ごろとさほど変わらない。無理に暗視のスキルや魔法を用いなくとも埠頭や船着場が見える。
市街はそうはいかない。暗中、屋根の輪郭だけがぼんやりと見える。深夜0時を回っていることもあって、街は寝静まり、窓を叩く海風も穏やかなものだ。普段は気にも留めない周りの景色や、小さな物音にいちいち反応を示してしまうほどに。
種を蒔き終え、それが芽吹くのを待つ農夫とはこういう気持ちなのかな、とふと自分に語りかける。種まきをしているときは汗水垂らすが、それが終われば少しだけ暇になる。雑草狩りなんかはしなくちゃいけないかもしれないが、それも丸一日を費やすわけではない。
今、シドは芽吹きを待っている。彼がばら撒いた様々な種がひとつ、またひとつと人々の心に芽吹く瞬間を。それは来年かもしれないし、来月のことかもしれない。あるいは数年先か。芽吹いたとき、それは平和が砕かれ、乱世が訪れるときだ。
平和はいつまでも続かない。この3年間、帝国との争いがなくなったから、大陸東岸部にかつてない大安が訪れたわけではなかった。表向きは平和でも火種は必ずどこかで燻っていて、時には小規模の爆発すら起こした。
戦争終結一年後に起きた龍面髑髏の武器密造並びに密輸がいい例だ。帝国との関係が切れた鍛治軍団は首輪を失った餓狼のように各地の反ヤシュニナ勢力と結びつき、武器を流し、反乱を扇動した。
あるいはアスカラ地方の諸国家同士の歪み合いもまた例にあげられる。100年前、200年前の怨恨を引きずるのは実に人間らしかったが、共通の敵の存在は一時、その怨恨を忘れさせていた。帝国が借りてきた猫のようにおとなしくなれば、必然的にその怨恨も再発する。
この3年、シドの仕事はなにも属州の総督としての業務だけではなかった。アスカラ地方の諸国家はもとより、オルト帝国で起きた様々な問題に対処するため、西へ東へ、南へ北へと奔走した。シドが疲れ知らずのイスキエリという人の皮を被った精霊の類でなければ今頃89回は過労死を迎えていただろう。
シドが駆け回るということは必然的にその部下達もあっちこっちを走り回るわけで、疲れ知らずではない種族の部下達は何人かが過労死しかけたこともあった。幸い、回復魔法ないし疲労回復用のポーションがあればそんな労働災害とは無縁だ。たとえ死にかけて死神が手招きをしても、強制的に現実に戻れる素晴らしい仕組みが用意されている。
「まー20世紀とか21世紀の倫理観なら普通にブラックだわなー」
役所仕事や労働作業がスマートドロイドやスーパーAIで処理される時代の人間にはわからない感覚だが。
いずれにせよ、そういった激動の日々は過ぎ去り、一時の平和が目の前には広がっていた。それを祝うには寂しい食卓、寂しい飲み物だ、と残ったワインを飲み干して赤いため息をシドは吐いた。
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次回からは大陸南方の話がメインとなります。なので、しばらくシドやシオン、リドルといったヤシュニナサイドのキャラクターは出ません。名前は出ますが。




