リーチャー
リーチャーという種族を端的に表すならば、変装と暗殺のために作り出された生命体である。彼らは生まれついて名を持たず、顔を持たず、性別を持たない。体つきは人そのもので、しかしどこかデフォルメチックな例えるなら一筆書きで書いた人間のシルエットに似ていた。無貌の悪魔、貌なき人、半透明の百面相などと揶揄される謂れはそこにある。
体の表面はすべすべしていて、弾力はなく、しかして固いわけでもない。前後の区別はなく、目立った前後の凹凸はもとより両足の向きはない。当然ながら性器もない。性器がないということは彼らは生殖行為によって繁殖するわけではないのだ。
リーチャーの特性は至極単純、その容姿を自在に変形させて誰にでも化けられるという点だ。ただ化けるのではない。体の構造からして変化させる。自分の体積以上のものに変化することはできないが、それでもその自由度は並の魔法を凌駕する。
多くの魔法による変身が見てくれだけの変化であるのに対して、リーチャーの変身は機能そのままに再現する。犬に変身すれば犬の嗅覚を得ることができ、鹿に変じれば健脚を得る。小型の竜に転じれば飛翔能力と強大な火炎の息吹を得ることができるのだ。
そのリーチャーにとって人に化けることは造作もない。どのような美しい女であろうと、醜男であろうと誰にだって化けられる。指輪王が冥王より伝授された造種の外法によって創り出された彼らは深く人類世界に沈み、時には扇動者を騙り、時には権力者を騙る。
ジキルもまたそういったリーチャーの一人だ。諜報と情報工作を専門とする彼にとって状況を動かすことは造作もない。餌を撒き、争わせ、混沌をもたらす。まごうことなき悪意の化身たるジキルはそのように振る舞い、そうあることを是としてきた。自分の存在意義を証明し続けるためにリーチャーであるジキルはそれをし続けた。
轟く爆音、他の人間がそうであるようにジキルもまた顔を上げた。視線の先では四つの影がぶつかった。黒髪の女を赤髪の女、茶髪の男と銀髪の男が追っていた。一対三、一見すれば不利に思える状況だが、しかし黒髪の女はその手に持った魔銃を駆使し、銃撃を以って追い縋る三人を蹴散らした。
銃火が火を吹く。容赦なく、ためらいなく、何発も。
彼女の銃口が紫色の光を放つ。一発の弾丸が九つに割れ、その一つ一つは竜のアギトを剥いた。先頭を走っていた赤髪の女は無数の六角形を散りばめた障壁で以てそのすべてを防いだ。
大技の隙をつき、二人の男がそれぞれの持つ剣と斧を振り下ろす。女は流麗な空を飛んでいるにもかかわらず水底の海豚を彷彿とさせる動きでその二撃を躱した。
目で追うことが困難な高速戦闘、技はもとより女の行動はただ銃を撃つという単純な動作だけでは終わらない。蹴り、巧みな体捌き、時には頭突きすら利用して黒髪の女は三人を弄んだ。
やはり強い、とジキルは黒髪の女の動きを見て奥歯を噛んだ。
彼女に、エンシェロッテ・クロイツァーに接触できたのは全くの偶然だった。その実力の高さは指輪王の側近から聞いてはいたが、実際に目にしてみると驚異的な状況判断能力と戦闘センスの持ち主であることが伺いしれる。
彼女にとって宙空、地面という区別はない。多くの人間が技巧を使い続けることで滞空するのに対して、彼女はほんの一瞬しかそれを使わない。必要な時、必要な場所で技巧を用い、彼女は宙を舞う。
技巧を使う場合は気力が失われ、それは使い続ければより多く失われる。しかしエンシェロッテはその失われる気力の量をおそらくだが計算して戦っていた。げに恐ろしきは追うのもやっとな高速戦闘で随時その情報を処理している点だ。一体どれだけ馬鹿げた脳みそがあればそれができるのか。
一度、エンシェロッテに化けてみたことがあった。彼女と別れた日の夕刻、自分が嵌めようとしているのはどんな人物なのか、という興味から。
結果として外見は真似られた。しかしその能力まで真似ようとした時、体から血が吹き出した。癒えぬ傷、それは何度変身を重ねても快癒することはなかった。
リーチャーと言えど万能ではない。例えば変身前の時に負った傷は治らない。変身時であっても元々変身元が負っていた「呪い」や「宿命の傷」などは残ってしまうことが多い。
一度ならず二度までも同じミスを犯した。自身の無能さ加減に嫌気を覚えると共に俄然、ジキルはエンシェロッテへの興味を覚えた。銃火を以て万象を切り開く黒髪の才媛が負っている「枷」と「重荷」に底知れぬ興味を覚えたのだ。
それはリーチャーが持つべき悪感情とは相容れない好意であると理解しながら、しかしジキルはエンシェロッテにちょっかいを出したい気持ちを抑えられなかった。ちょうどいい相手が見つかってよかった、と盛大にエンシェロッテに遊ばれている赤髪の女達を見ながらジキルはほくそ笑んだ。
見る限り、エンシェロッテは彼女らを殺すつもりはないようだ。当然だろう。エンシェロッテにすれば殺す理由がない。せいぜいが肩慣らしくらいにしか感じていないはずだ。散々に殴ったり、銃で攻撃したりしているが、そのいずれも相手を絶命させるに足る威力はなく、また急所を狙えるタイミングでも彼女は意図的に銃口をずらしていた。
言うなれば猫とじゃれているにすぎない。そんな戦いをいつまでも見物しているほどジキルは酔狂な人物ではなかった。
カシャリと彼がその場から去ろうと茶色い雪を踏んだその直後、何かが彼をついばみ、宙へと放り投げた。
なんだ?
突然前触れもなく無重力状態を味わい、ジキルは混乱した。どういう理屈で自分が空に浮かんでいるのか、まるでわからなかった。
ただ唯一彼が聞いたのはワザとらしいカラスの鳴き声だった。
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