グシャリ
裏切りとは唐突に、何の脈絡も前触れもなく訪れるものだ。隣を笑顔でにこやかに歩いていた隣人がふと振り返ってみたら凶笑を浮かべてナイフ片手にこちらを刺し殺そうとしてくるかもしれない。
人の感情の機微はもとより、腹の中で何を考えているかなど人には到底計れない。その腹の中を探ろうとするのはそこの見えない泥沼をさらうのと同義だ。
それは隣人であっても変わらない。家族であっても変わらない。近しい個人すら腹の中を知ることすらできぬ。信用ができぬ。
隣人すら信頼できぬのだ。況や今日になって初めて知り合った人間など信頼できない。信頼できないが、信頼しようと努力しなくてはならない。必要なジレンマ、しかし裏切られたとしてもコリトはなんとも思わないだろう。彼にとって裏切りとはそれほどにありふれていた。
——コリト・ヌーヴォラは帝国の諜報員である。彼の齢は今年で34となり、その半生を帝国のために捧げて生きてきた。
物心ついた時からコリトの世界に信用、信頼という言葉はなかった。彼は母親の顔を知らない。父の顔だけをコリトは知っている。手癖の悪い男で、流れの詐欺師をやっていた男だ。幼い頃からコリトもまた父の手伝いで詐欺の片棒を担がされた。
その父は粗暴で粗雑、とにかく人間のダメなところをごった煮にしたようなひどい人物だった。暴力は当たり前、松明で肌を炙ったり、釘を背中に刺したりもしてきた。仕事に失敗するといつも父親はコリトに当たり散らし、その度にコリトはだんだんと人間らしさを失っていった。
それでも彼は父親を信頼していた。肉親の情、などというありふれた感情がまだコリトの中にあり、その父親に褒められたいという歪んだ願望からコリトはあくせくと人を騙した。父は失敗しなければ殴らないという歪な信頼のもと、彼は仕事を続けた。
悪いことをしている自覚はあったが、それも父親を想えば我慢できた。それも彼が16になる頃には終わりを告げた。
ある仕事に成功して街の酒場に行った時だった。酒場に衛兵が来て、コリトと父親を逮捕しようとした。仕事に成功したから、父親は自分を助けてくれると思った。
けれどコリトは裏切られた。父親はコリトを残して逃げてしまった。コリトは衛兵に捕まり、過酷な尋問を受けた。その尋問はコリトにとってはいわば天罰そのものだった。これまでのツケを払わされているんだ、と思うことにした。
尋問が始まり、数ヶ月後のことだ。看守がコリトに彼の父親が死んだことを告げた。衛兵に追われている最中、真冬の川に逃げ、そのまま凍死したという話だ。せめて亡骸と合わせて欲しいと言うと看守はダメだと言った。
それから数ヶ月が経って、生きる気力も無くなっていた頃、華美な衣装を着た男が彼の元を訪れた。男は帝国の貴族だった。看守に金を渡し、コリトを拾い上げた男は彼をスパイとして育てた。色々な人間を裏切らせ、色々な人間を騙すよう強要した。
コリトがヤシュニナに送られたのは男に拾われてから二年の月日が経った頃、彼はヤシュニナにスパイとして潜入した。表向きはただの出版社であるトパラ出版に就職し、裏では同社の勧める広報戦略を手がけた。
詰まるところ、いい例と悪い例である。子供用の童話を多数出版し、比較的裕福な子女に国家への疑念を植え付けるというありふれた思想の扇動だ。
それを悪いとは思わない。ただ粛々と自分の仕事を続ければそれでいい。信頼、信用などではなく、忠誠や敬慕でもない。ただ唯々諾々と所定の作業を続けるだけで、人は悩まなくなるのだから、とコリトは考え今日まで生きてきた。
そのはずだった。
——恐怖だ。目の前には恐怖があった。
どの選択肢を間違えたのかはわからない。だがきっと何かを間違えたのだろう。
Λと名乗ったサイクロプスの女は狼人と猪人の仲間から耳打ちをされると即座に近場にいたコリトの腕を掴むと彼を引き寄せ、彼の右頬と右肩にそれぞれ太くて分厚い灰色の腕を添えた。
突然の行動にコリトはもちろん、彼の仲間も動揺して咄嗟には動けなかった。その行動の唐突さに誰もが固まり、容易にΛはコリトの生殺与奪の権を握った。
「つ……えっと」
「動かないでね。でないとあんたのことボロ雑巾にしちゃうわよ」
外見からは想像もつかないクリアで女性的な声で物騒なことをΛは口にする。その言葉に嘘はなく、彼女が数ミリほど両手同士の距離を離すとみちみちと筋肉が上げてはいけない音を上げた。
死ぬ、そう直感させるには十分な暴力を前にして思考放棄の生肉アンドロイドを気取れるわけもない。Λが少しでも気分を害すればたちまちコリトの体はビリビリと紙細工のように裂かれるだろう。おべっかでもなんでも使って生き残りたいとコリトが考えるのは自然なことだった。
「——あんた達はなに?ただの出版社の人間ってわけじゃないでしょ?」
「あっが」
「あっが?そうじゃないでしょ、あなたが言う言葉は」
ゴキリという音がした。気がつけばコリトの右手がなくなっていた。切られたわけではない。羊皮紙を丸めてゴミ箱に捨てるように、コリトの右手は握り拳などという表現では生ぬるいまでに小さく丸められていた。骨を一瞬で砕き、ぐちゃぐちゃになった右手を粘土細工さながらに小さく小さく圧縮したのだ。彼の右手は帽子かけの球体サイズにまで丸められ、痛みさえ感じなかった。
周囲は目を見張った。過去、両手を潰された人間は見たことがある。爪をすべて剥がされた者、舌を抜かれた者、生皮を削がれた者、と多くの拷問の光景を見てきた。
だが目の前のコリトの右手は違う。右手があったという意識すら今は抱けない。人間の体の部位だと認識できないのだ。恐ろしいまでの膂力は容易く人体を壊し、目を覆いたくなる惨事をもたらした。
「さぁ、もう一度だ。あんたらはなに?」
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