序章・本論
大陸東岸部西方の国境線、俗に大長城と呼ばれる巨大な大城壁はそこにある。
北の氷土から南の樹林にかけての約3,500キロメートルの長大な大城壁は高さの平均が90メートル、最も高い場所では実に130メートルという圧倒的な高さを誇り、壁の厚みは平均で約8メートル、最も厚い場所では実に十数メートルにも及ぶ。それは西方の覇者がかつて築いた城砦に勝るとも劣らない異常な建築技術によって完成された城だった。
長城の内部にまで手が入れられており、内部にはいくつもの開閉式の狭間があり、敵軍の大規模侵攻に際してはその穴から自動装填を可能とした連射式床弩を放つ仕組みになっている。さらに驚くべきことに内部には迅速な連絡や運搬を可能とするために鉱山施設で瓦礫の撤去などに用いられるトロッコが設置されており、これらは帝国内で産出される特殊な鉱石を砕くことで稼働する。
しかも、これらいくつもの要塞的要素を持つ巨城が草原にただぽつんと味気なく建てられているわけではない。長城の帝国側、つまり東側とも人類側とも表現できる側面には城壁を物理的にも精神的にも支えるための施設が幾重にも重なって城塞都市と呼ぶべき様相を呈していた。
すなわち、城壁の長城部分から根元に至るまで伸びる巨大な段々坂とも形容すべき坂道の左右を兵士達の家族が住む民家、武具の生産、補修を行う鍛治工房、衣類の生産を担う裁縫施設、負傷者を救命するための各種病院、戦没者達を埋葬する共同墓地に至るまで、この大長城は戦うために必要なものが揃っていた。
帝国の過剰な異種族に対する敵愾心がこのような重厚にして堅牢な大長城を作り上げた。それは換言すれば異種族に対する恐怖である。かつての蛮行、指輪王によって扇動された邪悪なる闇の種族達による口の葉に乗せるのも憚られる蛮行は鮮烈な歴史として語り継がれている。たとえ、その当時の人間でなくとも吐き気を覚える醜悪な歴史となって。
歴史とはえてして敵対心を煽る目的で使われる。もし異種族、ことに亜人達のオルト、アスカラの両地方に対する蛮行が語り継がれてこなければ巨費を投じ、半世紀以上の時間を投じ、働き盛りの成人をごまんと投じることはできなかっただろう。
ことに帝国は歴史をよく使う。自らの行為を正当化し、その欲望を叶えんがために彼らは歴史を使う。時には歴史を捻じ曲げてまで。
勝者の権利と言ってしまえばそれまでだ。敗者には何かを言う権利などない。
しかし帝国は、他ならぬ帝国は敗者となった。自らが仕掛けた愚かな戦いによって自国の領土の半分を失い、かつては栄光ある帝国旗だけが掲げられていた城塞都市の尖塔にはいくつもの色取り取りの旗が翻っていた。
「壮観とはまさにこのこと。いつ何時見てもこの場所に立つと果てしない高揚感を覚えます」
正直に自らの胸の内を吐露したのは剣の軍令ギーヴだ。中世的な容姿の彼はその二つ名が示す通り、腰に剣を帯びて胸壁を両手で掴んで東側に身を乗り出していた。高所ゆえに風は強く吹き、長く結んでいない髪が彼の顔に絡みつく。それらを鬱陶しそうに拭いながら、ギーヴは視線を都市からただ一人、都市には目もくれず遥かな西方の荒野を望む黒髪の男に向けた。
ギーヴと彼が赴任して約三年。帝国がアスカラ地方を手放したことで空白となった大長城の戦力を補充する形でヤシュニナ軍が駐屯するようになって三年の月日が経った。無論、大長城に駐屯しているのはヤシュニナ軍だけではない。アスカラ地方の諸国連合、推計十万以上の戦力が常駐している。それを示すように尖塔には各国の国旗が翻っていた。
ギーヴをはじめとしたヤシュニナ軍の将校はその諸国連合軍を統率する立場にいる。各国の委任状を受け、軍権を握る立場にいる。軍属としてはある種の高揚を覚える立場だ。しかしギーヴが話しかけた男はその立場に喜ぶこともなく、ただひたすらに西方の荒野と向き合い続けた。
彼、埋伏の軍令シオンはギーヴの言葉に答えることはなく、ただひたすらに西方の荒野を見つめていた。それはただ見つめているのではなく、自分には見えない何かを見つめているようにギーヴには感じられた。一体何を見つめているのだろうか、と思わずにはいられないほど彼は城壁の頂上に登るといつもただ一点のみを見つめていた。
西方の荒野、その先には死霊国イムガムシャがある。ここ、大長城第八管制区に赴任すると聞かされた時、その名前をギーヴはシオンの口から聞いた。
死霊国イムガムシャは死人占い師が治める不毛な国だとギーヴは聞いている。国民はおらず、ただ唯一ネクロマンサーがいるだけ、ネクロマンサーただ一人が国の王であり、国民だ。
そんなものを国と呼んでいいのか、と疑問に思ったこともある。これまでの自分の感じてきた、体験してきた常識とは全く違う未知なる敵の存在に少なからずギーヴは動揺していた。だが、第八管制区に赴任してからの約三年、群がる屍兵と戦い、時には死将とも刃を交えた今となってはその疑問がどれだけ小さいことなのか身をもって理解した。
畢竟、国などというのは名乗りに過ぎない。ある種の宣言、国という概念が理解できるという意思表示に過ぎないのだ。
大地を埋め尽くさんばかりの屍兵の大軍を見た時、彼らの名乗る「国」というものがどれだけ陳腐な名乗りなのか、肌で感じた。感じざるを得なかった。
国と名乗るのはこちらを安心させるためだ。国となるのはこちらの言葉がわかるフリをするためだ。国と名乗るのは交渉できると思わせるためだ。国という人間社会の文明の象徴を敢えて名乗り、それっぽい名称を付けて、いざとなれば話せる相手だと思わせる。その程度のものなのだ、ネクロマンサーにとって、いや闇の種族達にとって国とは。
「奴らと言葉が通じるなど考えないことだ。あれらは理屈の埒外にいる」
赴任した初日にシオンに言われたことを思い出しながらギーヴは顔を顰めた。言葉が通じない怪物というのは大勢見てきた。だが、言葉のキャッチボールができるのに話が通じない相手というのは見たことがなかった。
まるで黴毒、言葉を言葉という武器として扱う彼らの本質はまさしく得体の知れない病そのものだった。私はあなたを理解する、しかしあなたは私を理解できない、と言われているようで非常に不気味で薄ら寒かった。
シオンの見つめる先にそれがいる。善悪ではなく、ただ己の欲望のために生きるネクロマンサーがいる。顔も知らない、ただ品性の醜さだけを知っている敵がいる。なるほど、シオンが常に西方を意識し続ける理由もわかる。
そこまで考えてふとギーヴは疑問を覚えた。どうしてシオンはそのことを知っているのだろうか、と。
ギーヴはシオンの出生について全く知らない。興味をもったこともなかった。だが三年の間、同じ場所で仕事をしていてどうしてああも屍兵への敵愾心を見せるのか、また見てきたかのようにネクロマンサーについて、闇の種族について知っているのかがわからなかった。
「軍令シオン、一つよろしいでしょうか」
「なんだ、ギーヴ」
意識だけがギーヴに向けられた。
「なぜ、軍令シオンはイムガムシャにああも敵愾心を見せるのでしょうか?私の知るところ、軍令シオンは彼の者共を間近で見たことは」
「違うな」
言い終わる前にギーヴの言をシオンはばっさりと切った。言葉を遮られ、ギーヴは困惑するが、同時にシオンの否定する言に興味を覚えた。
「どういうことでしょうか」
「いい機会だ。お前には告げておくべきかもしれんな。無論、アルガやアスランにも告げるべきだろうが」
大長城にはいない残る二人の副官の名前を口にするシオンはいつになく楽しげに見えた。それは胸襟を開いて話すことができる機会に巡り会えたことを喜んでいるのか、あるいは自分の素性を面白おかしく思っているのか。
もしくはそのどちらでもなく、内に秘めた何かがあるのかもしれないが、ギーヴにはわからなかった。ただ自分の主人が見せた笑顔は苦しさや苦々しさを感じさせない空色の風を感じさせるものであった。
「——私はヤシュニナの人間ではない。いや、それどころか、お前達とは種族が違うのだ」
「エレ・アルカンではない、と?」
ならばイーストだろうか、とギーヴは考えた。この世界において人間種と言われればエレ・アルカンとイーストのに種族だ。エルフやドワーフ、ハーフフットなども人間種に数えられるが、あれらは身体的特徴の点で「人間」というカテゴリとは違う。
無論、エレ・アルカンとイースト以外にも「人間」がいることはギーヴも知っている。数々の人外の建築物を築いてきた「西方の覇者」、エルフすらたじろぐ美貌を持つという「シード」などだ。
しかし目の前のシオンはどう見てもただのエレ・アルカンかイーストに見えた。少なくともギーヴにはシオンと他の「人間」の違いがあるようには見えなかった。
「今、お前はこう思っているな。私にはお前達となんら違いがないように見える、と」
こちらを見透かすような言動にギーヴは表情を緊張させた。それを見てシオンは気にする必要はない、と言った。
「私の種は大陸西部に起源を持つ種族でな。長らく西方で栄えてきたせいで東岸部へ行くことはなかったのだ」
なるほど、と得心が言ったようにギーヴはつぶやいた。大陸西部、つまりイムガムシャも指輪王の領域も超えた本当の意味での大陸西部に起源を持つ種族であれば確かに自分が知らないことも納得がいった。だが同時に疑問が生じた。
そんな遠くの地に起源を持つシオンがどうして大陸東岸部にいるのか、というありふれた疑問だ。
「私の種族はエア・アストラという。大陸西部の主要な人間種であるエレ・ステラの貴種、らしい」
「らしいとは?」
「総督シドから聞いただけだからな。私も自分の種族のことは知っているが、どういう成り立ちかまでは知らん」
エア・アストラという種にギーヴは聞き覚えがなかった。恐らくは少数の種族なのだろう。貴種という説明にも納得がいく。
「そのエア・アストラの王家がかつて西方、いやイムガムシャ周辺にあった。名前はカント、カント王国という。俺はその王家の人間だ」
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