序章・序論
ヤシュニナ歴157年6月29日、雨上がりのポリス・カリアスの景色を背景に界別の総督シドはいつものように仕事をしていた。
仕事と言ってもそのほとんどはすでに副官や担当の役人が目を通し、問題ないと判断された書類にシドが受諾したと証明するために印を押すだけの簡単なものばかりだ。彼が一から書類を作成したり、不備がないかをチェックしたりといった細々な作業をすることは総督職に就いてからはバタンと減った。
パン、パンとルーチンワークと化した捺印作業を繰り返し、いい加減に飽きてきたシドがふと振り返って窓のそとを見てみると、雨上がりの通りをパラパラと歩く人々の後ろ姿が見えた。その中には明らかに人間ではないものも混ざっていた。以前の、三年前のポリス・カリアスでは決してありえなかった光景だ。
雨上がりの空はまだ灰色の雲が残っていて、その隙間から太陽の光がさんさんと照り輝く。六月の終わり、七月の始まりを予感させる湿気だけは異様に高いこの時期ということも手伝って、道ゆく人々の格好は夏服であることが多い。帝国風の夏服だけでなく、ヤシュニナや東方大陸のものを着ている人間もいた。
変わったのは住民の種や出立だけではない。街の建物の造りも帝国式とヤシュニナ式が渾然一体となり、特に港の周辺はヤシュニナ式の建築が多くなった。いずれも石造りだが、屋根の角度の付け方や扉の位置、床の高さとまるで違う両国の建築様式は見比べればすぐにわかるし、同時に違いが顕著であるからより混沌を極めていた。
それは純帝国人からすればきっと異様な光景に見えたことだろう。自分の知らない意匠の建物が隣家に建っていて、頭が牛の人間が隣人で、婆娑羅っぽい出立で往来を歩いているのだから、叫ばない方がおかしい。
実際にこれは起こったことだ。三年前のポリス・カリアス占領からヤシュニナへの割譲の中で住民達がヤシュニナ総督府が示した施策に反対したり、突然隣人となった異種族に敵意を示してトラブルになるということが何度となくあった。
元々都市に住んでいた住人からすれば幼い頃から「悪魔」とか「悪鬼」とか言われていた異種族達がある日突然隣の家に移り住み、あまつさえ隣人面をするのだ。価値観は崩壊し、どうしようもない自己矛盾を脱却するためにやり場のない憤りをぶつける先をさがすだろう。
それも一年、二年と時間が経つにつれて和らいでいった。時間と献身、この二つがなければ移り住んだ異邦人を受け入れることはできなかった。
あと挙げられるとすれば都市統治の政策が大きい。
二年間の徴税免除、職の斡旋、帝国法の廃止などが主な政策として挙げられる。何よりも喜ばれたのは商業関連の規制を撤廃した点だ。
もとより、ポリス・カリアスは商業都市として栄えていたが、その取引先は主にエイギル協商連合や東岸部三国に限られていたため必然的に取引量は制限されていた。しかしヤシュニナの統治下に入り、取引先は格段に増えた。同時に物資の流入量も流出量も爆増した。
めまぐるしく右へ左へ移っていく物資の数々はそれまでのポリス・カリアスにはなかった品々ばかりだで、市内の商人達を歓喜させ、市民達に活気をもたらした。換言すればポリス・カリアスはより栄え、より富んだ。
統治の最初期こそ混乱はあったが、今となってはポリス・カリアスほど栄えている都市はそう多くはない。黄金都市と呼ぶものも少なくはなかった。もっとも、その都市を管理するシドにとってはこの好景気はあまり歓迎できるものではなかったのだが。
「景気変動?」
会議室にシドの澄んだ声が響いた。澄んだ声からは想像できない間抜けっぽいセリフに張り詰めた場が弛緩して、集まった総督府の幹部達は苦笑を浮かべた。
「はい。現在のポリス・カリアスの好景気は先の徴税免除に伴う一時的な出入の増加がもたらしたものに過ぎません。現在は税率をヤシュニナ本国が定めたものに戻しているので、数値上は黒字でありますが前年に比べて明らかに物資の輸入、輸出の両方で減少しています」
「まー。そうなるか。税率は変えられんしなー」
景気に関する話題が出たのはつい一週間前の会議の場だ。諸政策の効果を吟味する場であり、今後のポリス・カリアス統治について意見を出し合う重要な会議である。その場で出た統治に差し障る重大な瑕疵、対応を急ぐ必要があることは明々白々だった。
会議中、終始具体的な対応策は出なかった。総督府には行政や司法に関する様々な権限がヤシュニナ本国から与えられているが、関税率や商業権に関する諸々の法律などは本国で適用されているものを使う必要がある。勝手に税率を変えたり、一部の法律を廃止したりなどはできないのだ。
「行政法、いや。それもなー」
判子を押しながら、シドは独りごちた。かつては市長の執務室だったという華美な一室にシドの声がさびしく落ちた。
現在の税収はそれほど悪いものではない。例えるならインド総督になるようなもので、受けれる恩恵は計り知れない。恐らくヤシュニナ本国の各州の税収を見てもポリス・カリアスよりも上である州は首都がある第二州くらいだろう。
しかしその恩恵に胡坐をかけば自ずと自滅する。歴史がそれを証明している。
現在のヤシュニナによるポリス・カリアスの統治は帝国時代のものを引き継いでいるに過ぎない。あくまでも取引先を増やしただけで、独自的な統治の色を示し、ポリス・カリアスの優位性を示せたわけではない。
「難しい顔をしていますね、シド」
執務室の扉をノックもなく開けて入ってきた人物にシドは視線を向けた。見知った顔、そしてその後ろを歩く疫病神を見てシドはげんなりとした表情を浮かべた。
「カルバリー、それに殿下じゃありませんか。どうしました、殿下は仕事中では?」
「先生に言われた宿題はすべてこなしました。それでカルバリー様の仕事を手伝わせていただいたのです」
蜂蜜色の長髪を黒いリボンで結び、年頃の女性らしからぬ男装の乙女は胸に手を当て笑顔でそう言った。彼女から視線を逸らし、シドはカルバリーを睨んだ。どういうことだ、と。
「半ば強引に奪われたんですよ。それに私の方も色々と煮詰まっていたので、どうせならと」
「機密に関わる文章だってあるだろ」
「一応、問題のない書類に限定はしていますよ」
そういう問題でもあるまい。辟易した様子でシドは遥かなロサ公国から長期留学中の皇太女、つまりは王女様であるところのグリームヴィルゲットを睨んだ。
平時ならばシドが感情を表に出すことはない。しかし、長いデスクワークと今後のポリス・カリアス運営、引いては人類圏の存続を考えれば、彼の脳みそだってパンクする。とても礼儀だ礼節だを言っていられる余裕ではなかった。それこそ、今の自分なら皇帝陛下とかにドロップキックもできるな、とすらシドは思っていた。
帝国の皇帝にドロップキックをかますことに比べれば、小国の次期女王に無礼を働くことなど屁のように思えてならなかった。何より、自分のことを先生と呼ぶ彼女がこの程度のことで憤慨することはないとわかっていた。
「ひどい言い草じゃないですか、先生。先生のお仕事を手伝ってあげたようなものなのですよ?」
「では先生として言わせていただきます、グリームヴィルゲット殿下。あまり他国の政治だの行政だのに関わるべきじゃありません。碌なことになりませんよ?」
言っても無駄だろうけどな、とシドは心の中でつぶやいた。
グリームヴィルゲット・ビョール。彼女は北方の小国ロサ公国の姫だ。それも次期王位継承権第一位のいわゆる次期女王である。その地位は他国でも十分重宝されるもので、有体に言えば政治的駆け引きの道具に使われる立場だ。
三年前のロデッカ襲撃事件の前日に彼女はヤシュニナへ留学という形で来訪した。そしてそのままなぜかシドについて回り、彼の赴任先であるポリス・カリアスまで着いてきてしまった。
「愛されていますね」とカルバリーは言うが、そういうのではないことは女性の感情の機微に疎いシドでもわかる。端的に表現すればグリームヴィルゲットが自分に抱いているのはある種の知的好奇心である、と。彼女にとって自分は未知の対象で、外の世界を教えるだけの存在にすぎない。言い換えれば興味を持っている限り、彼女が敵対することはない。
カルバリーが彼女に重要な書類を触らせることはないことも、聡い彼女が自分から触ろうとしないことも十分に理解している。それでも一抹の不安を拭えないのは自分の気が立っているせいだ、とシドは結論づけた。
「——取り扱いには気を遣え」
「承知しています。ああそれと、シド宛てに手紙を受け取りました」
どうぞ、と言ってカルバリーは書類の束の間から抜き取った一通の封筒をシドの机の上に置いた。
受け取った封筒はしっかりと蝋で封が為されていて、使われていた印は「定時報告」を知らせる青の印だった。それだけでどこから届いたものなのか、なんとなくだがシドは察することができた。
「——カルバリー、明日から一週間、いや十日ほどここを空ける。悪いが、調整を頼む」
「了解しました。で、どちらへ向かうつもりですか?」
「西だな。西の大長城」
「ふけるんですか?」
「イスキエリも老けるのですか!?」
「イスキエリになって千年経つと老けるらしいとは聞いています」
興奮した様子のグリームヴィルゲットにカルバリーは冗談めかして言う。漫才に興じる二人を他所にシドは封蝋を割り、中身を改めた。
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第五章スタートです!!




