フリーハンド
「あーあ。泣かせちゃった」
ポツンと残され、右手が空を切り呆然と立ち尽くすシドを尻目に近くで聞き耳を立てていたエスティー・ベルがくつくつと笑い混じりに彼の失敗を鼻で笑った。ムッとして彼女を睨むと、エスティーはだってそうでしょ、と言いたげな目で見つめ返してくる。
彼女の言う通りであることはシドも自覚している。もうちょっと言い方というのもあったかもしれない。無理です、と土下座でもしながら言えばまだNoteの溜飲も下がったかもしれない。
「まー全面的にシド君が悪いとは言わないけど。せめて近くのリゾートで勘弁してくれ、くらいは言うべきだったんじゃなくて?」
指摘としては真っ当で、男女の言い争いは大抵男が女を泣かせた時点で、男の負けだ。そう、女性は必殺泣き落としという技を持っているのだから。逆にここで男が泣くと女々しい、男らしくないと言って非難されるのだから、全く世の中とは理不尽にできている。
泣いて出ていった女をどうするかと聞かれれば、男が汗だくになって後を追い、橋の上で抱き合って仲直りと相場が決まっている。古くからのロマンチックシチュエーション、それを再現するかはさておいて、早々にエスティーとの会話を切り上げ、シドはレギオンホームから出て、Noteの後を追った。
Noteは種族こそ特別だが、身体能力自体は一般市民と変わらない。全力疾走をするにも限度があるし、レベル150のシドからすれば余裕で追いつくことができる、そう踏んでいたが、ホームの玄関から出た頃にはもう彼女の姿はどこにもなかった。
まずいな、と思いながら周囲を見回すと昨日降った雨でぬかるんだ道に真新しい足跡が残っていた。足の大きさはちょうど15、6の人間の少女と同じサイズで、それは街の方向にむかって続いていた。
「リングベルトの方か。あいつの足なら今から追えば間に合うな」
虚空から黒真珠の杖「テアルカストーシャ・デフィーツェ」を取り出すと、シドはそれに腰掛け、ふわりと宙に浮いた。そして杖の先端から強力な風魔法を吹き起こし、勢いよく出発した。
よくある魔法使いの絵そのもの、灰色のコートに袖を通した魔法使いは風にのって、空を飛ぶ。障害物が一切ない空を彼が飛んでいると、程なくして街に向かって伸びる街道をとぼとぼと歩くピンク色の毛玉の後ろ姿が見えてきた。いつもはぴょんぴょんとやかましく反応させている彼女の触手も今はなりをひそめ、失意の中にいるようにだらりと垂れ下がっていた。
落ち込んでいる様子の彼女を果たしてどうしようか、とシドは思案し、とりあえず話しかけるかという短絡的な結論にいたると、杖の高度を下げ、彼女の後ろに降り立った。地面に降り立った時の足音でシドの存在に気づいたのか、Noteはひどく不機嫌そうな顔で振り返り、彼を睨んだ。
「なに?」
「挨拶だな。一人で街に行くなんて俺は聞いてないけど?」
「いーじゃん、別に!シド君の許可なんてなくたって!」
だったらせめて財布くらい持っていけよ、とシドは自分の財布をNoteに投げてよこした。普段から財布を持ち歩かないNoteのことだ。今回も財布など持っていないに違いない。シドから受け取った財布をNoteは不機嫌そうな表情を浮かべながらも服の内ポケットにしまいこみ、礼も言わずに踵を返してリングベルトの方角へ歩いていった。
「Note!あのリゾートは無理だけど、近場なら行けるかもしれないぞ?」
「もーいーよー!どーせ、エスちゃんに言われてあたしを追ってきたんでしょ?シドくんの誠意を見せてよ、謝りたいんだったら!」
ワガママだな、と内心で思いながらもシドはそんな感情をおくびにも出さず、悪かったよ、とだけこぼした。それを聞いてNoteはますます不機嫌になり、もー違うってー、と地団駄を踏んだ。雨のせいで彼女が地面を強く踏むと泥が飛び、スカートのすそが汚れたが、お構いなしだ。
元来、Noteは気まぐれだ。ワガママでいつもシドやその周りを振り回すトラブルメーカーだ。彼女から目を離せばすぐにいらないアクシデントが起こり、いつもシドらはそれに巻き込まれる。それでもなんだかんだと言って楽しい日々が過ごせていたから、シドも周囲もNoteを可愛がったし、彼女は「七咎雑技団」に居座っていた。
「Noteはどうしたいんだ?俺にできることならなんでもするぞ?」
「じゃぁ、あの雑誌のとこ連れてって!」
「それは無理。俺にもできないことはある」
「じゃぁ、今日一日放っておいて!」
「え、まじ?」
嫌な予感がしてシドは自然と首筋に冷や汗をかいた。Noteはトラブルメーカー、目を離せばいらぬトラブルを持ち込んでくる天才だ。それが意図してなのか、無自覚なのかは見当もつかないが、とにかく彼女を一日フリーハンド状態にさせるなんて、のび太君にドラえもんの四次元ポケットを預けるくらいにはありえないことだ。
普通ならば絶対に許可しない。だが、ここで首を縦に降らなければNoteはますます機嫌を悪くすることは確定的だ。仕方なくシドは頷き、それでいいのだ、と言わんばかりにない胸を張って、Noteはシドの財布を持って街へと繰り出していった。大股でリングベルトへ行くNoteの後ろ姿を見送りながら、シドは再び杖に腰掛け宙へ浮くと、彼女よりも一足先に街へと降り立った。
保護者として、Noteから目を離すわけにはいかない。かと言って彼女の機嫌を害するわけにもいかない。腐心した結果、彼が導き出した答えはバレないように上空からNoteの様子を見守ること、だ。街に入ってすぐの適当な仮面屋でそれっぽい仮面を購入し、ハロウィンの仮装パーティーにでも出るかのような実に怪しげな風体の闇魔法使いに変装したシドは杖に腰掛け、空中からNoteを探す。
そして大通りを歩く彼女を見た時、安堵を覚えた。シドが変装道具一式を買っている最中にNoteはすでに市内に入っていたようで、彼女はキョロキョロと周りを見回しながら、まず汚れた服を買い替えるために最寄りの服屋へと入っていった。一応、彼女が身につけている衣服は半日も経てば勝手に汚れや匂いが落ちる、という魔法が込められた上位のマジックアイテムなのだが、どうやらNoteは今すぐにスカートについた泥を落としたかったらしい。三十分くらい経って店から出てきたNoteは白いワンピースの上に赤茶色の上着を着た状態で、肩に紙袋をかけていた。
衣服を買ったあとどうするのか、と観察していると、今度は喫茶店へと入っていった。そのまま滞在すること数十分、ケーキやらコーヒーやらを楽しむNoteを見ながらシドは一人寂しく近場の露店で買ったポップコーンをつまみながら、彼女の動向の監視を続けた。
側から見ればただのストーキングともとれる行動、しかし神に誓ってシドはこれがストーキングなどではなく、健全な監視任務なのだと断言できた。これまでNoteが持ち込んできたトラブルは大小色々あるが、中にはあと一歩で国家を相手取った戦争に発展しかけたこともあった。大規模討伐遠征を終えた今の「七咎雑技団」にはそんな戦争などしている余裕はないし、そもそもNPC国家と戦争することはプレイヤー間の暗黙の了解でタブー視されている。シドも悪性レギオンと同類と思われたくはなかった。
いつNoteが問題を起こすか、と内心でハラハラしながら、シドが様子を窺っていると、彼女は食事を終えて退店し、大通りへと出てすぐに裏路地へと向かっていった。ポップコーンが入った袋を燃やし、シドは急いで彼女の後ろ姿を追った。しかし彼がNoteの入っていった裏路地に到着した時、彼女の姿はどこにもなかった。




