ありし日の日常
ドタドタドタと階段を駆けてくる音で振り返ったシドはしかし、直後に彼の鳩尾を直撃したふわふわとした毛玉のような凶器によって視界が白く染まり、天井を仰ぐことになった。
「ぐはっ」
「シドくん、シドくん!聞いて、聞いて!」
視界いっぱいに雑誌の見開きを見せながら、少女は耳元で大声で捲し立てた。彼女は遠慮もなく倒れているシドの上に馬乗りになると、バンバンと雑誌の見開きをシドの顔面に押し当てる。側からみれば雑誌を押し当て窒息死させようとしている猟奇的な絵面だが、周りの人間は誰一人として彼を助け起こそうとはしなかったし、なんなら気にかけているそぶりも見せなかった。
絵面としては非常にシンプルで、あくび混じりに朝食の席につこうと階下の食堂へ行こうとしたシドのみぞおちめがけて謎の毛玉がロケットヘッドバットをかましたに過ぎない。そのまま吹き飛んだシドは盛大に廊下にぶっ倒れ、今にいたる。
内心で自分を見捨てた仲間を白状者となじりながら、慣れた様子でシドは少女の腰を掴むと、自分の腹の上からどかして、上体を起こした。未だなおギャーギャーと壊れたラジオのように雑誌の見開きを見せてくる少女から、騒ぎの原因を取り上げ、視線を落とすと、それはとある情報系レギオンが毎月発行している「月刊ライズ」という情報誌が取り上げた去年の「ベストリゾートランキングベスト10in SoleiU」といういかにもな雑誌企画だった。
彼女が見せたのはそのページの中で一際輝く、紺碧の海原が白い波を立てる緑豊かなリゾート施設だ。量子世界なんていう世も末な技術が普及した昨今において、未だに旧態依然とした紙と写真、そしてワザとらしい小見出しを添付している雑誌という媒体では紹介されているリゾート施設のワンシーンしか見ることは叶わないが、なかなかうまい写真で確かにこの絵を見た桃色の毛玉が走ってきて頭突きをかましたことになんの謝罪もせずに押し付けてくるのもわかる気がする。
「ここに行きたいって?」
「そー!夏だよ!夏と言ったら海でしょ!冒険でしょ!」
うっきうきで少女は両手に握り拳をつくり、ぶんぶんと小学生のように振り回す。彼女の感情に反応して、左右の側頭部から生えている触手もぐるぐると円を描いて、行きたい行きたいと喚き散らした。だだをこねる少女を見つめながら、シドは雑誌に目を通し、紹介されているリゾート施設がどこにあるかを確認する。まずは所在地がわからなければイエスともノーとも言えない。
もっとも、確認するまでもなくページの右側、写真に覆い被さるようにでかでかと角張ったフォントでその所在地は書かれていた。だが、その場所にシドはうーんと唸った。
「キルギア、かぁー」
行ったことがないわけではないが、できれば行きたくない土地だ。何よりシドがポロリとこぼしたその一言に、聞き耳を立てていたレギオン内の幹部陣は全員盛大に嫌そうな表情を浮かべた。
キルギアとはこの「SoleiU Project」の舞台となっている惑星「ヴァース」にある大陸の一つだ。今、シド達がいるメルコール大陸から東に進み、「狂乱の海」を超えた先にある、世界の裏側だ。
それは決して比喩などではなく、文字通りキルギア大陸は惑星を縦一直線にまたがるように存在していて、残る二つの巨大大陸、メルコール大陸とアインスエフ大陸はその左右にポツンと存在しているにすぎない。例えるなら割り算の時に使う➗の記号を90度回転させたものだ。その内、右がアインスエフ大陸、左がメルコール大陸と思えばわかりやすい。
さて、そんなキルギア大陸だが、有体に言えばプレイヤーすらも滅多に近づこうとはしない魔境である。その広大無辺な大地は例え不死の存在であるプレイヤーをもってしても、攻略することはできず、探索系レギオンを自称している「七咎雑技団」や「七翼」ですら完全なマッピングはおろか、両者合わせても全体の三割に満たない狭い領域しか把握していない。過去、数度にわたって合同調査を行なってはきたが、リスクに対してリターンが少ないということで、探索は打ち切られた。
そのキルギアに、物資を無駄に消費するキルギアに行け、という少女はわちゃわちゃと子供のように手足をバタつかせる。涙目で懇願する彼女を見て、シドは周囲の人間にも聞こえるように盛大なため息を吐いた。
幸いと言うべきか、リゾートとして紹介されているだけあって、場所はキルギアの西海岸近辺で、そこまで強力なモンスターがいるわけでもない開拓済みの地域だ。船を使えば一ヶ月もかからずに到着できる。つまり、行こうと思えば行ける場所だ。
「うーん、どうすっかなぁ。俺だけなら別にいーけど」
「やだ!できるだけたくさんの人と行きたい!」
「ですよねぇ。——あー今インしてる奴らん中で俺と一緒にこのリゾート行きたい奴いるかー?夏のリゾートだってよー」
返ってきたコールはない。だよなぁ、とシドは鼻で笑う。いくらアイテムドロップを防止するアイテムを持っていると言っても、キルギア大陸はやはり魔窟だ。レベル100以上のモンスターが跳梁跋扈していて当たり前、古の時代の原始的な風景が未だに残る魔大陸、という設定のフィールドだけに難度も超がつくレベルだ。
北センチネル島のビーチでバカンスが楽しめるわけもなく、常に強力なモンスターとの戦闘を想定していては気を休めることなんてできない。そもそも、港に行くまでの道程がまず過酷だ。「七咎雑技団」のレギオンホームはメルコール大陸の西部にある。そこから東部に行くまでに一体何日かかると思っているのか。
「SoleiU Project」というゲームには楽々便利な移動手段は存在しない。転移魔法や転移スキルは存在するが、距離が短かったり、特定の条件下でしか使えないものばかりで、移動手段というともっぱら陸なら徒歩、海上なら船になる。一番早いのはモンスター、例えばワイバーンや王鷹といった上位モンスターを使って運んでもらうことだが、それも時間制限付きで、大勢を運ぶのに適しているわけではない。テイムしたモンスターならば話は別なのだろうが、そもそもモンスターを飼い慣らすのは難易度が高いため、やろうとするプレイヤーはほとんどいない。「七咎雑技団」にもテイマーはいるにはいるが、彼がテイムしているのはワイバーン一体だけで、しかもそんなに大きいわけでもない。
「許せ、Note。近場のリゾートなら連れてってやれるが、ここは無理だ」
ブー垂れるNoteに雑誌を突き返し、シドは肩をすくめた。彼女の願いを叶えてやりたいのは本心だが、あいにくとそれができる環境は揃っていない。誠心誠意謝罪しようと思った矢先、もういい、とNoteは雑誌をひったくると、踵を返して玄関へと走っていってしまった。
今回のストーリーは160年前の「大切断」直前の出来事です。多分、すごく短いストーリーになると思います。
この後に続く第五章は確実に第三章を超えるボリュームになると思うので、箸休めとして第四章を設けました。あと、単純にNoteやエスティー・ベルといった今はいない面々が書きたかった、というのもありますが。




