大戦終局・余剰談話
夕暮れ時、アスカラ=オルト帝国宰相、アレクサンダー・ド・リシリューは東の空を見つめていた。
聖都ミナ・イヴェリアは霊峰イヴェルナに帝城アラルゴールが裾野に横たわるように築かれている。荘厳にして美麗、はるかな古代、西の覇者の建築家らによって築かれた美しい白亜の巨城は後背に抱く橙色の夕日のハイビームを浴びて、その色を紅蓮へと変えた。宵闇が近く、空が紫色に染まれば同じ色に、黒く染まれば青空のごとき輝きを見出す白亜の城、その中庭は中庭と呼ぶにはいささか開けた場所で多くの場合において婚儀や戴冠の儀式が行われる場所であった。
中庭と呼ぶからには美しい花々や、剪定された木々が立ち並んでいる風景を想像するかもしれないが、そんなことはなく、庭の中身はひどく簡素なもので、靴の高さ1センチ程度に切り揃えられた芝生が一面に広がり、その中心を射抜くように白石の石畳が道のように一直線に縁側まで通っているだけで、それ以外の装飾品らしい装飾品は見受けられない。
庭そのものは城の舳先の上に建てられた五角形の空間で、数百人、千人以上の貴族が一同に介しても余りがあるほど広大な敷地を有していた。先ほどは入口から一直線に道が続いていると言ったが、正しくは各頂点に向かって一直線に歩廊が伸びているという表現が正しいのだろう。何百年と使われてきた歩廊はほどよく痛み、中には一部が割れているものもあったが、敢えて修理せずにそのままにしてあるのは帝国の繁栄の記録として残しておくというある種の自尊心からくる理由からだ。
割れた歩廊を地下強く踏み締め、リシリューは一人、中庭の縁側に近寄り、その手で腰ほどの高さもない胸壁を撫でた。かつては角張り、素晴らしい細工が施されていた胸壁も長い年月、雨風にさらされ丸く老人の背中のように成り果てた。老人を介助するヘルパーのような優しい手つきでリシリューは胸壁を撫でながら、眼下に見えるミナ・イヴェリアの街を一望した。
街は一足早く紫色に染まり、家々の窓から蝋燭の灯りが、通りを見ればゆっくりと街灯の灯りがぽつりぽつりと点き始めた。街灯の灯りの点火が遅いのは燭台交換人が街灯一つ一つの蓋を開き、前日の燃え滓になった蝋燭と新品のものを取り替えているからだ。市内には100を超える交換人がいるが、一つ一つが手作業ではどうしても街中を照らすには時間がかかってしまう。
一度、市内の設計を見直すか、と心の中のやることリストにメモをしつつ、市内の観察を続けていると、帝城にほど近い通りで集まった子供達が分かれている姿が見えた。家に帰っていく子供達の後ろ姿は無邪気さを感じさせ、重務ですり減った心に潤いをもたらしてくれた。あのような小さな皇帝の臣民が大人になった時、一体どのような国にするべきか、それを想像するだけで不思議と活力が湧いてくる気がした。
ひとしきり街の様子を観終えたところでアレクサンダーは顔を起こし、遠くの地平線に目を向けた。何もない東の空、月すら見える紫色、いやすでに暗やんだ空は城下の喧騒を平らげる夜闇を連れてきて、静謐で世界を包もうとしていた。
その静謐を心地よいものとしてアレクサンダーが受け入れようとしたその時、不意にもくもくと上がる一筋の蛇行した線が現れた。それは月が輝きを増し、城内の松明が灯り始めた頃になってようやく鮮明に見え始めた。
「赤、か」
赤色の狼煙。それが地平線のあちこちから、気がつけばアレクサンダーにも見える聖都の郊外からも立ち昇っていた。敗北の狼煙を彼が見上げた時、しかしまだアレクサンダーは諦めず自室に戻り、人払いを行うと机の引き出しから大きめの箱を取り出し、それを開いた。
箱の中に総数12個のビー玉サイズの宝玉が三角形を描くように並んでいた、はずだった。
並べられた12の宝玉、そのことごとくが無惨に打ち砕かれていた。落胆と絶望が同時にのしかかり一人、灯りのない部屋でアレクサンダーは天を仰いだ。右手をひたいに向かって持ち上げ、親指と小指が左右の目尻を優しく揉んだ。深い呼吸が静寂につつまれた室内に過大に響く。肌で吐息を感じながら、背もたれから身を起こしアレクサンダーは静かに閉じていた双眸を開き、机の上に置かれたベルに手を伸ばした。
しばらくすると一人の男がノックと共に室内に入ってきた。龍の髑髏を模した銀色の仮面をつけた怪しげな風体の男だ。彼はアレクサンダーの前まで歩いてくると、腰を降り、膝をついて首を垂れた。
「報告を聞きたい。君ならば何が起こったのか、知っているだろう」
「はい、無論でございます」
アレクサンダーの問いに答え、男は仮面を取り、自分の右目に手を差し込んだ。取り出されたのはオパールともブラック・ダイヤモンドのようにも見える虹色の輝きを放つ黒い塊で、それを机の上に置き、男はぶつぶつと呪文を唱えた。
男の呪文に呼応して、黒い塊がキリリと音を上げる。放射状に広がっていた虹色の輝きが収束し、螺旋を描く。螺旋の果てに現れたのは白い球体、色が徐々に乗っていく球体にはとある景色が映り出し始めた。霧が晴れるようにスフィアのすべてが極彩色の景色で満たされた時、とある情景が渦を巻いて映し出された。
まず映ったのは赤髪の女性と燃え盛る都市だ。彼女は哄笑しながら折れた灯台の上に立って、紅蓮の炎に包まれる街を見つめていた。
情景はものの数十秒で消え、次いで映ったのは爆発、炎上する双子灯台だった。揺れ動き、斜めに倒れかける灯台の横を赤髪の女性が指揮する艦隊が通り過ぎ、その船からいくつもの小型船が降ろされ、岸を目指した。再び、爆発し、飛沫が起こったところで、情景が変わった。
争う二色の兵士らが見えた。互いの喉笛を喰らわんとする愚かで荒々しい野蛮な人間の営みは敵だから、味方だからなんていう陳腐な区分で語れるものではない。
争いの残虐さにアレクサンダーが眉を顰めた頃、再び情景が変わり、市街区で争う同じ兵士達が映し出された。その中には目の前でなおも頭を下げたままの男が被っていた仮面と同じ仮面を被った戦士も混ざっていた。彼らはことごとく駆逐され、アレクサンダーの目には彼らを屠った強大な戦士らの面々が映し出された。
そして最後、情景は転変し映し出されたのは白い宮殿を攻める赤髪の女性らの姿だ。兵士を大勢引き連れ、嬉々として宮殿に攻め入ろうとした彼女達の前に二つの人影が見えた。一つは白い仮面を被った小柄な、いや三歳児と変わらない身長の人物、もう片方は貼り付けたような笑みを浮かべる優男だ。
繰り広げられたのは一方的な蹂躙劇、大勢の兵士達を千切っては投げ、千切っては投げを字でいく虐殺だった。仮面の人物は六本の針のような剣を抜き、旋風のように兵士達の囲いを切り飛ばす。優男はその手に持った正体不明の槍とも竪琴とも捉えれる武器を駆使して次々と兵士達の首を切り飛ばしていった。瞬く間に球体を埋め尽くしていた兵士達の姿は消え、半分程度にまで減らされた。
激昂したか、はたまた錯乱したか、赤髪の女性が強烈に歪んだ表情で何かを喚き散らし、剣を振りかぶって二人に突撃していった。しかしそれも瞬きの内にすべてが決した。何が起こったのか、アレクサンダーには見えなかった。彼の前に跪いている男もそうだろう。とにかく一瞬、そう一瞬で赤髪の女性の顎から上が削ぎ落とされ、彼女は大の字になって地面に倒れた。
その後の光景は映されていなかった。だが、彼女が死んだという事実でもってアレクサンダーは全てを察し、憔悴した様子で背もたれにもたれかかった。映像が終了し、球体が消えると男は机の上から黒い塊を回収し、再び自分の右眼孔にそれをはめこんだ。仮面を被り直し、すくりと立ち上がった男に、アレクサンダーは質問をした。
「この後、どうするつもりだ?」
「此度の戦で我々は十二高弟のほとんどのみならず、首領までも失いました。多くの神器もです。再び、力を取り戻すため、北方にて研鑽の日々を送りたく存じます」
「そう、か。わかった。だが一つだけ確約してほしい。戦に出ろ、暗殺をしろとは言わん。だからせめて諜報活動には手を貸してくれないか?」
男はしばし、沈黙し、再び口を開いた。
「かしこまりました。確約しましょう。資金の多大なる援助を受けましたゆえに」
ありがとう、とアレクサンダーは目で頷き、男に退室を命令した。彼が退室したのを見届けると、大きなため息が口からこぼれた。
赤髪の女性、リオメイラ・エル・プロヴァンスの死はアレクサンダーにとって完全に予想外だった。主だった氏令がヤシュニナを留守にしているところを見計らい、首都を強襲するという作戦は確かな勝ち目と戦果を得るに足る信頼度の高いものだった。指揮をするのがロサ公国の騎兵隊を打ち負かしたリオメイラであればさらに勝率は上がると思っていた。
しかし蓋を開けてみればどうだろうか。リオメイラは死に、彼女に預けた龍面髑髏の精鋭らはことごとく壊滅した。帝国海軍は全滅、いったいどれだけの兵士が生き残ったのか、はるか遠いミナ・イヴェリアにいるアレクサンダーには皆目見当もつかない。
帝国の斜陽に拍車をかけるようにして、時を同じくしてポリス・カリアスの失陥も広く知られることになった。帝国にとっての経済の要衝、その消失は国家の機能を失うに等しい。何より、ポリス・カリアスを守護していた十万の兵士と二人の大将軍の損失は経済のみならず、軍事という意味でも帝国の影響力に多大な打撃となった。
すでに帝国は海軍の大将軍であるデュートラスト・ディオネーを失った。欠けた大将軍の席が補充されていない状態で、続けて二人も大将軍を失うとなれば帝国の軍人力が半減したと言っても過言ではない。いや、人的損失を考慮すれば過言どころか戦力が半減したことは事実以外のなにものでもない。
戦争として見た場合、もはや帝国にこれ以上の戦争継続能力はない。帝都にいる残り三万の兵士でどうにかできる状況はとっくに超えていた。
和平の道を模索する、すでに戦争の継続は不可能だと察したアレクサンダーはその道にすべてをかけることにした。帝室の存続のためにはもうそれしか道は残されていなかった。そのためには自ら断頭台に登ることをアレクサンダーは厭わなかった。
失意の中、かすかに見えた希望に向けてアレクサンダーが動き出そうとしたその時、唐突に彼の執務室の扉を叩く音が聞こえた。なんだろう、と彼は首を傾げた。近侍や召使いの人払いは済ませたはずだ。夕刻も過ぎ、月が煌々と輝く時間に彼の執務室を訪れるような文官にも、武官にも、貴族にもアレクサンダーは心当たりがなかった。
普段は決して帯剣しない、皇帝より下賜された宝剣に手を伸ばし、意を決してアレクサンダーは「入れ」と扉の向こうの人物に入室の許可を出した。扉が開き、その人物が顔を出す。
現れた人物の姿を見て、アレクサンダーはなお訝しんだ。
現れたのは彼が財務大臣に起用した貴族、シャンデラ・ド・ブローニュだった。




