大戦佳境・終幕開演
ヤシュニナ歴154年7月24日、帝国歴532年同年同月、ヤシュニナ軍の軍営はひっそりと静まり返っていた。
連日の投石機による嫌がらせにより、白亜の城壁には相当の傷が刻まれていた。白亜の城壁、つまり最後の第三防壁である。市街区でのゲリラ戦を制したヤシュニナ軍は大通り沿いに布陣し、分解した投石機をその場で組み立て始めた。細かい作業が得意なヤシュニナという国家を象徴するがごとく、瞬く間にできあがった投石機を用いた攻勢が始まって二日が経過した。
ヤシュニナ軍は投石を繰り返すばかりで登壁をさせようとは決してしなかった。まるで時間稼ぎをしているかのように無限にある岩石を次から次へと防壁に向かって投げつけ、胸壁は崩れ、内部細工にまで衝撃が伝わり、表面を徐々に徐々に削っていた。
そしてできあがったのは坂道を思わせる鋭角的な斜面だった。広範囲にわたって、崖崩れを起こした岩肌を彷彿とさせ、それはまるで登ってくださいと言っているようだった。
ことここに至って、ヤシュニナ軍に被害は出ていない。すでに市街区を突破したヤシュニナ軍にとって、たかが第三防壁を攻めるために犠牲を出すつもりはなかった。来るべき大攻勢をのぞいて、ではあるが。
昼間の喧騒、すなわち大攻勢のための防壁攻撃が嘘のようにしんと静まり返った夜の陣地の中を、シオンは練り歩いていた。護衛はいない。彼一人だ。
市内にちょうど手頃な塔があったので、シオンは梯子を使ってそのてっぺんに登った。夏場だから妙に足場がじめっとしていたり、梯子が濡れていたが、気にせずに頂上まで登り、乾燥しているところを見つけ、そこに腰掛けた。そしてじっとりとした双眸で崩れ掛けの第三防壁を睨みつけた。
当初の予定ではすでに突破していたはずだ。しかし予想外の帝国軍の抵抗により、こうも遅れが生じてしまった。完全な予定外の出来事だ。攻勢を開始してすでに11日が経過し、死者の数も怪我人の数も尋常ではない。敵味方問わずだ。
その犠牲の対価としてシオンはようやく王手をかけることができた。帝国の喉元に刃を突きつけ、今やその力を手中に収めようとしている。二日前から動かずにいる上陸部隊のことは気にかかるが、彼らが市壁を落としたことは聞いている。恐らくは今後の作戦を考えているのだろう、と自分を納得させ、目の前の障壁に対してシオンは意識を集中させた。
第三防壁を突破すればいよいよポリス=カリアスがポリス=カリアスたる所以である倉庫街に出る。内部は入り組んでおり、迷路のようになっている、と聞かされている。事実、ノックストーン商会の会長からもらった見取り図はそのような感じだった。
しかし見取り図さえ手に入れてしまえばあとは容易い。最速最短ルートを策定し、騎兵の速度で駆け抜ければいいのだ。第三防壁を過ぎれば帝国の残る要害は庁舎城砦だけで、どれだけの兵士が立て篭もろうと籠城戦に持ち込めばいずれ勝利はできる。
思えば、と前置きしてシオンはもらった見取り図のことを思い浮かべる。ノックストーン商会は一体いつからあの見取り図を拵えていたのだろうか。あんな代物、一年や二年では用意できないほど高い精度をほこっていた。ならば一体何十年前から才氏シドは今回のような帝国侵攻を画策していたのだろうか。
想像すると身震いを起こした。寒気が背中を襲った。
二百年を生きる長命種であることはわかっている。しかし、エルフなどという規格外の超人がいる中で、年月の長さを論じても意味がない。恐るべきはその準備の周到さだ。使えるか使えないかを問わず、とにかくできる限りの情報を集めようとする執念、やっていることがまともでも、度が過ぎればそれは異常に映るのは世の常だ。
とんだ船に乗ってしまった、と悔いるのはもう遅い。下船すれば鮫の餌だ。
おおよそ三十年前、いや四十年前だったか。ヤシュニナに初めて連れてこられた時から、シドは今日の景色を思い描いていたのだろうか。この帝国の落日を。
わからない。塔から降り、もう一度防壁を見やり、シオンはやるせない気分になった。どれほどの大国だろうと舵取りを間違えば挫傷し、この通りだ。先達の偉業は無に帰し、後人は彼らの所業を非難する。ならば、国家とは歴史とはなんのためにあるのだろうか。
底知れない無常感を覚え、シオンは自分の今立っている場所に目を向ける。舗装された大通りだ。防壁側に目を向ければ帝国の反撃で壊れた投石機の残骸が見える。そして奥にはそれ以上に壊れた防壁が見えた。
それらに背を向け、シオンは自陣へと戻っていった。
——夜が明ける頃、ヤシュニナ軍の怒号が轟いた。それに触発されたかはたまた偶然か、海岸側でも連合軍の怒号が鳴り響いた。
その日、かつてない熱気がポリス・カリアスを襲った。
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