大戦佳境・第三幕閉幕
海上、揺れる海原に鎮座する巨船の甲板で忌々しげに煌々と輝く港を見つめる人影があった。それは炎髪を夜風ではためかせ、爛々と燃えたぎる紅蓮の瞳を血走らせている一人の女性だった。
容姿は申し分なく美しく、滑やかな肢体、長い手足と引き締まった腰回り、戦の女神と称してなんら遜色のない華やかな姿でありながら、その風体はいささか盗賊臭い。貴族や皇族といった華やかで美しいものに憧れる蝙蝠、そうドブネズミが美しくなろうとして人間の髪や肌を纏っているかのような歪で奇怪、穢らわしさすら感じさせる雰囲気を彼女は漂わせていた。
天上の花を愛でる人間は多くいる。しかし、一度茎から落ちて、枯れた牡丹に興味を向ける人間が一体いくらいようか。美しさという言葉では到底ごまかしきれない醜悪な内面を抱えた彼女は、鋭く尖った眼光を帝国海軍中将オース・カルバトラとはじめとする帝国将校らへ向けた。
「才氏シド、ああぁ、才氏シド!また奴か!なんて忌々しい。奴め、どうしてここにいる!」
金切り声をあげ、彼女が力一杯、落下防止用の柵を叩くと放射状のヒビが船体に走った。よほど彼の存在がトラウマなのか、普段の余裕綽々とした傲岸不遜な彼女はどこへやら、オモチャを失ったことでギャンギャンと泣き喚くヒステリー女のように彼女は地団駄を踏んだ。
思わぬ彼女の痴態を目の当たりにして、オースですら驚きを隠せなかった。況んや彼の左右に立つ帝国中将、マルセル・ルカと帝国少将リュカ・ファシュも同じ気持ちだった。特にマルセルは無意識に股間を押さえ、彼女に残ったもう一個の睾丸を潰されないように尻を縮めていた。
三人の中で彼女の機嫌を損ねたシドの存在を唯一知らないオースが代表して彼女に今後の対応を聞くと、あぁあ、と呻き、ようやく平静を取り戻したリオメイラは呼吸を落ち着け、赤く充血した瞳をぬぐい、すぐに伝える、と言って三人を船室に招いた。
「今日の戦いで、上陸に参加した部隊の隊長級を大いに損なってしまったことをまずは謝罪させてください」
船室に入ってすぐ、オースがリオメイラに深々と頭を下げた。常日頃の挑戦的・反抗的な態度とは違う潮らしい態度にリュカは目を剥いた。
「補充は?」
「現在即急に部隊の再編成を行なっています。明日の明朝までには終わらせることができるものと心得ます」
「わかった。ならいい。で、お前達。今日の戦いについて所感でいい、どうだった?」
リオメイラに促され、まず答えたのは三人の中で最も年齢が高いマルセルだった。
「私が戦ったのは敵左翼の部隊です。なんと言いますか。手堅いと感じました。守りに徹し、ひたすら固く、滅多に攻めてこない。亀か何かと取っ組み合いをしているようでした」
「亀、ね。他には?」
「兵の厚みはあまりないようでした。第一陣を突破した後に控えていたのは弓兵部隊のようでしたので、水際対策のようなものかと」
ふんふん、とリオメイラは頷き、次の人間に視線を向ける。彼女に視線を向けられたのはオースではなく、リュカだった。少しだけ緊張しながら、リュカは所感を口にする。
「やわらかい?」
「は、はひ。敵軍の右翼ですが、かなりやわらかいと感じました。まるでぬかるみに手を入れている、と言いますか。引き摺り込んでくる、と言いますか。とにかく深追いをすると一気に兵が失われました」
「兵の誘引に優れている、と言いたいのか?面妖な話だな、え?」
口籠るリュカの意見を受け、最後にリオメイラはオースに向き直った。先の二人とは違い、実直な趣のままオースは今日の戦いについて、リオメイラに報告した。
「最初はとても攻めやすかったのですが、黒髪の男、恐らくは才氏シドと思われる人物が騎馬で殴り込みをかけてきてから形勢が逆転しました。部隊長級を損なったことによる弊害が大きく出たと思われます」
「海軍の人間が随分と小隊規模の運動にまで詳しいな」
「貴族ですので。農民のまとめ役を失うようなものです。しかしああも的確に我が方の隊長級を消しにかかるとは。おかげ指揮系統に麻痺が生じ、思うように部隊を動かせませんでした」
だろうねぇ、とリオメイラは不快感を露わにする。シドがやりそうなことだ。
リオメイラの知るシドという人物はとにかく、こちらが嫌がることをする。兵の士気を下げさせたり、不利な地形を押し付けてきたりだ。今日の戦いにおいても海上という自分達に有利なフィールドによくわからない水柱の仕掛けを用意し、命からがら上陸した部隊を海に叩き落とすという悪魔的な戦術で勝利を収めようとした。もし三人中将が直接指揮を取らなければ今日の戦いで一度として橋頭堡を取れなかったことは明白だ。
だが裏を貸せばシドという彼女にとって唾棄すべき相手が戦場に姿を現したというのは朗報とも言える。チェスで例えるなら、シドは盤外での戦いを好む。例えば対戦相手の飲み物に睡眠薬を入れたり、座る椅子に細工をしたりなどだ。そのシドがちゃんとチェスに挑み、強い駒を取り始めたというのは普通のことだ。普通のことに苛立ち、驚くこともそうそうないことだが、リオメイラの知るシドが普通に戦い始めた、というのは彼女にとって好都合でしかなかった。
「ディット、いるか」
「はい、リオメイラ様」
「お前はグラウムレイと共に例の作戦を実行しろ。敵にとっては予想外のはずだ」
腹心であるディットは現れてすぐにその場から立ち去った。まるで「はい、わかりました、行ってきます」とおつかいを頼まれた子供のようなフットワークの軽さだ。
ディットを見送り、三人の将校に向き直ったリオメイラはマルセルとリュカ、二人の肩に手を回し、その耳元に唇を近づけた。見るものによっては蠱惑的、あるいは官能的に見える光景かもしれないが、当の二人は次を耳も噛みちぎられるんじゃないか、と内心でヒヤヒヤしていた。しかし二人が危惧したようなことは起こらず、リオメイラは笑みを浮かべて二人の耳元に囁いた。
「お前達二人に援軍を付けてやろう。宰相殿下から借りたものを貸すだけだ。遠慮はいらん」
「公爵夫人、それは又貸しというのでは?帝国内の法律では又貸しは禁じられておりますが」
オースの問いにリオメイラは笑みを凍り付かせてこう返した。
「ここはヤシュニナだ、帝国領ではない。帝国の法律など機能しない。そして我らは侵略者だ。ヤシュニナの法律を気にする謂れがどこにある?」
清々しいまでのクズっぷりだった。
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