大戦佳境・転卵行動
空が青みがかった頃、赤い狼煙が二つ、別々の地点、水平線上の彼方から上がったのをシドは鐘塔から確認し、すぐに鐘撞き師に鐘を鳴らすように合図を送った。寝ぼけ眼の市民を叩き起こすがごとく、鳴り響く鐘の音を頭上に抱きながら、完全武装の兵士達がバリケードを担いで市内を歩き始め、軍靴の音に市民達はおっかなびっくりしながら木窓を開けて、路上を伺った。
鐘塔から黒衣の軍隊の背中を眺めていると、それはいつしか黒衣の船団に代わった。総勢百隻、四千の兵士が岬に向かっていき、ものの30分と経たずに準備完了を知らせる青の狼煙が二本ずつ左右の岬、つまり湾の入り口に当たる二点の突き出した地形から上がる。二点の防衛を担っているのは羽飾りの軍令シュトレゼマンと鏡の軍令マルウェーの二人だ。さすがは軍令と呼ぶべき手際の良さだ。
それに引き換え、と呆れた様子でシドは湾内の布陣に手間取っている刃令達を見やる。隊列を組むだけでもあたふたとしているのは彼らの隷下にある兵士が正規兵ではないからだが、それにしたって色々ひどい。バリケード一つを設置するだけでいったい何分掛けているのやら。整列するなんて小学生でもできるだろう、と自分で提案した事実を棚に上げてシドは鐘塔から不出来さに愚痴をこぼした。
港湾区を守護する兵士は全員が警邏か、受刑兵、もしくは徴募によって集まった義勇兵だ。義勇兵の中には「ストライダー」も少数だが混ざっている。しかし大部分は警邏と受刑兵だ。数だけ見れば実に一万八千とかなりの大軍だが、実態は大群であって、軍なんて呼べる代物ではありはしない。
特に受刑兵、もとい囚人達の中には逃げ出そうと考えているものも大勢いるはずだ。彼らの多くは昨年の春先に起きた「十軍の戦い」に参加した亜人達で、もとより国に対する忠誠心など持ち合わせてはいない。ゴブリンやケンタウロス、サテュロスといった反乱時にヤシュニナ側に離反した種族などは即時解放の条件を受け入れて、喜色満面といった様子で参加を快諾してくれたが、オークやトロルといった力自慢の亜人達は反乱の首謀者とされ、悪者の烙印を押されていたこともあって、反抗的だった。その彼らが受刑兵の主力を担っているのだから、世も末だ。
戦いが始まれば恐れて逃げ出す兵士が出てくるかもしれない。そうならないために、とシドは本営周辺に配置している正規兵三千に視線を向ける。予備兵と彼らを本営に配置する際にシドは説明した。もちろん、それもあるが、本命は逃亡しようとした兵士を処刑するため、つまり督戦軍以外の何者でもなかった。映えある首都防衛軍をそんなゴキブリ退治に使うのは甚だ心が痛んだが仕方ないことだ。
この場には二種類の恐怖がなくてはいけない。一つは帝国という恐怖、迫り来る敵、突き出される槍、死ぬかもしれないという現実が兵士達に生きたい、という衝動を芽生えさせる。だが度が過ぎればそれは逃走することを考えさせ、軍の規律を損ねてしまう。そこで必要なのが二つ目の恐怖、つまり背後にいるヤシュニナ正規兵という恐怖だ。味方が敵になる事態は誰だって避けたい。背後からの一突きは兵士達を否応なしに恐怖させ、逃げようとする足を思いとどまらせる。
実を言えばそれが正しくないこと、間違っていることは十分に理解している。それで勝てればこの世に味方の裏切りで死ぬ指揮官など存在しない。緊急事態で、なおかつ人手が足らないから、国家に対する愛国心や忠誠心が低い人間がいるから、仕方なく督戦軍を作っているに過ぎない。仕方ない、仕方ない、とシドは自分に言い聞かせ、自分を正当化しようとする。
そんな彼の心情を理解してか、あるいはこのどうしようもない状況を憂えてか、不意に彼の背後から軍靴の音が聞こえてきた。なんだ、とシドは立ち上がって背後を見やる。すでにロデッカにいるすべての軍は港湾区に結集させたはずだ。にもかかわらず軍靴の音が聞こえるのはどういうことだろうか。
「シド、あれは、どういうことだ」
カルバリーが指差した方角にシドの視線が向けられる。そして彼は暫くぶりの驚嘆の感情を覚えた。
彼の目線の先には、御所から港湾区に通じる道幅の広い大通りを歩く白と青の衣装に身を包んだ集団が見えた。だがそれよりもより目を惹いたのは彼らが担いでいる白を基調とした籠だ。高さ3メートル、横幅1メートル半、奥行き1メートル半の籠には豪華な装飾がほどこされ、狼や剣といったヤシュニナを象徴する衣装が彫り込まれていた。
籠とは言ったが、正確には神輿が近い。正面に半透明の布が御簾代わりに付いている豪奢な神輿だ。神輿を守る集団は剣とも薙刀とも取れる武器、エスカッツィアを右手に握り、左手には二枚の合金を重ねたと思しき派手な装飾の盾を構えていた。
「近衛連隊?なんで、ここに。てか、じゃぁまさかあの神輿に乗ってるのって」
シドの驚きのあまり、鐘塔から飛び降りた。高さ20メートル以上ある高層建築物から飛び降りてもシドは受け身すら取らずに着地して、慌ててまさに港湾区へ向かっている近衛連隊の前に走った。
「偉大なる国柱、一体どうしてこのような場所へ!」
シドが立ち塞がったことで近衛連隊の足が止まる。やや遅れてシドに続いて水師の界令ディスコと杖の界令イーガルも慌てて彼らの前に立った。その慌てようから、この行幸が国柱の独断であることを察した。
国柱は政治的な権力は持たない。国家の象徴、民像統合のシンボル以上のものではなく、公の場で発言、行動する権利こそあれ、それには氏令の誰かの同意が必要不可欠だ。同意に必要な氏令の数は一人だが、それをした途端その氏令は他の44人の氏令を敵に回すことになり、国柱を私物化した、と糾弾される。
この場に国柱が現れたということはつまりそういうことだ。氏令の誰かが国柱に行幸の許可を出したのだ。誰だ、誰だ、とシドは脳内で犯人探しを始める。国家の大事にあって、その統合の象徴が不用意に前線に行幸など尋常な判断ではできないはずだ。そんな破滅的思考の人間がこの国の氏令にいたか、と脳内で思考を巡らせる。
「水師の界令ディスコ、杖の界令イーガル、界別の才氏シド。そう声を荒げてくれるな。そして犯人探しなどせんでもよい。あやつはただ儂に脅されただけじゃなからな」
「しかし、これは不忠の極み!恐れ多くも国柱をみすみす死地に送るなど!」
「才氏シド、前へ」
氏令には特別、階級の差があるわけではない。しかし暗黙の了解として界令が最も国柱に近く、次いで才氏、あとは横並びという風潮がある。現に今もディスコを最前列に置き、その左右にシドとイーガルが腰を屈めていた。
国柱の命令ならば、とシドはディスコと入れ替わる形で国柱の前に座った。二人が位置を入れ替え終わると途端、ミ御簾が開きその中に座っていた人物が彼らの前に降り立った。ヤシュニナの国家元首、雪花の国柱Notdは太陽の欠片を宿しているかの如き黄金の瞳を平伏しているシドらに向け、顔を上げるようにその銀嶺から降りてきた息吹を彷彿とさせる冷たい声で命令した。
顔をあげ、久しぶりに見る国柱の尊顔を前にして、シドは顔を曇らせる。声に似合った無機質な感情のない顔、m花立ちは麗しいのに機械的で、とても同じ生き物とは思えない彼女は頭の左右から生えている触覚を風で揺らしながら、シドに近づいてきた。そして彼の前まで来ると思いっきりその顔面を一糸纏わぬ生足で踏みつけた。
「ばーか。ばーか。ばーか」
おおよそ国のトップ、高貴な人間のものとは思えない陳腐な暴言を吐きながら、何度も何度も彼女はシドの顔面を蹴り付けた。ひとしきり、大体二十発から三十発くらい蹴り付けて満足したのか、ふぅと彼女は吐息を漏らし、何回も蹴られたのに涼しい顔をしているシドを忌々しげに睨んだ。
「身内ばかりだからはっきり言うが、ほんとバカじゃのぉ。恐怖に抗うために恐怖を使うなど。何を遠慮する必要がある。何を厭う必要がある。貴様はもう少し他人を使うことを覚えろ、バカたれ」
自分よりも百五十歳は年下の少女に心を見透かされ、内心では赤面を浮かべているシドを他所にNotdは神輿に戻り、前進するように指示を出す。ギョッとしてディスコとイーガルは彼女の説得を試みるが、だまれ、と一蹴され、そのまま背中を見送った。
路上の残った三人は呆然と彼女の後ろ姿を見送ることしかできなかった。三人はとぼとぼと本営に戻る傍ら、マジックアイテムで拡声された彼女の声を聞いた。
「——この国は数多の種族、多様な種族、価値観、文化によって成り立っている。故郷を追われたもの、新天地を目指したもの、救いなき世に絶望したもの、彼らの献身と努力はかつては弱肉強食の理が支配したこの大地に国を築き、今や世界に冠たる大商業国家となった。彼らは海を渡り、森を開き、人々に安寧をもたらした。貴様らの祖先が今日までのヤシュニナという国家の礎を築いたのだ。
諸君らの後ろには守るべき家族がいる。守るべき国がある。守るべき世界がある。人以外の異種族が安寧を享受できる国が、世界が、ヤシュニナ以外にあろうか。敢えて断言しよう、そんな国は、世界は、この国以外に存在しないと」
めちゃくちゃだなぁ、と彼女の演説を聞きながらシドは笑みをこぼす。恐怖で恐喝するんじゃなくて、希望で恐喝するなんて、やっていることは結局恐喝じゃないか。
「もし、諸君らが倒れれば破壊の災禍はこのロデッカだけでは済まないだろう。敵の魔の手はグリムファレゴン本島にもおよび、その地に暮らす諸君らの親類縁者、隣人友人恩人ことごとく全てを根絶やしにするだろう。帝国とはそういう国であり、今帝国の軍を率いている将軍はそういう将軍だ。
敢えて言おう、余は奴らを憎悪する、と。嫌悪では足りぬ、憎悪だ。諸君らの中にはすでに知っているものもいるかもしれないが、このロデッカを襲撃する前に奴らはアル=ヴァレアを襲撃した。聞く話では逃げ遅れたものは皆、惨殺されたという。その中には諸君らの親類縁者、友人も含まれていたやもしれぬ。奴らはすでに示したのだ。我らに逆らうものは容赦せぬ、逆らわぬものにも容赦せぬ、と。ことごとくすべての異種族は、異民族は根絶やしにすると。
奴らの進撃は止まらないだろう、この国の全ての国民を殺し尽くすまで。生まれたばかりの赤子から、死にかけの老爺にいたるまで、息をするものを全て、心臓を鼓動させるものを全て、意思を以てこの大地に生きるもの全てを借り尽くすまで、奴らは止まらない!」
それまでただ呆然として聞いていた者達の表情も次第に変わり出す。自分の家族が、親戚が、近しい者達の死に様を想像した瞬間、脳に電撃が走ったかのごとく、激しい怒りの衝動が湧き上がってきた。それは一部の例外もなく、正規兵、警邏、受刑兵、義勇兵に関わらず、重なった歯をガチガチと鳴らし、息を荒げた。
ある種の精神汚染、ただ人を木偶にするだけの精神支配とはわけが違う。思考誘導に近いNotdの言葉を聞いて、かつてない義憤に駆られた兵士達はだん、だんと盾を地面に打ち付け、己を鼓舞した。
もっとも、ただの精神汚染でもこうはいかない。ヤシュニナの象徴はNotdであり、彼女が絶対の存在であると刷り込まれているからこそ、海に波紋を描くような熱を発することができるのだ。つまり、精神汚染などと言ったが、二万人を超える兵士達の心に紅蓮の炎を滾らせたのは間違いなく、Notdの権威だった。
「諸君らが戦うならば、余も戦おう。余もまた傷つこう。その勇姿をこの眼に刻み、その勇名をこの耳で聞き、その武勇をこの口で紡ごう。——我らの道、我らの世界に邪鬼はいらない。我らは自由の民、自由に生き、理不尽に抗う!全軍、我らの自由のため、国のため、世界のために、戦うぞ!」
途端、大地がうねるような大歓声が轟いた。それははるか遠く、水平線上に見えた帝国艦隊にも届いたという。かくしてヤシュニナ歴154年7月18日、帝国歴532年同月同日、ヤシュニナの首都ロデッカにて、今次大戦の中で最も予想外の戦いが始まった。
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