大戦佳境・第三幕開演
ヤシュニナ歴154年7月21日、シドはいつものように仕事をしていた。主だった仕事を片付け終わり、雑務をしていた時、前触れもノックもなく、執務室のドアが開き、書類から彼は顔を上げた。
「先生、来ましたよ!」
明朗快活、天真爛漫、天衣無縫と言いたげなほど朗らかで毒っけのない少女はズカズカと遠慮せずに執務室に入ってくると、来客用のソファに腰掛け、はぁーと一息をついた。ここにくるまでに走ってきたのか、息が上がっていて、健康的な柔肌を汗が伝っていた。
はちみつ色の綺麗な髪を後ろで結び、瞳は淡いサファイア、整った顔立ちとシミひとつない肌は貴女と呼ぶにふさわしい高貴さを現し、その瞳からは慈愛さえ感じられた。衣服はヤシュニナで織られたもので、よくセナやノタといった女性プレイヤーが着ているカジュアルな夏服だった。おおよそ堅苦しく、無味無臭の埃部屋のようなシドの執務室には似合わない瑞々しさがあり、彼女が動くだけで花のエフェクトが咲き誇るようにさえ思えた。
息を整えた彼女はすっきりとした屈託のない笑顔でシドに笑いかける。こちらの事情など考えていない、孫娘が老祖父に向ける類の童らしい笑顔にシドは盛大なため息をついた。
彼女、グリームヴィルゲット・ビョールはヤシュニナから見てさらに北、海を隔てた先にあるロサ公国の皇太女だ。皇太女、つまり王位継承権第一位の王女様ということだ。身分としては格別で、こんな島国に護衛もなくいていい身分ではない。また、他国の官吏を指して先生などと敬意を込めて尊称していい身分でもない。
グリームヴィルゲットがヤシュニナに滞在してから、すでに6日が経過した。慣れない船旅からの疲労か、最初の2日は少し体調がすぐれないということで、仮邸宅代わりのシドの屋敷で寝込んでいたが、いざ旅の疲れが抜けると、雪解け後の草木もびっくりな速度で栄養を吸収し、ツルツルの卵肌と豊かな肌色、青天井の活力を得て毎日のように仕事中のシドを直撃していた。
別に彼女は仕事の邪魔をしているわけではない。シドがペンを走らせている時に話しかけてくることはないし、部屋にいるほとんどの時間を紅茶だったり、コーヒーだったりを飲む時間に費やしている。あとはシドのボトルシップコレクションを興味深そうに眺めていることくらいだろうか。余計な音も、声も発さずただいるだけ、なるほど授業参観っていうのはこういうものか、とシドは彼女がいることを忌々しく思っていた。
追い出そうと思えばいつでもできる。しかし、正式な書簡でロサ公国公王ヘルムゴートから彼女を託された手前、粗末に扱うわけにもいかない。かと言って最大限に彼女の人権を尊重して自由に歩かせればどこでどんなトラブルを起こすか、わかったものではないというジレンマのせいで結局自分の手元で監視している方が、安全だと判断したのだ。
——はぁ。
疲れなど感じない体だが、ずっと同じ持ち方でペンを握っていると指が固まって、妙な違和感を覚える。ペン置きにペンを入れ、右手の人差し指と中指をぐりぐりと動かしていると、自然とその違和感を消えていった。違和感が消えていくとき、ポキポキと指が鳴った。よほど同じ形を維持していたらしい。
「そろそろ食事にしましょう。もうすぐ昼時です」
席から立ち上がり、ボトルシップを熱心に見つめているグリームヴィルゲットにシドは話しかける。振り返った彼女は微笑を浮かべたまま、はーい、と生返事を返した。かがめていた腰を浮かして、シドが開けた扉から彼女はささっと出ていった。扉を閉める際、隙間から仕事が山ほど残った仕事机を一瞥し、シドも彼女に続いた。
道中、どこで食べましょうか、とグリームヴィルゲットはシドに聞いてきた。ロデッカの中央街と言えば名うての料理人がこぞって自分の店を開きたがる激戦区だ。海の幸、山の幸、豊かな生鮮食品を手に入れられるロデッカならではの美食が楽しめるという点で彼女が食に対して興味を惹かれる理由はシドにも理解できた。
そうだな、とシドはキョロキョロと首を回す。高級料理店に入って、これがヤシュニナ料理だ、と紹介することは簡単だ。豪勢な食卓、料理がテーブルに収まりきらない贅沢な食事会をするだけの金銭をシドは持っている。
けれどたかが昼食にそんな贅沢さや華美さを求めるべきだろうか?
思案して、シドはじゃぁあそこにしようと中央街のやや奥まった場所にある居酒屋に足を踏み入れた。そこはノクターンな雰囲気を漂わせる薄暗い店で、テーブル席が数個とカウンター席があるカクテルバーのような様相を見せていた。
「よっす。儲かってる?」
店に入るなり、シドはカウンターでグラスを拭いているサングラスを掛けた男に話しかけた。普段の彼からは想像できない軽いノリにグリームヴィルゲットは目を丸くして驚いた。
サングラスを掛けた男はグラスを机に置くと、じろりとその奥にある瞳を覗かせた。変な瞳だ。瞳の奥に波紋が見えた。
「儲かっているように見えるか?テナント代を払うだけで精一杯だよ」
「あらそう?じゃぁ二人でよろしく」
「あいよ」
ズケズケとシドはテーブル席に座る。彼がソファを示したので、グリームヴィルゲットは彼に従ってソファ席に座った。最初のシドと店主らしき男との軽々なやり取りのせいで注意を払っていなかったが、腰を据えて落ち着いて店内に意識を向けると、どこからか音楽が鳴っていることがわかった。
バイオリンとピアノの音だ。この狭い店内のどこに演奏者がいるのだろう、とグリームヴィルゲットは気になってキョロキョロと首を振るが、いっこうに奏者を見つけることはできなかった。代わりに彼女が見つけたのは酒瓶の中を遊泳する水色の魚、微笑している変な女の人の絵画、ラッパのような何かといったヘンテコなあれやこれやだ。
「不思議な店ですね」
「そうですね。まぁ変なものを出す店ではないので、安心してください」
シドがそう言った矢先、彼の後ろから先の店主が姿を現した。手にしているトレーの上には小皿が二つと冷えた水が入ったコップが置かれていた。店主は「前菜です」と言ってそれらを二人の前に置いた。
前菜と呼ばれたのはちょうど二センチ四方の小皿に乗せられた小さなエビにゼリー状の何かを添えたものだ。机にあらかじめ置かれていた食器籠からフォークを取り出すと、恐る恐るグリームヴィルゲットはエビを口の中に放り込んだ。
「あ、美味しいですね」
「その煮凝りも結構いけますよ?あ、そういえば確認し忘れましたけど、甲殻類は大丈夫ですよね?」
「好き嫌いの話ですか?ええ、問題ありませんよ。苦手ではありません」
それはよかった、とシドは胸を撫で下ろす。前菜と一緒に出された冷水で喉を湿らせつつ、メニュー表に手を伸ばす。メニューを開いたシドはグリームヴィルゲットに何か食べたいものはあるかを聞いた。彼女が特には、と言うとじゃぁ勝手に選びますね、と言って店主に注文を伝えた。
料理の前に運ばれてきたワイングラスで喉を湿らせ、残った煮凝りをシドは口腔に放り込んだ。空になった小皿を下げる店主の背中を見送りながらふとグリームヴィルゲットは自分が今飲んでいる半透明の炭酸水を飲みながら、その違和感に首を傾げた。
「これってなんですか?ワインではないですよね」
「ぁあー、それですか。炭酸水ですよ。ヤシュニナ以外では飲めないでしょうね」
「禁輸品なんですか?」
「まさか。ワインのまがいものってことで誰も飲みたがらないんですよ」
ビールの残り滓だからな、とシドは心の中で舌を出す。その後も運ばれてきた料理に目を輝かせ、まるでハムスターのように貪る姿をグリームヴィルゲットが見せる度に心の中でシドはくすりと笑っていた。それくらいに彼女の反応は新鮮だったし、楽しい食事だった。
会計を済ませ、店を出た時グリームヴィルゲットは今までに見せたことがない満足げな表情でお腹のあたりをさすっていた。高貴な身分の女性にはあるまじき所作かもしれないが、それくらいに美味しかったということだ。よし、とガッツポーズを隠さないシドは晴々とした気持ちで自分の仕事場に戻った。
——その直後のこと、つまりシドが庁舎の門をくぐったときだった。息を切らしたカルバリーが彼に詰め寄ってきた。
「どうしたんだよ、カルバリー」
「シド、まずいことになった、なりました」
シドの知るカルバリーがこうも慌てることは珍しい。何があった、と聞き返すと、息を整えて——そもそも機械生命体のカルバリーがどうして息を切らすのだろうか——姿勢を正した。
「アル=ヴァレアが陥落した」
「は?」
次いで、え、とシドは声をもらす。脳内でヤシュニナの地図をぐるぐると回し、彼はカルバリーの言う「アル=ヴァレア」が自分の知る「アル=ヴァレア」であることを確認する。ロデッカに次いで巨大な港を有するヤシュニナ第二の都市、アル=ヴァレア。「不鎮の火」に守られているおかげで海棲モンスターは近寄らないし、海賊風情が陥落できるほど防衛力が低いわけもない。
「どこだ。どこが襲撃した?」
「帝国だ」
途端に点と点が線で結ばれ、一つの絵がシドの脳裏に浮かび上がった。
「まずいな。カルバリー、すぐに臨時の司令会議を開くぞ。今、首都圏内にいる氏令だけでいいからとりあえず、全員集めろ!」
「何が起こるって言うんだ?」
「第二次ロデッカ防衛戦さ。カシウス事件の二の舞になるかもしれないから、覚悟しとけよ!」
かくして物語はあらぬ方向へ動き出す。加害者と被害者の想像通りの展開にうねり出したのだ。
*
カシウス事変について
ヤシュニナ歴30年1月9日に起きたヤシュニナの首都ロデッカを悪性レギオン連合が襲撃した事件。多数のプレイヤー、煬人が犠牲になった。この事件によって当時の氏令の四割、各省庁の長官級七割、官民含めて首都人口の三割を失われた。
事変の名前は首謀者であるカシウスに由来する。




