大戦佳境・海勢踏破
とっさの出来事だった。その場にいた誰もが瞠目し、反応が遅れた。伝令の兵士は、否暗殺者は恍惚の笑みを浮かべ、手に持ったナイフをバヌヌイバ目掛けて滑らせていく。
いち早く動いたキキがナイフに手を伸ばし、握り潰さなければ間違いなくバヌヌイバの腹からは朱色の噴水が湧き上がっていた。止められたことよりもナイフが握り潰されたことに驚く暗殺者の首を容赦無く、蹴り飛ばしキキは周囲へ警戒の目を向ける。
彼の目、もといエルフの目は千里先も見通すと呼ばれるほど高性能な望遠レンズだ。通常のエルフであれば約数理(一里は約4キロ)、レベル100を超えたエルフであればその距離は百里まで見通すことができる。ただ見通すわけではない。くっきり、はっきりと間近で見ているかのようにはるか彼方の風景が映し出されるのだ。ある程度の遮蔽物は彼らの前では意味がない。事実、キキは市壁の内側の景色が透視するかのように見えていた。
その目を掻い潜ったという事実にキキは驚愕した。痩せたバヌヌイバを初めて見た時でさえもう少し落ち着いていた。それほどの驚愕を与えた奇襲、エルフの目という監視網をすり抜け、現れた暗殺者を彼は認識する。
「——くる」
天幕を引き裂き、数十の兵士が現れた。いずれもヤシュニナやガラムタ、ムンゾの鎧をまとい、例外なく彼らが着ている鎧には血が付いていた。何が起きたのか、察するに余りある。即座に弓を取り出し、キキは得意の連射で彼らを射抜こうと試みる。
しかし彼が矢をつがえるよりも早く、彼らの中から現れた剣士がキキの首元を掠める剣撃を放っていた。エルフという動体視力に秀で、なおかつレベル140越えという破格のステータスをほこるキキをして、速いと感じる剣撃だった。即座に認識を改め、キキは弓を掴む手に力を入れる。剣を避けた端から矢をつがえ、仰け反った姿勢のまま、弓を引く。完璧なカウンターだ。命中を確信したのも束の間、彼の目の前には新たな脅威が迫っていた。
「っ!」
眉間に当たったと思っていた矢が耳を貫いただけという事実にも驚いたが、恐るべきは男の反応速度だ。余程過酷な戦場でなければ得られない反射と思考の融合とも呼ぶべき技量だ。
短い攻防ではあったが、相手の実力を図るには十分だった。目の前の男は強い、とキキは認識し、弓を手から離した。そのことも相手を驚愕させたが、より驚かせたのは彼が髪留めに使っている簪を引き抜いた時だった。
簪の鋭部が二つに割れ、その体積からは考えられない大きさのグリップが内側から沸いて出る。キキがグリップを握ると割れた簪の外郭線から鈍色の光が漏れ始め、それは瞬く間に左右に向かって伸びる湾曲した光の刃を形勢した。それぞれの先端から細い光線が伸びた時、初めてキキと対峙していた男は彼の持っているものが弓であることを認識した。
「つっ!」
「穿て、『廃弓』」
矢がつがえられた瞬間、超高速の一撃が放たれた。ただの技量、スキルによる上乗せだけではない。人智を超えた祖速度で放たれた矢は容易に男の剣を吹き飛ばし、彼の後ろに立つ暗殺者達もまとめて消し飛ばした。
戦慄を覚え、汗を滲ませる男に対してキキは歪んだ笑みを浮かべた。今の一撃が牽制でしかないこと、続く第二射は確実に自分を射抜くことを確信し、男は激昂してキキに襲いかかる。その男の顔面を蹴り飛ばし、キキは周囲に視線を向けた。
本陣を囲んでいる暗殺者の数はざっと三百余り、それだけの兵士が入り込んだことも驚きだったが、彼ら個々人の練度も相当に高い。本陣周りの兵士達が次々と討たれているのは素直に脱帽ものだ。
「王バヌヌイバ、軍令フーマン。この場から撤退を。さすがに守りきれない」
ケンスレイでもいれば話は別だった。しかしケンスレイはあいにくと前線の指揮に出向いてしまっていた。近接戦闘力に秀でた彼が不在の中、遠距離主体の自分では守りきれないと踏んだキキは真っ先に後ろの二人へ退避を促した。
「よそ見とはな!」
「うっさい、邪魔!」
再び殴りかかってきた男を蹴り、のけぞったところを上から押さえつけて足蹴にする。姿勢を整えるのにちょうどいい、とそのまま掃射を続けるが、やはり分がわるい。すぐに反撃され、距離を稼ごうにも守るべき相手が背中の後ろにいる状態ではそれもできない。
「早く、離脱を!」
「いや、将軍キキ、僕はいい。この場で本陣が動けば指揮系統が混乱してしまう!」
「そんなこと言っている場合ですか、早く離脱してください。替えがきく人材じゃないんだ、あんたは!」
「それなら君はなおのこと、王を連れて離脱しろ!王こそ、もっとも替えがきかない存在だ。少なくともこの場ではな!」
二人の口喧嘩を敵がかまってくれるわけもない。口論の最中も執拗に押し寄せてくる彼らにキキは苛立ちを募らせた。
気がつけば参謀達もほぼほぼ討たれ、本営を守る兵士も数えるばかりとなっていた。よく見れば陣の背後にも敵兵が回っている。なるほど元より逃げられる状況ではなかったわけだ。
「将軍キキ、この状況でも君なら王を連れて逃げられるだろう?」
「できますが、それなら軍令も」
「いや、僕はいい。僕ならまだ討ち取られても損害は少ない」
「ちょっと待て、軍令フーマン!貴殿も逃げるのだ。でなければヤシュニナ軍は動かんだろう」
割って入ってくるバヌヌイバに対してフーマンは首を横に振る。思わぬ否定にバヌヌイバはもちろん、キキも目をひそめた。
「僕でなくてもキキやケンスレイ、今前線で彼を支えている将校達がまだいる。でも、王が死ねばガラムタ軍は動かない。王子レイザではまだ力不足だ!」
「わかりました、王を連れて離脱します」
納得してキキは弓をしまうと、踵を返してバヌヌイバの腰に手を回す。痩せたとはいえ、太っていた頃の名残はまだあるのか、ふにゃりとした皮の感触が彼の背中にのしかかった。待て、と暴れるバヌヌイバの言葉を意にも返さず、キキは天高く飛翔する。飛び道具がないことは確認済みだ。空にさえ逃げてしまえば敵は追って来れない。
キキが消えたのを確認して、フーマンは腰の剣を抜いた。剣など一兵卒だった時に抜いた時以来で、とても扱えるとは思わない。でも、やはり軍の長を名乗るなら、多少の抵抗はしてから死んだほうがいいだろう、とあっけらかんとして彼は剣を抜いた。
「は、部下に見捨てられたな」
嘲笑うのはキキと何度となく刃を交えた益荒男だ。髭面だが気品があり、実践的な曲刀を抜いて、フーマンを守っていた最後の兵士の息の根を、今止めた。
「最後まで僕の兵士は僕の命令を守った。僕は見捨てられたのかな?」
「口の減らないじいさんだ。悪いが、あんたにゃ死んでもらう。奇襲をかけて持ち帰った首ゼロなんて格好悪いからな」
フーマンの剣をあっさりと取り上げ、男は笑う。しかし目はこれっぽっちも笑っていなかった。
「——キュースター、それは私がやる」
兵の中からの声にキュースターと呼ばれた男が振り返る。兵の中を掻き分け、現れたのは顔の上半分に火傷を負った女性だった。その女性の登場にフーマンはおののくでも驚くでもなく、ただ満面の笑みを浮かべた。
「いやぁ、まさかまさか。六大将軍の一人が僕の首を取るためにわざわざ出向いてくれるなんて、光栄だなぁ」
「貴様、狂っているのか?抵抗しようとは思わないのか?」
「——え、なんで?だって光栄なことじゃないか。君らはリスクを負ってここまで来た。その見返りが君らの城の陥落だなんて」
なに、と言いつつ、キュースターと彼の主人であるノルムは振り返って城砦を見る。相変わらず市壁での戦闘は続けられているが、城砦には傷一つついていない。つまらないはったりだ、と苛立ちながらノルムはフーマンのたぬき腹を蹴った。
「いたた。いや、ひどいな。でも、見えるんだよ、僕には燃えて崩れ去る君らの城が、君らの愛してやまない帝国の姿」
「黙れ、化け物が。貴様ら畜生が人語を介すな。身の毛がよだつ」
火傷の痕を押さえながら、ノルムはうめいた。彼女の剣はフーマンの頭蓋を砕き、その息の根を完全に止めた。彼らがフーマンを始末した頃、その背後でついに市街区へ通じる門が破壊された。わずか30分に満たない出来事だった。
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キャラクター紹介
フーマン)種族、狸人。レベル33。ヤシュニナ氏令国、兵の軍令。趣味、チェス、料理、棋譜集め他多数。好きなもの、詩篇。嫌いなもの、特になし。
ヤシュニナにおかえる古参氏令の一人。年齢65歳。シドやリドルとの付き合いは長く、酒を酌み交わすほど深い付き合い。軍令となる前は蜘蛛の軍令ヴィーカの元で将軍をしていた。東方航路に巣食っていた海賊退治の功績を評価され、軍令に抜擢された。
彼の副官であるキキとケンスレイは元々はヴィーカの元で将軍として働いていたが、フーマンに誘われる形で彼の元に降った。理由としてはフーマンの下にいた方が楽しく戦えると思ったからである。
戦闘能力よりも指揮能力に秀でた軍令であり、平地での戦いを得意としている。ヤシュニナにおいて彼を上回る指揮能力を持つ指揮官は羽飾りの軍令シュトレゼマンくらいである。
チェスの腕前は氏令随一で、ヤシュニナ国内で毎年行われているチェス大会では常に決勝リーグに進む実力者。休みの日は孫を家に招待して、料理をふるまったり、チェスを教えていたりする。




