大戦佳境・海嘯到来
陰鬱だな、と甲板上の老王は炎上する港を眺めながら、惰性と嫌悪から盛大なため息を吐いた。
小波が船体にちゃぷちゃぷと弾け、ザッと海が裂ける。飛沫が海面を走り、それを魚と勘違いしたカモメが急降下し、水面にとぷんと足をかけると、肩透かしを喰らって怒って翼を激しくバサバサと鳴らした。しばらく水面ギリギリを羽ばたいたカモメがふと気がつくと、巨大な船が目の前に迫り、カモメはカートゥーンのような表情で驚いて、慌てて上空に向かって飛翔した。立つ鳥跡を濁さずとはよく言ったもので、カモメの翼から落ちた白い白い翼は水面に舞い落ちると、波にさらわれて一瞬で飛沫と区別なくどこかへと消えてしまった。
自分もあのように消えてしまいたかった老王は太陽に向かって羽ばたいていくM字の影を見つめながら、再び盛大なため息を吐いた。太陽の輝きに目が眩み、老王が視線を逸らすと、それでもまだ彼の目の前には燃え盛る紅蓮の太陽があった。いや、あれは太陽の紛い物だ。この上なく残酷な太陽の紛い物だ。
「——王バヌヌイバ。第一射、命中しました。誘導なしでの命中は快挙ですな」
彼の隣に立つ王室秘書官クルタの言葉に宝石の王バヌヌイバは振り返り、ああ、と先ほどまでの郷愁と後悔を忘れて威厳を感じさせる低い声を返した。胡乱げな瞳は凛々しく、たるんだ口角は引き締まり、精悍な顔つきの美丈夫はすっきりとした表情を浮かべて主だった臣下達が集まる会議室へと入っていった。
バヌヌイバが入室すると、座っていた家臣達が起立した。縦長の机にずらりと並んで座っていた彼らが立ち上がるだけで壮観な絵面だった。彼らの後ろをすり抜けて、上座の席についたバヌヌイバに促され、上座から順に家臣達は座っていく。まるで集団行動のような光景だった。
「さて、諸君。我々は第一射に成功した。今も続く第二射、第三射と攻撃は続いているだろう。我々は波止場の安全を確保した後、上陸部隊による強襲作戦を敢行する、だったか?なぁ、レイザよ」
「はい、王陛下。事前にそのようにヤシュニナのものとは打ち合わせをしました。それゆえに彼らは我らの船に重バリスタを供与したのですから」
道案内の王子レイザが頷き、つらつらと事情を口にする。彼らの何人かの視線が会議室の一角へ伸びる。視線の先にいた兵の軍令フーマンは視線に気づくと、にっこりと微笑み返した。
その中からおもむろに発言を求めて手を挙げた将軍がいた。この軍、ガラムタ・ヤシュニナ・ムンゾ連合艦隊のムンゾ側の代表であるジゼル将軍だ。寝ぼけ眼の将軍はゆっくりと立ち上がり、バヌヌイバにねっとりとした視線を送った。
「王バヌヌイバに一つ確かめたいことがあります。お聞きしてよろしいでしょうか?」
「構わん。もうすぐ決戦だ。疑問があるならば、解決するに越したことはあるまい」
ありがとうございます、と一礼してジゼルは続けた。
「此度の戦いに際し、あー、そのー。お体を、その、えー」
生来の吃音なのか、それとも何かを遠慮しているのか、勢いよく立ち上がった割にはジゼルの言葉は歯切れが悪かった。有体に言えば何かを言いづらいことを言おうとしているようだった。
「あーつまりですね?お体、どうされました?」
どこからか失笑が漏れた。それが誰のものだったか、犯人探しをする人間などいなかった。ただ机の下で何人かがガッツポーズをしていた、ということは記しておく。
あるいは失笑したのは話の種になったバヌヌイバ本人だったかもしれない。申し訳なさそうに席に座るジゼルは言い切った、という達成感から息を吐いていたが、彼以外の人間の間には非常に微妙な空気が流れた。
「——ジゼル将軍。貴殿の問いに答えよう。我が父、バヌヌイバは先のアンダウルウェルの海戦によるストレスで食事も喉を通らず、お痩せになられたのだ」
黙ったままのバヌヌイバに代わって答えたのはレイザだった。よほどおかしなことだったのか、少し苦笑気味だった。
「おまけに此度の戦いで再び総司令官となってしまった。仕方のないこととはいえ、王の心中を察するに余りある、という話だな」
「な、なるほど。王の勇気に敬意を表させていただきます」
そうしてやってくれ、とレイザは王を軽んじるような言動を重ねるが、当のバヌヌイバは元より、彼の臣下からも諌めるような声は上がらなかった。唯一、その場で変わらずに彫像のように立っていたクルタだけは咎めるような目でレイザを睨んだ。
「失礼を。さて、他に何かありますか?」
「では私から」
手を挙げたのはフーマンだ。この場で最も発言力がある人間の挙手に周囲の注目が集まった。
「先鋒を務めるヤシュニナ軍の指揮官として一つ、ご提案をさせていただいてもよろしいですか?」
「なんでしょうか?あまり難しい話ではないとありがたいのですが」
「此度のポリス・カリアスの戦いに勝利した暁には一体いずこの旗を掲げるか、お決まりではないのですよね?ならばヤシュニナの旗でよろしいか?」
その何気ない提案に会議室の何人かの顔にしわが寄った。激昂するほどのことではないが、あまりしていて楽しくない話だ。敵国の拠点に自国の旗を掲げるというのはある種のマウンティングだ。本来は正しい行為だ。だが、このような多国籍軍の場合は話が変わってくる。三国の中で一国だけが突出して活躍したように見えるというのは他の二国からすれば決して面白いことではない。
会議室を微妙な空気が支配する。イエスともノーとも言えない空気、それは余計な争いを起こしたくない、という理性と、ざけんな、という本能との戦いだった。
「軍令フーマン。それは戦が終わった後に話し合おうではないか。今すべき話ではない」
緊張の糸を切ったのはこの場における最高位の人物であるバヌヌイバだった。議論の無意味さを痛いほど理解しているからか、それともかつての自分を思い出したからか、かつてのバヌヌイバであればありえない紳士的な対応にその場の人間の誰もが目を丸くした。
「失礼しました。王バヌヌイバのおっしゃる通りです。いえ、はい。つまらぬ話をしてしまいました。ご容赦を」
「構わん。貴殿は発破をかけたのだろう?こういった話題を出せばこの場に集まる者共の競争心を煽れるからな」
得心顔で着席するフーマンを見て、室内の将校達は安堵と納得が入り混じったような晴れやかな表情を浮かべた。彼らが競争心を駆り立てられた将校達が出ていく後ろ姿を見送りながら、バヌヌイバは前屈みになっていた姿勢を大きく後ろに後退させた。
「——始まった。ああ、始まってしまった」
「父上。何を気負うことがありましょう?総大将である父上がそのような気弱では臣下達にしめしが」
「王子殿下のおっしゃる通りです。陛下、そのような暗澹たる思いの吐露はおやめください」
レイザとクルタ、二人の近しい臣下に諭され、バヌヌイバはああ、と短く返した。
「——始めるぞ。帝国の蔵を燃やしてしまえ」
ヤシュニナ歴154年7月20日、帝国歴532年同月同日、ヤシュニナ・ガラムタ・ムンゾの連合艦隊がポリス・カリアスを強襲した。船数百隻以上、兵員数五万以上の大軍がさながら津波のように未だに市民が残るポリス・カリアスを襲ったのだ。
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