大戦佳境・反動
翌日の早朝、空が白み始めた仏暁の間際、紫に染まった街の中をヤシュニナ軍は屋根伝いに侵攻していた。屋根の傾斜をさながら塹壕のように利用し、隠れながら彼らは移動する。静かな夜闇を切り裂いて、百花舞い散る朝霧を血飛沫の如く吹き出させて、彼らは地獄の中から現れた。
彼らの姿は城下を這いずり回るネズミのように、壁上に鎮座する帝国兵達に見えたことだろう。それほどに素早く、慣れた動きでヤシュニナ軍は屋根の上を走っていた。峻険な地形、しっかりとしていない足場での活動はヤシュニナのあらゆる種族にとって日常茶飯事であり、彼らの脅威的な身体能力も相まって、次々に陣形を整えていった。
屋根には一万を越える歩兵が、大通りには数千の竜馬が並び、それぞれが今か今かと号令がかかるのを待っていた。気が立っているという表現がこれほど似合うものもなく、息を荒げる彼らは闘気を露わにして、獰猛な目つきで壁上を睨みつけた。
「——軍令シオン、以前として壁上に動きはありません」
不気味なまでの静寂を保っている壁上を見つめるシオンに、トーカストが報告を上げた。カシャカシャと壁上で兵士達が動いている音は聞こえるが、それ以上のことはしていない。投石機があるならすでに射程距離には入っているし、長弓も届く距離にまでヤシュニナ軍は接近していた。
直線距離にして数十メートル程度、弓を射てば高所の利を取っている帝国側が明らかに有利なはずなのに、一向に動こうとしない状況を不気味と呼ばずになんと呼ぶ?
すでに敵方の射程圏内まで軍を進めている状況、シオンには退くという選択肢はなく、また相手もこのまま様子見に徹すれば容赦無く弓矢を射かけてくることは容易に想像できる。この時点でシオンには攻撃する、という選択以外に道はなかった。例えそれが相手の策略であることはわかっていても、それを食い破る覚悟でシオンは突撃の号令をかけるため、左手を上げた。
「——トーカスト。例のものは準備できているか?」
「はい。すでに人選も完了しております」
ならいい、とシオンは突撃の号令をかけた。彼の号令と共にまず動いたのは騎兵隊だ。例によって例のごとくカタパルトを用いて天高く飛翔する。翼でも生えていれば天馬にでも見えたかもしれない。牙と爪を生やした邪悪な天馬だが。
飛び上がった竜馬らめがけて無数の矢が放射される。千を遥かに越える鏃が殺到し、空中にいる間に避けることもできずに多数の竜馬が落とされた。どれほど竜馬の鱗が硬かろうと、数を射たれればその鱗も砕かれる。表皮に矢が突き刺さり竜馬のみならず、兵士も落ちていく。高所から転落、それはどれほど硬い体を有していようと死ぬことは確定的だ。
次々と竜馬と騎手は落ちていくが、それでも数が圧倒的だ。竜馬はその鋭い爪を城壁に食い込ませ、矢の雨など構うことなく突き進んだ。一歩遅れて屋根の上に配備された歩兵隊が援護射撃を開始した。援護射撃をうけて騎兵隊はぐんぐんと登っていく。
圧巻の光景だ。白亜の城壁を黒く染め、頂上まで手を伸ばそうとしているその姿は蜜に群がる蟻のようにも見えた。そして決まってその蟻はペットボトルからこぼれた一滴の雫で洗い流されるのだ。
バシュンという音が頭上で響く。その音が上がる前から壁上を伺っていたシオンは全貌を間近にした。
竜馬が壁上の胸壁まであと僅かといったところで「それ」が起動した。まるでネズミ取りのように胸壁の裏側から勢いよく現れた鉄製の鍬のような部位が瞬く間に城壁の、今まさに壁上に移ろうとしている兵士達の真後ろから迫り、彼らが逃げ出す余裕も余地もなく、城壁に叩きつけたのだ。
さながらハエ叩き、しかしハエ叩きよりも残酷である点は鋭く尖った鍬が叩きつけられたせいで、ぺしゃんこになるのではなく、胴体が泣き別れになることだ。運良く飛び退いて回避したとて、空へ向かって放たれた無数の矢に射抜かれる。あるいは着地する場所がなく、そのまま落下死するかのいずれかだ。
一瞬にして数十の竜馬とその騎手が討たれ、一瞬の意識の間がヤシュニナ軍に生まれた。そのわずかな隙を帝国軍が逃すわけもない。壁上から璧下へ、そして市街へと矢を放った。雨のように降り注ぐそれらを躱しながら攻撃するなどできるわけもない。誰もが撤退を指示するかという状況で、しかしシオンは前進を命令した。
「よろしいのですか?かなりの数が減りますが」
「ちょうどいい。『決死隊』を出せ。あの『ハエ叩き』の力をもっと見ておきたい」
「かしこまりました。おい、『決死隊』を出せ!」
トーカストからの命令を受け、傍に控えていた兵士が走り、ものの数分で戻ってきた彼の背後には二百ばかりの騎兵が並んでいた。彼らは一様に覆面を被り、分厚い鎧を纏っていた。彼らはものも言わずにトーカストに指示されるがまま大通りに横隊を築いた。
「決死隊が出るぞ!道を開けろ!」
トーカストの号令の元、彼らの乗る竜馬の尻が叩かれ、鞭を打たれた竜馬は全速力で正面のカタパルト目掛けて疾走した。そしてカタパルトから飛び跳ね、竜馬は鋭い爪を突き立て、弓矢を物ともせずに城壁に着地した。垂直になった途端、それまで安定を保っていた騎手の体がぐらりと揺れ、その上半身が大きく後ろへ、つまり璧下へと垂れた。大腿部を縛っているのか、どれほど彼らがのけ反っても落ちる気配がない。
無数の矢をその身に受け、しかし彼らはもとい彼らが駆る竜馬は壁面を疾駆し、やがてその前足を胸壁近くまでたどりついた。——彼らが胸壁に手をかけようとしたまさにその瞬間、再びバスンという音が響いた。
再び起動した「ハエ叩き」が容赦無く彼らの胴体を噛み潰す。血を吐き出し、鮮血が空を舞う。ぐしゃぐしゃという音を上げて次々と「決死隊」と呼ばれた兵隊達が落ちていく。だがしかし、その内の何体かは「ハエ叩き」を回避して、その身を壁上に着地させた。
いくつもの矢を受け、ゆらりゆらりと左右に揺れる騎兵を振り回し、満身創痍の竜馬は槍を構える帝国兵達に向かって爪を突き立て、牙を剥いた。しかし所詮は孤軍、奮闘したとて結果は見え透いている。右、左、前、後ろ、四方八方から突き出された長槍によって体を貫かれ、早々と絶命した。
竜馬が倒れるに従って、その上に騎乗していた兵士もまた勢いに乗って壁上に投げ出された。その時の衝撃で彼らが付けていた覆面が外れ、その容姿が露わになった。直後、壁上にどよめきが走り、その声ははるか璧下にいるシオンの元にまで届いた。彼らの抱いたささやかな疑問、「なぜ、こうも無謀な突撃をするのか」というありふれた疑問が氷解した瞬間を感じ取り、一人シオンは恐ろしい笑みを浮かべた。
「ひどいことをなさる」
「そうか?」
「ええ。まさか毒を用いて意識が朦朧となった捕虜を特攻兵に使うとは」
トーカストは呆れたように笑い、コンプリートは頭痛で苦しそうに頭を抑えた。二人の副官の思い思いの反応に対してシオンはただ肩をすくめた。
「構わんだろう。奴らからすればこちらは蛮族。ならば、蛮族らしく戦おうではないか」
——そして戦いは続く。弓はよくしなり、矢はよく飛んだ。竜馬の蹄鉄が砕ける音が腐るほど聞こえ、兵士の断末魔はうんざりするほど耳にさせられた。
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