大戦佳境・軍靴
それは悪夢と形容するしかない状況だった。
次々と城壁の真下からモグラのようにヤシュニナの騎兵が躍り出た。次々と壁上の兵士達を薙ぎ払い、電光石火のごとく瞬く間に占拠してのけた。もはやここにおいて言葉など不要、結果のみを伝えるのであれば、わずか一時間足らずでヤシュニナは水堀を越え、第一の城壁を突破した。
第二の城壁から状況を見ていた帝国六大将軍が一人、デオン・ド・ディートリッヒはその結果に対して唖然とするしかなかった。口元を手で覆い隠し、恐怖と動揺から小刻みに歯を打ち鳴らした。彼の耳には左右の将校の悲鳴にも似た声は聞こえず、ヤシュニナのときの声しか聞こえない。鼻腔をくすぐるのは血臭ばかりで、艶やかな薔薇の香水は一才匂わない。舌に落ちるのは味のない唾液ばかりで、食したばかりのシュニッツェルの甘美な味わいは瞬く間に忘れ去られた。。身体中のすべての感覚がそれほどにしっちゃかめっちゃかになっていた。
状況が飲み込めないデオンは身を乗り出し、感情の赴くままに視線を左右へと揺らした。理解が追いつかないままの彼の眼窩に入ってくるのは逃げ惑う自軍の兵士とその後を追うヤシュニナ軍の恐ろしい姿だ。反転などする余裕もなければ、気力もなく次々と兵士達が討ち取られていく姿にかつてない憤りをデオンは覚えた。
血走った目を城門付近に向ければ、城壁から降りたヤシュニナ軍は内部の装置を動かして城門を開け、外に布陣していた本隊を引き入れていた。止めようとする帝国兵はおらず、士官級と思しき人間まで背を向けてこちら側、つまりデオンが今いる第二防壁の方向へと走っていた。指揮系統などどこへやら、完膚なきまでの敗北を味わった帝国兵士達は見るも悍ましい泣き顔をたずさえて逃げ惑っている。
——恥辱。恥辱としか形容できない惨状だ。この状況を招いたすべての存在を溶岩の海に蹴り落とし、全てをなかったことにしてしまいたいほどの。
「第二防壁はなんとしても死守しろ。これは厳命だ!」
デオンは血涙を流して、周囲の兵士、将校にそう命令した。たくさん発汗したせいで彼の化粧は崩れ、涙は化粧品と混じり泥水が流れているように見えた。
メキメキと顎の骨が怪しげな音を奏でるほどの激情に駆られたデオンの言葉に、将校達は頷くしかない。いや、頷くでは足りない。生唾を吞み込み、表情を強張らせながら最敬礼で応じた。貴族であることを差し引いても、ただの命令に対して行うにはあまりに大袈裟で、大仰すぎる対応だ。
「——それと、城門を開ける必要はない。逃げてきた兵士にはその場で戦え、と命じろ。逃げるような臆病者、我が視界に入れとうないわ」
「将軍、それは」
「敗残兵にかける温情などないわ。そも、本来であればその場で死んで自害し謝意を示すべきところを、逃げて生き恥晒そうという愚か者に、戦って死ぬ機会を与えてやっているのだぞ?なんと、これ以上の温情があろうか?」
「——ございません」「伯爵様のおっしゃる通りです」
左右の将校の同意と賛辞に気を良くしたデオンは、そうだろうと頷き、控えていた別の将校に先ほどの命令を実行するように念押しをした。それが兵士にとってどれほどの苦渋の選択かなど、彼は考えもしない。大股でその場を退場しようとしたその時、彼の耳目に今の彼が最も会いたくない人間の姿と声が飛び込んできた。
その人物は体躯の上では彼と同じくらいの身長と肩幅で、髪型は短く切った金髪、顔にひどい火傷の跡がある逞しそうな女性だった。彼女はデオンの行く手を遮る形で現れ、仁王立ちになって彼に命令の撤回を要請した。
「ディートリッヒ将軍、先ほどの命令、看過できませんね。すぐさま、撤回していただきたい」
「ベッテンカイル。第二将である私の命令に、第六将風情が指図するというのか?」
「原則として大将軍位にある者には確たる序列はありません。私が貴官の命令を撤回させてもいいのですよ?」
「平民風情が偉そうに。ではなにか?貴様はあの帝国軍の恥晒し共に汚名挽回の機会でもくれてやるつもりか?」
頷くだろう、と思っていたデオンに対して、第六将ノルム・ベッテンカイルは首を横に振った。怪訝そうに眉をひそめるデオンに対してノルムはその理由を明かした。
「彼らを助ける理由は主に二つ、一つは情報収集です。どのような手段でヤシュニナが馬を壁上にまで飛ばしたか、我々は知らない。大した対策がないまま、この第二防壁で戦えば、先の戦いの二の舞は避けられないでしょう」
「平民にしては筋が通っている話をする。で、二つ目は?」
デオンに近づき、ノルムは耳打ちをするかのような姿勢を取る。面倒だな、と思いつつもデオンは身を乗り出して彼女に近づいた。
「彼らを助ければ、兵士達は安心感を得られるでしょう。すなわち、戦場において兵の命を重んじ、その死に涙する良き上官である、と認知させることができます」
「そんなものが必要か?」
「お試しください。兵にとって指揮官とは自分の命を託す相手です。良き上官を演ずれば、自ずと兵自らが率先して死地に赴きましょう」
遠ざかる彼女にデオンは冷ややかな視線を送った。そして薄気味悪い笑みを浮かべ、高らかに腹の底から声を張り上げて笑い声を上げた。
「存外、冷たい女よなぁ。まぁいい。貴様の戯言、信じてやろうではないか。——先の命令は撤回だ。敗残兵を収容する準備にかかれ。援護射撃くらいはしてやるがいい」
「——は、了解しました。おい、弓兵の準備急げ」
慌ただしく兵士達が壁上を移動し始めた。その中にあって、ただ一人、ノルムだけは冷めた目で炎上している壁上を見つめていた。
彼女の目には猛り狂うヤシュニナの兵士達、いや亜人達の姿が見える。見るも悍ましく穢らわしい邪悪な見た目の悍ましい奴ら、しかして逞しい剛腕と勇ましい胸筋、引き締まった腰回りと鍛え上げられた健脚はどれも人間にはないものだ。
種としての彼らとの差は絶対的だ。人間が逆立ちをしたところで炎すら通さない強靭な甲皮も、天を飛翔する大翼も、海原をわたる鰭も、岩すら溶かす業火も、韋駄天のごとき俊脚も、鋼すら切り裂く爪も、頭蓋を噛み砕く顎も、盾を食い破る牙も、不滅の体力も、御山を飛び越える跳躍力も、黄金すら腐らせる腐食液も、人海を平らげる鉄尾も、城砦すら持ち上げる剛腕も持ち得ることができないのだから。
愚かしいことこの上ないと思った。彼らが徒党を組めば簡単に人類など滅ぼされるのだから、無視するか友好的にするかの二択が懸命だ。この先の蹂躙を考えると顔の上半分を占める火傷の跡がズキズキと傷んだ。かつて、大長城で負った古傷が激しく傷んだ。
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