大戦鈍行
作中でヤシュニナの首都ロデッカを東京都と同じくらい、と説明していますが、別に東京23区と同規模の書き間違いではなく、本当に東京都全域に匹敵する規模の大都市なんです。つまり、奥多摩とかまで街が延々と続いているということです。
ローダン王国の独立から約一ヶ月が経過した。たった一ヶ月の間に情勢は目まぐるしく変化し、実に20を超える小国が独立を掲げて立ち上がった。各地の領主達は、ある者は殺され、ある者は全財産を差し出して命乞いをし、ある者は逃走した。
空白になった領主の座を独立を掲げた勢力のリーダーらが担い、彼らはかつての諸王国の国旗を掲げて城門を開き、讃歌をもってヤシュニナ軍の入城を歓迎した。城下を花吹雪が舞い、市民達の熱狂的な歓声は城邑の至る所まで伝播し、野原を颯爽と通る春風のごとく、居心地のよい甘露な響きだったことだろう。
復古したかつての王国の諸王達と固い握手を交わし、それぞれを讃えあう姿はまさに正しい意味での同盟関係に見えた。反帝の盟友、そのたった五文字によってなされた同盟の結成の場に立ち会えたこと、それは市民達、かつて虐げられていた者達にとってこの上ない歓喜であった。
これまで自分達を締め上げていた領主達、代官達を追い出し、市民達はかつてないほどの自由を謳歌していた。この先の輝かしい晴れやかな未来を想像し、彼ら全員の顔には笑顔が浮かんでいた。
「——で、その皺寄せが俺達でーす!ちくしょぉおおおおおお!!!!!!!」
ヤシュニナの首都、ロデッカ。現実世界で例えるなら、東京都一つと同規模の大都市の一角で春風を思わせるほど閑麗で、しかし幼なげな庇護欲を掻き立てられる見目麗しい男児の口から、消えてしまいそうな儚げな濁声が吐き出された。有体に、簡潔に、あるいは率直かつ明朗に言ってしまえば、めっちゃかわいい妖精からウシガエルのような鳴き声が吐き出された。
その少年は持っていた万年筆を目の前の絨毯の上に投げ捨て、頭から書類の山へダイブした。机からこぼれ落ちた書類の山は水たまりのように絨毯の上にほどよい起伏を作り、少年はその上でさながら土左衛門一歩寸前の入水者のようにバタバタと手足を上へ下へ右へ左へと振り続けた。
やだよー、やだよー、と何度も連呼する彼の眼窩は窪んでいて、目の下にはくっきりとクマができていた。唇はカサカサに乾燥し、彼が瞬きをするたびに大きめの目やにが絨毯の上にぽとりと落ちた。手指を動かせば皮がパキンと割れて剥がれ落ち、骨はよほど動いていなかったのか、動かす度にコキコキと小気味良い音を鳴らす。
涙を流そうとも水分は枯れ切って、鼻水一滴、よだれの一垂れも出やしない。そんな状態なのに依然として彼の頬の肌色はみずみずしく、ほのかな桃色が勃っていた。喉がカラカラで、吐息を吐くだけで公園の便所のような黄ばんだ匂いがするのはもう何日も歯を磨いていないからだ。
平時は仕事中でも被っている山羊の頭蓋を模した仮面も今は遠く、部屋の隅に投げ捨てられ、拾う者はいやしない。なんならこの国における重鎮である少年、すなわち界別の才氏シドであるのに、彼が騒ごうが喚こうが、書類の山の上で干からびている上にジタバタしているのに誰も止めようとも助け起こそうともしない。ひとしきり暴れ終わると、スンと大人しくなり、真顔に戻ると、絨毯の上に落ちた書類を拾い、元の位置に戻した。
彼自身もゴリゴリと万年筆を動かし始め、再び室内に静寂が戻った。——そして大体3日くらい経過して、再び似たような発作を起こしている中、前触れもなく扉が開かれた。カッと見開かれた猫の如き金色の眼光が入室者を捉えるが、それを受けても当の本人は大して気にしていない素振りで追加の書類の山を長机の上に置いた。
「シド、こちらに追加の決済依頼書、置いておきますね。あと、少しは風呂にでも入ったらどうですか?臭いです」
純黒の師父カルバリー・ギジドがドサリと置いたその紙束の山を見て、シドはさらに発狂して、さながら猫のようにシャーっと全身の毛を逆立てて彼を威嚇した。いつもの調子を忘れて餓鬼のように振る舞うシドの顔面を思いっきり蹴り飛ばした。
カルバリーの種族、テクノロイド・サーパスは機械種族だ。ただでさえ頑強なテクノロイドの固い鋼の具足で思いっきり蹴り飛ばされ、しかしシドはわずかに首を後ろに傾け、鼻血を出しただけでそれ以外に目立った外傷はなかった。
「いぇええ」
「働け。十徹くらいイスキエリには余裕でしょう?」
「クソがよ。俺だって休みたいの。喉もカラカラなの」
「なら、しゃべるなよ」
図星を突かれてシドは閉口する。彼の種族、イスキエリは特異な聖霊だ。肉体はあるが、食事による栄養補給、水分の摂取などは必要とせず、喉が干からび、水分がなくなってもしゃべること、生きることができる。しかし泣いたり、涎を垂らしたり、鼻水が出たりといった生理現象には水分を必要とし、カサカサの唇を彼がいくら舐めてもそれが潤うことはない。
元来、イスキエリとは優れた王のための摂政となることを宿命づけられた種族だ。それに必要なのはしゃべること、それだけだ。喉がカラカラになってもしゃべることができる理由はただそれだけで、その副作用としてあらゆる詠唱阻害系のスキル、魔法、技巧はイスキエリには通用しない。
イスキエリは肉体的疲労とも無縁だ。どれだけ長時間歩こうが、走ろうが、戦おうが、彼らは息切れくらいはするかもしれないが、疲労で倒れるということはない。しかし精神は磨耗する。このあまりにもアンバランスな生態はおよそ、生存戦略の上では機能する代物ではなく、ただ一つことを為すためだけに作られた、さながらアリのごとき種族である。
「うるせぇえええ!!!!だったらてめぇえで決済しろぁあああ!!!」
「あんたの立てた計画でしょうが!それでてんてこまいって。マゾなんですか?」
「ちっげぇーよぉ!本来はこんなに早くことが進むなんて考えちゃいねーんだよ!二ヶ月も計画を前倒しってどういう状況だぁ!?」
ふざけんなーとシドは絨毯の上の書類の山を蹴り飛ばした。舞い落ちる決済書や許可書など諸々の書類の中で大声を出して発狂するシドを羽交い締めにしながら、カルバリーは彼を席に付かせた。
なおも荒れ狂うシドの脊髄を思いきり殴打し、大人しくなったところでその頬を何度も何度も激しくビンタした。彼の頬がパンパンに膨れ上がり、それでもまだ起きなかったので、今度は鋭い正拳突きを鳩尾目掛けて放った。
その痛みから意識が戻ったシドは激しくえずくが、胃酸はもとより、よだれの一雫も落ちやしない。激しいだけの痛みに悪態をつきながら恨めしそうにシドはカルバリーを睨んだ。
「だってさー!なぁんで一ヶ月やそこらでアスカラ地方の半分近くが独立してるわけ?帝国は?抵抗しなかったん?」
「話続いてるんですか。まぁ、それはさておいて。——抵抗しなかったんでしょう。蜂起した市民達を前にして逃げ去った、と聞いていますから」
「なんでぇ!?普通は守るものだろ、アスカラ地方を!あいつらにとっちゃ生命線だぞ?」
ごもっともで、とカルバリーは頷く。現地にいないシドとカルバリーにはアスカラ地方が今どうなっているかはわからない。公的な唯一の頼りは定期的に送られてくるシオンからの報告だけで、それすらも詳細な報告というわけではない。せいぜいが、これだけの物資を消費したので届けてくれ、というものだ。
戦況報告のようなものは一切、送られてこない。大規模な戦闘は元より、小規模な遭遇戦、小競り合いのようなものもだ。それが正しいことはシドとカルバリーも彼らの密偵を通して把握している。無論、帝国軍の大部分がポリス・カリアスに兵力を集中していることも。
本来のシドの予定にこのような帝国軍の大移動は想定されていなかった。足止めのために数万規模の軍隊が出張ってくるだろう、ということを想定して、シオンには現場での裁量権をかなり高めに設定した。彼に預けた権力はすべての氏令に対して国柱と同等の命令権を有しているのに等しい。万が一にも離反などを起こしたら、国が二分するどころではない。
懸念は他にもある。異常な行軍速度のせいで兵站が悲鳴を上げているのだ。本来はシドの仕事ではないが、人手不足のせいで、兵站管理の一部をシドが担っている状態だ。そうでもなければ何日かおきに発狂など起こさない。ゆっくりと送るはずだった物資を前倒しで送っているせいで、致命的な遅れが生じているのだから尚更だ。
仕事量の膨大化に伴い、シドの副官である銃の師父アディン・ヘーデルロックに臨時で才氏と同等の権限が与えられ、シドが行くことができない現場での取り継ぎや確認などのために奔走している始末だ。
「これって作戦か?俺らの補給路を麻痺させるっていう」
「どうでしょう。結果的にこちらが人民の心を掴んでしまっているわけですから、物資は円滑に本軍に届くでしょうから、焦土作戦にはならないと思いますが」
嫌な点を指摘され、シドは閉口した。これがナポレオンのロシア侵攻、あるいはダレイオス一世のスキタイ侵攻のような焦土作戦、こちらの食糧調達を難しくする類の作戦であれば兵士の被害を抑えるために要所であるポリス・カリアスに兵力を集中することは定石と言える。
問題はただ兵士を退かせたばかりか、各地の領主をかつての領民らへの生贄かのごとく切り捨て、現地のヤシュニナ軍との間に確固たる協力関係を築いてしまっていることだ。これではせっかく、兵力を温存したところで、同じような状態の兵士同士がぶつかるだけではなかろうか。
「正気か?ポリス・カリアスの三重防壁程度で俺らの侵攻が防げる、とか思ってんのか?」
「思っているから兵力を集中しているのでしょう?数は10万を超えるとか、たいしたものです。さすがは人口大国ですね」
「いや、アレクサンダーの奴が何を考えているのかは俺もわかるよ。侵攻してきたヤシュニナ軍を完膚なきまでに実力で排除して、独立を宣言した諸王国の精神的支柱をポッキリ、折りたいんだ。そのためにこちらの倍以上の兵力を集中している。そこまでは、ね」
怪訝そうにシドは目を細めた。珍しいこともあるものだ、とカルバリーは彼のいかにも思慮深そうな表情を覗き込みながら、楽観的な感想を抱いた。
「とにかく、アスカラ地方のあれこやこれやを中心にして情報をくれ。あと、一応だけどオルト地方についても。例の作戦に支障をきたすかもしれない」
「了解しました。あぁ、そうそう。ヴィーカから報告です。炉の運転に支障はない、と」
「へー。ふーん。じゃぁ、あとは動かすだけだな。バカみたいに資材を放り込んだんだ、多少は動いてくれなきゃ困るよ」
ですね、とだけ言い残してカルバリーは退室していった。大量の書類の山を残して。
作中のキャラクターの戦争感
シド)そこそこの練度の軍隊に武器と食いもんやりゃ勝てるだろ。(いざとなりゃリドルをぶちこめばいいし)
リドル)がんばれ。
シオン)戦略重視。兵站を整えるのは大前提。
アレクサンダー)同上。兵の士気を上げる大義名分があればなおよし。
バヌヌイバ)知らねーよ。戦争とかしたくねぇ!
エッダ)戦争とかバカのやることですよ。つまり人類全員バカ。




