大戦経過
聖都ミナ・イヴェリアの一室、自分の執務室でアレクサンダーは仕事をしていた。仕事の内容はいつも通り、送られてきた書類にサインをして、その内容の正確性を担保するのが彼の職務だ。給餌が淹れた芳しい紅茶の香りを楽しみながら、羽ペンを走らせる。
宰相という職についてはいるが、彼の仕事はそれほど多岐にわたるものではない。財務や外務、法務に宮事、治水、交通、農業、その他様々な業務はそれぞれの大臣職を担っており、宰相と言うなれば彼らが送ってきた経過報告書や発案書、計画書に目を通し、確認のサインをした上で皇帝にそれらの仔細を奏上する役目に他ならない。
地味と言ってしまえばそれまでだ。早い話が中間管理職だ。時には各大臣と送られてきた書類の内容について連日連夜話し合うようなこともある。仕事の量だけは膨大で、送られてきた全ての書類に目を通すだけでも燭台の上の蝋燭を十度取り替えてもまだ足りない。節食しているわけでもないのに、ストレスと疲労で頬などは不健康に痩せ細り、窪んだ目を見た側近はアレクサンダーの目が幽霊のように見えた、と彼の前で評したほどだ。
座りっぱなしの仕事であるため、腰も痛くなる。尻も何度痔になりかけたかわからない。視力も大分衰え、時折すぐ近くのものでさえぼやけることがある。儀式の最中にあくびを噛み殺すため、眠気を紛らわすために医師に何度、眠気覚ましの薬を調合させたかもわからない。
とかく、気苦労と肉体的疲労が多い役職で、仕事仲間も自分と同じ貴族であるから、配慮をしなくてはいけない時もあるし、時には真っ向から対立することも少なくはない。議論百出を楽しむのなら、まだ心にゆとりをもって興じられるが、毒物を用いた暗殺にまで発展したケースも多いため、対応には細心の注意を払わなくてはならない。そうでもなければ龍面髑髏などという傭兵まがいの鍛治師集団を雇おうなどとは考えなかった。
役職の大変さと言う意味では他の追随を許さず、仕事の量では皇帝すら追い抜いて帝国随一と言えるかもしれない。それでもアレクサンダーがこの仕事を続ける理由は、他に適任がいないことと、彼にとって宰相職が天職であるからに他ならない。
行政の仕事に関する書類のすべてがアレクサンダーのところに舞い込んでくる、ということは、裏を返せば帝国内で行われている、あるいは計画されているあらゆる事業や計画の全容を知ることができる、ということだ。大臣職から提出された書類ということもあって、送られてきた書類はいずれもよく調べてある綺麗なもので、非常に見やすいものだからこそ、実情、内情を把握することができる。
ただ全容を把握するだけではない。計画内容、事業内容に疑問を覚えれば担当の文官を呼び出して問いただすこともできるし、なんなら書類にサインをしない、ということもできる。
この宰相職という地位を利用して、他の業務に介入しようとする人間は帝国の歴史上、決して少なくはなかった。「こちらの言うことを聞けば、あれを通してやる」みたいな脅迫まがいの出来事も数多く横行した。そういった過去と宰相職の仕事量から、長らくは封印されていた役職だったが、現皇帝の即位時に復活し、アレクサンダーがその役職に就いた。以来20年近く、彼は帝城内で絶大な権力を握っていた。
いつものようにアレクサンダーが書類と膀胱と眠気の三凶星と格闘していると、扉を叩くものがいた。彼が入室を許可すると、正面の扉が開かれ、女人とみまごうばかりの美麗な男性が入ってきた。
「シャンデラか。どうした?」
「ヤシュニナ軍殲滅後に導入する予定の新税についての草案を持ってきたんですよ」
そこそこの厚みの草案書を机の上に置き、シャンデラは部屋の主人の許可も取らずに閉められた扉に手を伸ばした。窓が開け放たれ、心地よい6月の息吹が流れてくる。鬱屈とした部屋の空気が浄化され、暗がりに光が差した。
「あまり締め切った部屋にいうのは健康上、よくありませんよ?」
「わかってはいるさ。換気する暇がないほど忙しいだけでな」
ペン皿に羽ペンをそっと置き、両手の甲を合わせて前屈のような姿勢で体を伸ばすと、ぼきぼきという音が鳴った。首を左右に曲げると、同じ音が鳴った。よほど長い間同じ姿勢になっていたのだろう。
「それで?他に何か話題はないのか?」
「疑問に思ったことが一つ。なぜ、ポリス・カリアスなのですか?確かにヤシュニナ軍が城砦の攻略が苦手なのだろう、ことはその風土から予想できますが、それならば堅固な要塞は他にもいくらでもあります。平野での戦いでも圧倒的な数の暴力で押し潰せばよいではありませんか?」
シャンデラの問いにアレクサンダーはほくそ笑みながら、髭をさする。シャンデラの懸念は概ね正しい。ポリス・カリアスという帝国の要所まで撤退するのは明らかに愚策のように見える。いくら、背後からの一突きが怖いから、と言っていささか臆病にすぎることも十分に理解している。
「それでもポリス・カリアスにまで退かなくてはならない理由があるのだよ。より具体的には奴らの軍隊構成にね」
「軍隊構成?騎馬と歩兵ですか?」
「帝国では上級士官か貴族くらいしか騎馬には乗らないものだ。一方で奴らはあのグリムファレゴン島で生き延びるために騎馬を用いらざるをえなかった。今は廃れているだろうが、それでもかつての風習というものは軍隊には色濃く残るもので、本島の兵士達は乗馬を覚えさせられるのだとか。その時がくれば今は歩兵の兵士も乗馬し、騎兵となるだろうさ。苛烈で俊足の騎兵など、恐ろしいことこの上ないだろう?」
「下手に平地で戦うと騎馬の突破力で痛い目を見る。よしんば勝ったとて四散した敵兵士が村々や街を襲うかもしれない。それを危惧しているのですね」
それもある、とアレクサンダーは尻を引き締めてうなずいた。しかしすぐ、それ以外にも理由はある、と付け加えた。
「ヤシュニナは現在、大義名分としてアスカラ地方の帝国からの独立を掲げている。自由や開放といった言葉はなんとも耽美なもので、その意味を知らぬ輩を熱狂させる力があるのだ。彼らは先頭を進むヤシュニナ軍の背中を見るが、しかし決して正面から見ることはない。当然だ、英雄を正面から見るものなど限られているからな。さて、シャンデラ。そんな彼らにとっての英雄がくるりと反転することができるだろうか」
「期待と羨望を背負った彼らが、退くことができない状況をつくる、と?そう上手く人の心理というものは働くでしょうか。命惜しさに逃げることだってありましょう。矜持など、命の前では無価値なのですから」
「逃げるなら逃げるでいいのさ。そうなれば、もう奴らは二度とこの地に足を踏み入れることはできなくなる。考えてもたまえ。一度見捨てた相手を信じることができるか?かつて抑圧されていた住民が。ゆえにポリス・カリアスなのだよ。アスカラ地方の人間にとっての抑圧の対象、それが取り除かれれば真の意味でヤシュニナは解放者としての名実を得るだろうが、そこから逃げれば、あるいは負ければ、もう二度と今回のような馬鹿げた行軍はできまい」
そこまで言い切って、アレクサンダーはバネ人形のように椅子から跳ね起きると小走りで部屋から飛び出して行った。なんだ、なんだ、とシャンデラが彼の座っていた椅子に触れると、少しだけ濡れていた。
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