大戦鬱屈
ローダン王国独立の一報を受け、聖都ミナ・イヴェリアでは緊急の会合が開かれた。招集されたのは帝国の中枢を担う文官と武官達、各大臣達と少将以上の将校らがひとつ所に集められるなど、帝国の歴史を振り返っても両手の指で事足りる程度しかない。
帝城内のこじんまりとした秘密の会議室に集まったのは帝国の根幹に関わる名だたる面々だ。文官の代表である宰相、アレクサンダー・ド・リシリュー、武官の代表である軍曹司令官、ビクトール・ハインハマー、そして帝国の支配者たる皇帝アサムゥルオルトⅪ世とその「代弁者」であるヒースマルク・ド・ユノーといった錚々たるメンツが一同に介す中、おもむろに顔に火傷痕がある隻眼の女性が立ち上がり、手に持っていた資料に目を通しながら、帝国南部の地図を指示棒で差して説明を始めた。
彼女の報告曰く、旧ローダン王国の首都ジョーアに入場したヤシュニナ軍は1日の休養を経て、西進。その道中にあるかつての旧アスカラ地方の諸王国の系譜に連なる者達を旗頭にして、独立騒動を起こしている、という話だ。その速度は尋常ではなく、諸都市の駐屯軍では対処できない、と締めくくって彼女は着席した。
「宰相閣下、これは予想しておられたか。ただ前面のヤシュニナ軍に向き合うだけではなく、後方の市民達にも敵意を向けなければならない。兵士達にとってどれほどそれが苦痛か、おわかりか?」
発言をしたのはビクトールだ。巌のような男と表現するのがこれほど相応しい人間もそうはいないだろう。女人のバストサイズのような張った胸筋、引き締まった腰回り、上腕も前腕も軍服越しでもわかるほど鍛え上げられ、首まわりなどはさながら大樹の幹のような太さだ。
日輪のごとく輝く髪型には大熊にでも削り取られたかのような惨たらしい傷跡があり、熾烈な経歴があるだろうことを窺わせる。強面の顔つきとそれをより顕著にする、低く重い声。さながら大理石が人の皮を被っているような威圧感を感じさせる人物の発言に周囲の貴族達、軍人達の表情がひきしまる。
「総司令官閣下、何を気負うことがあるのですか?」
ビクトールの問いにアレクサンダーは小馬鹿にしたような調子で返す。ぴくりとビクトールの眉間に寄ったしわが揺れ、彼はやや身を乗り出してアレクサンダーに詰め寄った。
「所詮、アスカラ地方の住民は旧来の帝国臣民ではなかった、という話ではないですか。反乱分子を誅することに、一体何を躊躇することがあるのでしょうか?」
「敵かもしれない、味方かもしれない、という疑心暗鬼が兵士達を毒する、と言いたいのだ。いかな兵士とて四六時中、日中夜、気を張っていることはできない」
「なるほど。それは確かに。では、こういうのはどうでしょうか?いっそ、すべての城邑から帝国正規軍を退かせてみては?」
なんだと、とビクトールのみならず、貴族達、軍人達もざわめいた。唯一、皇帝とその代弁者だけが沈黙を守った。
「どういう腹づもりか?」
「先に総司令官殿がおっしゃった通り、常に前後を警戒することなど不可能です。いつ反乱が起こるかもわからない中、ヤシュニナ軍の到来を待つのは愚策。かといって過度な締め付けは余計な反帝感情を煽りかねない」
「おっしゃる通りだ。で、ならば最初から城邑を守らずに兵を撤収させる、というのか?どこに?聖都までか?」
「まさか!兵はすべてポリス・カリアスにまで退かせます。そこで一大決戦を」
なぜ、という疑問符がビクトール達の脳内に浮かび上がる。ポリス・カリアスがどのような場所であるか、この場に集まっている人間で知らないものはいない。アスカラ地方全体を統括する大都市だ。帝国内で唯一、他国との貿易が認められている場所でもあり、その権益は聖都以上である。
帝国の主要機関が集中している聖都が政治の中心であり、また国民の羨望の的であるならば、ポリス・カリアスは帝国経済の要であり、その顕在こそ実利の上で国家繁栄の象徴である。内陸部を強固な三重防壁に囲まれ、内部には常に聖都と同規模の軍隊が駐留している。対して開かれた港湾区は小規模ながらも海外の諸国家の船が行き交う港があり、商館があり、大きな市場が多数ひしめいている。
尋常ではない規模の倉庫街、いくつもの商店街、移動を簡便化するための様々な都市機能、清潔で清貧、しかして喧騒が絶えることはなく、常に新しい何かが都市を席巻してやまない。聖都が古式ゆかりの伝統と風習に重きを置いた清浄なる都であるならば、ポリス・カリアスをして革新と新興の街と称してしかるべきだろう。
「それを決戦の場とする、と宰相殿下は仰せか?いや、それ以前に、自分達を見捨てる、少なくとも見捨てたように見える国の軍隊を民が信用するでしょうか。今後の統治に差し障りがあるのでは?」
ビクトールの苦言に周囲からも賛同の声が上がる。各城邑に駐屯している帝国正規軍の規模はそれぞれ500から1,000ほど。独立騒ぎが起こっている諸都市の分を差し引いても、数万規模の大軍勢になることは疑いようがない。
しかし、とビクトールは渋面を浮かべた。地方都市、各領地の城邑に駐屯している兵士の練度は西部の大長城で戦っている兵士はもとより、聖都やポリス・カリアス、果ては北部方面軍と比べて、お粗末と言わざるを得ない。圧倒的に実践経験の足りない兵士を帝国の要所の守備に就かせるなど、彼の論理ではありえないことだった。
いわゆる駐屯軍の役割はあくまでも治安維持だ。城邑内の警察機構であり、防衛機構。聖都とポリス・カリアスがそれぞれ帝国臣民にとっての尊崇と繁栄の象徴であるならば、駐留軍とは外敵を駆除する頼もしき剣と盾として臣民から見られている。それが城外に出て、あまつさえこれから侵攻してくる敵軍を前にして、別の場所へ行ってしまうというのは臣民からすれば大いなる裏切りと捉えられてもおかしくはない。オルト地方であればまだ理解はあるかもしれないが、支配し始めてから1世紀も経っていない、言うなれば支配が定着しかけている段階のアスカラ地方で行うにはあまりにもリスクが大きすぎる策だ。
「なるほど、臣民の心離れをハインハマー総司令官殿は危惧しておられるのですな。いや、なるほど。平民出の方らしいご意見だ。ですが、ご安心召されよ。勝利すれば良いのです。勝利さえすれば臣民達の浮ついた心も落ち着きを取り戻すでしょう」
「この戦いが長期戦になれば話も変わってきましょう。戦が長期化すれば海を征している反帝の輩こそ有利でしょう。あるいは、長期化こそが奴らの狙いなのかもしれない。戦を長期化させることでアスカラ地方で勢力を蓄える腹づもりかもしれません」
「それならば尚更、我々は早急に手を打たねばならない、と思いませんか?すなわち、彼奴等の勢力を一網打尽にする場所を我らは欲しているのです。それが、ポリス・カリアスである、という話では?」
ビクトールとアレクサンダーの会話に口を挟んだのは財務大臣であるシャンデラ・ド・ブローニュだ。慇懃無礼な口調でいけしゃあしゃあと高説を垂れた彼に軍人達のヒリついた空気が向けられる。
「——ブローニュ伯、お言葉ですが、ポリス・カリアスを餌とすることがどれほどのリスクかお分かりですか?ことと次第によって財政にも響くのですよ?」
苦言を呈した六大将軍第六将、ノルム・ベッテンカイルの言葉にもっと言ってやれ、といった空気が軍部側で流れた。財務大臣であるシャンデラにすれば財政に響く、という言葉はこの上ない劇薬だったことだろう。シャンデラはしかし、満面の、男でも色を覚えるような極上の笑みを浮かべて、ご心配なく、と返した。
「その際はさらに税を徴収すればいいのですよ。他にも此度の一件でみすみす領地を奪われた貴族の恥晒しから、財産を没収しましょう。ああ、そういえば先の海戦で卑しくも、命惜しさに降伏した武装貴族らから財産をまだ没収しておりませなんだ。それも没収して、いえ国庫に変換させようと思うのですが、いかがでしょうか?」
「なるほど。それならば財務状況も多少は改善するやもしれませんな。いかがでしょうか、陛下。この案、採択してみては?」
周囲の視線がアサムゥルオルトⅪ世に向けられる。皇帝はわずかに逡巡して見せ、その傍に控えている「代弁者」であるヒースマルクに耳打ちをした。皇帝の意を受け、一歩前に出たヒースマルクは「認める」と短く告げた。
皇帝の意を受け、アレクサンダーとシャンデラ、そして彼らの派閥に属している貴族らからは満足したような声が漏れ、対して軍部からは苦虫を噛み潰したような声が漏れた。大臣らの多くが貴族出身であるのに対して、軍部はほとんどが平民出身だ。自分達の親兄弟の納めなくてはいけない税金が増えて喜ぶ人間などいるわけがない。考えを改めるように、ビクトールは進言するが、彼の言葉はアレクサンダーによって遮られた。
「総司令官殿、我らは今、破滅か存続かの瀬戸際にいるのです。多少の犠牲は覚悟しなくてはなりません。何より、我らがポリス・カリアスに兵力を集中しようが、しまいがヤシュニナは同地を目指すでしょう。これは先手を打っているのですよ」
「どういう意味ですかな、宰相殿下」
「すでに話した通り、あるいは周知の通り、ポリス・カリアスの失陥は帝国にとって致命的な傷になりえます。ヤシュニナほど優秀な人材を有する国家が、それを理解していないはずがない。それこそ、やろうと思えば初手でポリス・カリアスを強襲し得た。ポリス・カリアスの方が彼らが上陸したとされるクターノ王国よりも北側にありますからね。でもしなかった。なぜだと思われますか?」
アレクサンダーの問いにビクトールは口元に手を当て、思案する。少しの思考で目の前の男が何を言いたのかを察したビクトールはおもむろに乾いた唇を動かした。
「経済的に帝国を滅ぼすため、か」
「アスカラ地方の街道はすべてポリス・カリアスを経由することでしか、オルト地方につながっておりません。ポリス・カリアスを抑えるということは北部と南部の切断を意味しています。ですが、ただ同都市を抑えるだけでは別の道を作られて終わりです。そこで彼らはまず、アスカラ地方の民意そのものを帝国への敵対感情一色で塗り替えようとしている。そしてそれはローダン王国の件で成功の兆しを見せた。
「それがわかっていたのならば、事前に対策を打つこともできたのではないですか?」
「できうる限りのことはしましたよ?ジョーアを初めとした東部国境周辺の都市、城邑に駐留する軍を増員したりね。ですが、まさか民衆が武器を手に取るとは思ってもみなかった。先の海戦後に陛下による行幸などがあれば、国威を示せたかもしれませんが、まぁ、たらればの話ですな」
当の皇帝を前にしたとは思えない辛辣なセリフをアレクサンダーは口にするが、ビクトールを初めとした軍部の人間は元より、彼と敵対する派閥の貴族も何も言おうとはしなかった。そんなつまらない争いをしている状況ではないことはもうわかりきっていた。
その日、帝国皇帝、並びに帝国軍総司令官の共同印による発令で、アスカラ地方の諸都市に駐留している軍隊はすべて、ポリス・カリアスに移動することが正式に決定された。夕闇を背景にして北部の街道を走るその隊列は延々と続き、さながら陽光を避ける百足虫のようだった、と近隣の住民は語った。
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