大戦序章
一陣の海風がさぁと頬を撫でる。潮の香りが鼻腔をくすぐり、肌を伝う湿気が胸を弾ませて仕方がない。小波が打ち返す音、海鳥がいななき、蒼穹が隅々にまで白雲を弦の如く張るこの季節、微熱と湿気が混じった西からの風をその肌で感じ、人は春の訪れに心穏やかにはるか水平線を臨む。
紺碧などという言葉では片付けられない深い蒼。底ないなど見えない黒が混じったなんと美しくも不気味な海淵。その恐怖は人をすくませ、ゆえにこそその矮小な身を大海原を翔る巨船に縋らせようとする。まさしく、海とは絶対悪に他ならない。恐怖の象徴であり、人と船を巡り合わせる橋渡し役を努めようとするその献身、海祇を征く漢共は今生の恋人と巡り合わせたことを海に感謝しなくてはならないだろう。
大嵐により、仲間が海原に消えた時こそ恨むではなく、回帰を尊まなければならない。あるいは羨望か。ああ、なんて羨ましい、と。
「軍令シオン、まじ気持ち悪いんでそのクソみたいな詩やめません?」
「黙れ。戦士とて詩文を嗜む程度の心のゆとりがいるのだ」
だまらっしゃい、とシオンのしたためた文章を半月湾の将軍コンプリートがひったくり、彼の前でビリビリに破く。そして船窓を開けると、さながら吐瀉物を捨てるが如く、水面目掛けて紙屑を放り捨てた。
シオンの静止になど聞く耳は一切持たない。シオンの抱える三人の副官の中で最も彼に厳しい男、コンプリートは厳しい表情でシオンに向き直ると、そんなことより、と前置きをして新しい用紙を彼の前に差し出した。
「お手紙の進捗具合はいかがですか?」
「おおよそ、4割といったところだな。文章がすべて同じだと、受け取る側もいい気分はしないだろうから、似ているようで違う表現、類語を探すのに苦労しているよ」
ヤシュニナの文学院が5年ごとに発行している類語辞典をめくりながら、シオンは思索にふける。彼が持てる表現力のすべてを用いて書き連ねている30を超える手紙はそれほどに重要なものなのだ。
ヤシュニナの首都ロデッカを出立して、すでに二日が経過している。船はゆっくりとトーリンの海を南下し、一路クターノ王国の港、ザスパリを目指していた。
アンダウルウェルの海戦後に開かれた大会議にてグリムファレゴン連合軍による大陸東岸部侵攻が決定された。その第一陣を担うのが、シオンが率いる3万5千の軍勢だ。頭のてっぺんからつま先まですべてヤシュニナ軍人で構成された混ざりっ気一つない生え抜きの軍隊だ。それを無事に大陸本まで移送するという手前、移動には大型の船が必要となり、帝国海軍から鹵獲した大型船を用いている。
片道一週間近くの航路、揺れる船内での繊細な作業ほど苦痛なものはなく、酔いを覚えるものはない。その酩酊にも似た不快な感覚を我慢しながら目標の4割を言葉に気を遣って書き上げたのだから、やはりシオンの能力は相応に高いのだ。
「ザスパリに到着したら、すぐに手紙はノックストーン商会経由でアスカラ地方の諸豪族へわたす手筈になっております。時間的猶予はあんまりないんで、頑張って書いてください」
「代筆は雇えないのか?」
「できなくはありませんが、後々、豪族同士が手紙を見比べた時に、筆跡が違っていたら、面倒になるかもしれませんよ?第一、代筆を雇おうにも船の上じゃそんな人いませんって」
それもそうだな、とシオンは肩をすくめた。コンプリートに差し出された酔い止めを飲みながら、一息入れ、手首をさする。部屋にこもって手紙ばかり書いていると、腱鞘炎になりかねない。
シオンが束の間の休憩をしている間、コンプリートは彼が書き終えた手紙を開き、その中身を改める。先方の尺に触るようなことが書いていないかを確認するためだったが、さすがは書き手が亡国の王族だから、と言うべきか品性が著しく欠けた言葉の類は見受けられなかった。
手紙をそっと閉じ、高価な封筒へと入れ、蝋を垂らす。蝋の上にシオンから預かった軍令印を押した。一連の作業をテキパキとコンプリートはこなしていく。その傍ら、ふと疑問を覚え、休憩中のシオンに彼は向き直った。
「そういえば軍令シオン、前々から聞こう聞こうと思っていたのですが、こちらのノックストーン商会と軍令はいかなるつながりなのですか?ノックストーン商会と言えば、ヤシュニナ有数の商会であり、大陸各地に商館をもつ巨大な……」
「ああ、そうだ」
シオンは手首をさすりながら頷く。
コンプリートの言う通り、ノックストーン商会は大陸有数の巨大な多国籍複合商社だ。本社をヤシュニナに置き、またヤシュニナ発の商会ということで、一応はヤシュニナの商人ということになってはいるが、その気になればいつでも別の地域に拠点を移して商売を始められるほどの影響力を有している、移動国家と形容してもおかしくはない商会である。
組織の規模はシオンが把握しているだけでも商館をヤシュニナを始め、四邦国、東岸部三カ国、アスハンドラ剣定国、帝国、果ては南方の内湾国家群も含めて50ほど持ち、その資産は都市の年間予算に匹敵するという。帝国内部の貴族とも太いつながりを有するため、ヤシュニナ側でありながら、帝国内でも手広く商売をしているなど、両国から見れば異端と言って差し支えない存在だ。
「ノックストーン商会と私のつながり、か。軍令が商会と懇意にして、何か悪いことはあるか?」
「仮にもヤシュニナを守護する軍人が商人と仄暗い関係にあるのは、いささか問題があるのでは?」
過去、商人や商社と黒い関係を持ち、氏令職を追われた人間は数知れない。大抵が密輸に関係していたとか、贈賄だとかかなりしょうもない理由だったが、同じようなことをシオンがしていない保証はない。自分の上司がしょうもない理由で凋落する様はコンプリートも見たくはなかった。
そんなコンプリートの内情を察してか、安心しろ、とシオンは彼の緊張をほぐすような優しい、普段は決して出さない声音で語りかけた。逆にそれがあやしさを増大させたのか、コンプリートは組んでいた両手の拳を腰部で固めたが。
「ノックストーン商会の会長であるノックストーン・カームフェルトと個人的なつながりがある、というだけだ。趣味の範疇だがな」
「趣味、なるほど。そういうことにしましょう。これ以上は藪蛇のようだ」
「そうしてくれ。さて、仕事に戻ろうか」
「新しい薬を煎じて参ります」
助かるよ、と言い、シオンは再び背中を扉に向けた。
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