陰謀の鼓動
アスカラ=オルト帝国の首都、ミナ・イヴェリア。その象徴であり、また帝国という国家そのものと言い換えても相違ない白亜の城、アラルゴールはかつての西の王者らによって建造された芸術作品である。帝都にして、聖都を守る三重の防壁はこの帝城を守るために存在し、例えいかなる災禍がこの地を脅かそうと、永久への平穏が約束された理想郷、上古の時代には人類最後の理想郷などと渾名された理由はここにある。
帝城の中庭は季節を無視した色取り取りの花々が鮮やか、艶やかに咲き誇り、どこからともなく鳥達が舞い降り、地底の底から帝城へと組み上げられる井戸の水は枯れる気配を示さない。まるで一つの小世界、完成した大陸一つを小さくまとめ上げたような神秘的な城、剪定の必要なく、木々は想い想いの木の実を実らせ、いずれも帝国のいかなる場所でも味わったことのない極上の甘みと酸味を咀嚼した者に与えるのだ。
ゆえにこそ理想郷。食うも寝るも、あまねくすべての人々にとって夢のような楽園、それが白亜の城アラルゴールであり、聖都にして帝都たるミナ・イヴェリアである。
さりとていかなる楽園にも毒牙は蔓延る者。かつてのエデンに一匹の毒蛇が紛れ込んだように、この地もまた一人の毒蛇に侵されんとしていた。その人物こそがアレクサンダー・ド・リシリュー、現帝国宰相その人である、とこの日、この時までジドー・ド・エーデンワースは疑って憚らなかった。
アレクサンダーへの審問会が終わり、各貴族達が退席していく傍ら、忌々しげにジドーは彼を睨んだ。まるでさっきまでの激論をなかったことかのように腹心であるブローニュ伯爵と歓談に耽る彼の底知れない浅ましさ、厚顔無恥の極みのような吐き捨てた人間性はまさしく、蛇そのもの。獅子身中の虫、という言葉をかつてとある辺境伯爵に教えられたが、まさしくそれだ。
どうにかして彼を排除しなければ、と何度思ったことか。だが彼の存在が今の帝国を帝国たらしめていてるのもまた事実だ。街道の整備、亜人種の絶滅政策、治水工事、一手でも間違えれば帝国がその屋台骨を崩すかもしれない事業を彼は自らが陣頭指揮に立ち、就任まもなく着手し、ことごとくをほぼほぼ満点回答の状態で成し遂げた。蛇であるが、それでいて帝国における政治の柱であるのは間違いなく彼だ。
その彼がこともあろうに90年前の惨劇をまた繰り返す。賢者は歴史に、愚者は経験に学ぶと言うが、いずれからも何も学べなかっただろうアレクサンダーは一体なんなのだろうか。決まっている賢者でもまして愚者でもない、彼はもはや蒸気を逸した狂者に他ならない。狂者の暴走を止めるのはいつだって、誰かの自己犠牲、暗殺という汚い手段を用いた者だ。
「そしてそれは、私であるべきだ」
自らを帝国一の忠臣である、などと思った試しはない。いつだって帝国一の忠臣は、帝国のために命を投げ打って、国を救った先達だ。後進の自分達は今を生きる以上、どれだけの美辞麗句を並べ勇猛苛烈な活躍をしようとも、決して追いつくことはできない。生者は死者には勝てないのだから。
黒い風が心の中で吹き荒れる。燃えたぎる情熱を悪意の冷気でより一層、苛烈に燃え広げさせようとしているかのように。
殺すのならばどう殺そう。暗殺と言っても色々だ。毒を使う。ナイフで刺す。崖から突き落とす。事故に見せかけて殺す。
一番手っ取り早いのは毒だ。貴族であれば毒くらいは簡単に手に入る。贈り物の酒に紛れ込ませるなどをすれば容易い。あるいは食事に毒を混ぜるなどだ。しかしそのためには下準備が多すぎる。火急的速やかにアレクサンダーを始末し、帝国を正しい道へ戻さなくてはならないのに、悠長に時間をかけていては遅いのだ。
「やはり、汚名を覚悟で刺すしかないか」
帝城内の自室、各貴族に一部屋は与えられる豪華な一室で、ジドーは一人自問自答を繰り返した。ジドーには大した腕力はなく、並の貴族と変わらない。剣なんて持った試しもない。しかし自分で言うのもこそばゆい話だったろうが、勇気は持っているつもりだ。それはちょうど一年近く前のあの海原での会談で証明している。
大陸東岸部とグリムファレゴン島の間にあるトーリンの海での秘密会談、あの時ばかりは心の底から行きたくないと思った。それは同行する他二人の貴族達も同じだったことだろう。よりにもよって、どうして小舟の上で、それも海棲生物がいつ飛び出してくるかもわからない海域で会談なんていう呑気なことをするんだ、と自分の主人を呪いたくなった。それでも会談の相手がただの氏令だったらまだ良かったが、よりにもよって、界別の才氏シドと橋渡りの議氏アルヴィースだと聞かされた時は生きた心地がしなかった。
いずれも160年も昔、指輪王アウレンディルの冥都を打ち滅ぼした英傑ではないか。人間種ではないが、その勇名は帝国全土にも轟き、特にシドは絵物語にも登場するほどに有名かつ子供人気が根強い魔法使いだ。そんな伝説的な人物達を前にしてちゃんと発声できているか、とても不安だった。噛まずいられているか、どぎまぎした。
なんとかしてヤシュニナとの会談を終えた時、かつてない疲労感に襲われ、そのまま海に落ちてしまいそうな感じがした。やり遂げたという達成感、恐怖から脱したという安心感がどっと押し寄せ、帝国に着くまでおおよそ四日間、ジドーはベッドの上から立ち上がることができなかった。
あの時と同じ勇気が今、いる。そう決意したジドーは部屋に置いてある棚の中から一本の短剣を取り出した。叙爵の際、皇帝手づから、その玉音を以って下賜される、帝国貴族の証。貴族とは古の時代の戦士の末裔だ。この短剣はその証明、巨悪と戦い、巨悪を討つことはもちろん、自裁のためのものでもある。毒酒をあおり、美しく死ぬも良い。だが、真に帝国貴族たらんと欲するならば戦の中で血汚くなって死ね、という古からの言葉を見事なまで体現した逸品だ。
ナイフを布で隠し、ゆっくりとジドーは部屋を出ようとする。いつでも、どこでも、アレクサンダーを見ればすぐに行動できるように。
その矢先のことだった。不意に玄関からドアをノックする音が聞こえた。曲がりなりにも帝国伯爵であるジドーを尋ねてくる人間がいることは珍しくない。ナイフを衣服の裾にしまい、足早にジドーはドアへと駆け寄り、覗き穴から外を伺った。
ドアの前には鉄仮面を被った男が立っていた。それもただ鉄板を接合した貧相なものではなく、見事なまでの細工が施された、一級の鉄仮面を被った男が立っていた。なんで男とわかるか、と聞かれれば、帝城においてズボンを履く女性は一人もいないからだ。身なりも整っており、佇まいもまた美しい。間違いなく、一級の貴族であると確信したジドーはドアを開き、鉄仮面の男を部屋の中に招き入れた。
「——突然尋ねたにも関わらず、自室へご案内いただき、まことにありがとうございます。エーデンワース伯」
深々と頭を下げるその男から妙な品の良さを感じた。いや、貴族なのだから当然じゃないか、と言われればそれまでだが、どこか、臣下が主人に接するようなそういった類の礼儀正しさを感じさせる立ち振る舞いだった。
「いや、気にすることはない。して、卿の名は?」
「失礼いたしました。無礼の極み、お許しください」
恭しく膝を降り、男はジドーを見上げる形で地べたに直った。
「私の名はラトリゲト・ド・ヴィスコンティ。帝都よりはるか西方にあります、ヴィルアンヌドゥアン辺境伯爵に仕えし、栄誉貴族にございます」
そう名乗った鉄仮面の男が不敵に、仮面の裏で笑みを浮かべたようにジドーは感じた。
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次回は本編外のストーリーです。




