揺れる帝国
帝国歴532年5月8日、その知らせは帝国内に激震を走らせた。
400隻を超える艦隊の壊滅、10万を超える正規軍の喪失、歴史的敗北、90年前の悪夢の再来、武装貴族の離反等々、それまで安泰だった帝国の支配基盤を揺るがしかねない事態の連続にどのような放蕩貴族であろうと瞠目するしかなく、己の足元の危うさを自覚した。彼らは口々に言う。やはり遠征は失敗だったのだ、と。そしてその責任を取らせるべく、非難の矛先を遠征支持派の筆頭であるアレクサンダー・ド・リシリューへ向けることは容易に想像できることだった。
ヤシュニナを含めたグリムファレゴン島への侵攻の失敗のみならず、昨年の末には現皇帝アサムゥルオルトⅪ世の異母姉にあたるリオメイラ・エル・プロヴァンス公爵夫人率いる北伐軍がロサ王国に惜敗している。相次ぐ大敗に帝国の中枢たる貴族達はどよめいていた。そして危うんでいた。このまま、新たな拡大政策を続けて良いものか、ヤシュニナと和平を結ぶべきではないか、と。
「——即言しましょう。ヤシュニナが我が国との間に和平を結ぶことはあり得ません」
帝国議会における審問会、その場でアレクサンダーは不適な笑みを崩さず、そう断言した。彼の言葉に決して少なくはない非難が飛ぶ。兵士の損失をどう考えているのか。このままでは帝国の治安にも不安が及ぶぞ。武装貴族達の離反が恐ろしい。意見は様々、しかし大元をたどればそれはすべて自己保身に走ったたわけ共の戯言だった。
アレクサンダーは彼らの非難を涼しい顔を浮かべて真っ向から否定する。我々には戦う他に道はなく、敵もまたその積もりなのだ、と熱弁を振るった。
「昨年も、いえ、その前からも申し上げている通り、現在の我々は西からの脅威に怯えております。帝国正規軍精強にして堅固なれど、毎年のようにかさむ軍事費の出費は如何として埋め難く、我らはより大きな市場を必要としております。新たな財源を必要としているのです」
「貴公は前回の帝国議会の壇上にて後方の憂いの排除、と言っていたと記憶しているが?」
「私は常に西からの脅威を訴えて参りました。そしてそれを打ち砕くべく、方策を考えてまいりました。前回は後方の憂いの排除、今回は財源の確保であります。なにせ、一部の方々は後方の憂いの排除、という方策に納得いただけなかったようでしたので」
非難轟々、手を変え、品を変えとは言うが、何がなんでも自分の姿勢を貫き通そうとするアレクサンダーの言は変わらない。帝国の守護、国家の繁栄という盾を振り翳し、反対意見を出づらくさせる。これが人間国家相手だったらまた話も変わったのだろうが、亜人種、異形種の蛮族国家となれば話し合いの余地はなく、軍備拡張をいくらでも推し進められる。
そのアレクサンダーの姿勢が我慢ならない、と議場の隅から声が上がった。その男、ジドー・ド・エーデンワースは老齢のものとは思えない張りのある声でアレクサンダーの軍備拡張政策を非難した。
「貴殿のやり方はありし日の人と人との結束、融和の神話を壊すのと同義だ。互いに手を取り合い、巨悪を討つ。この発想がなぜできないのですか!ヤシュニナをはじめとしたグリムファレゴン島の諸勢力と話し合う余地はあったのではないですか?」
「エーデンワース伯、お言葉ですが、言葉があれば話し合えるなどというのは幻想です。畢竟、物事の道理など強者によっていくらでも捻じ曲げられるのですから、意味のない話し合いに価値などありませんよ」
「常に強者たらんと欲すればいずれ器に見合わぬ災禍を抱えることになる。現にここ数年の財政状況だけを見ても、常に国庫は悲鳴をあげている。あれもしたい、これもしたい、などとわがままをごねた結果がこれだとなぜ理解できないのですか。私はこの場で問いたい。このまま、拡張政策を続ければいずれ、帝国は自壊する。それを良しとするか否かを」
ジドーの言葉に議場は静まり返る。彼ら自身も薄々感じていた危うさ、帝国の滅亡という言化にしてはならないタブーを顰蹙を買うことを恐れずに口にするジドーの訴えに同意するかのように頷く人間は多数いた。しかしそれら、亡国を憂う貴族を嘲笑するかのごとく、アレクサンダーはその猫とも狐とも形容できる嫌らしい瞳を議場全体へ向け、ジドーへ糾弾の矛先を向けた。
「なんと、不遜な。まるで帝国が、ああ。ここから先は私の口からはとても言えない。とにもかくにも帝国の存在を激しく侮辱するようなことをなぜにおっしゃるのか。貴方は帝国の永久の繁栄を信じてはおられぬのですか?」
「繁栄とは片腹痛いわ!貴殿のなさるやり方で繁栄など迎えられるわけもない。かつての神話や伝説、西の王者の歴史を振り返れば、過ぎた力が身を滅ぼすのは明らかではないか。それを否定すると言うのですから貴殿はさぞや素晴らしいお考えをお持ちなのでしょう。さもなくば国庫が空になるまで軍備拡張を続ける意味もなし」
「我らにとっての繁栄とは皇室の繁栄のことです。そのためには私も含めたその他大勢が苦しんだとて、易いものでしょう?」
「極論だ。恨みを買ってなんとする。子々孫々、永劫の繁栄を得たくば、そのような蛮行は許されざるものと知れ!力での支配にはいずれ限界が生まれる。強い力は争いの火種となり、真なる敵の存在を曇らせるのだぞ!」
そうしてかつての西の王者の国々は滅び、天上の国は閉ざされた。この世界には悪鬼が跋扈し、事実として西の大長城では今も苛烈な防衛戦争を強いられている。先祖のツケと言うのならば、生まれた時から人類はそのツケを払わされている。
ならばせめて言葉が通じる知的生命体の間だけでもツケの清算をするべきではないのか。なぜに言葉が通じるのに殺し合いをする必要があるのか。ジドーの真摯な訴えは多くの貴族の心に決して小さくはない漣を起こした。しかし、最も話を通すべき人間には全く響かなかった。
「私は、もちろんここにおられるすべての貴族の方々もその忠を皇帝陛下ただ一人に捧げております。ならば、何を厭うことがありましょう。我々はただひたすらに皇室の、皇帝陛下への忠勤に励めばいい。国を良くする、とはつまりはそう言うことなのですから」
それは堂々巡り、あるいは平行線の話し合い。アレクサンダーにとっての良い国とエーデンワースら良識派にとっての良い国とは根本からして定義が違っていた。他国を蹂躙した上の良い国をこそ、至上とするアレクサンダーのやり方をエーデンワースは認められず、より語気を荒げ、彼に食ってかかった。
「その結果が亡国だと言っている。皇室を守るための刃が重くなれば重くなるほどに振るうことすら難しくなると知れ」
「そんなことは起きません。振るえぬ刃などこの世にはありません。ただ、そう振るうために特殊な力が必要な場合はありますが」
「ではやめるつもりはないの、ですな。グリムファレゴン島への侵攻を」
「我らが攻めずとも向こうが攻めてくるでしょう。現在のヤシュニナで最も発言力が強い彼の軍令、埋伏の軍令シオンが」
ヤシュニナにおける強行的な対外姿勢を貫く派閥の長にして、今回の遠征軍を打ち滅ぼした立役者の一人。その名前はそれまでは無名だったが、この一戦で一躍、大陸東岸部中に駆け巡った。
武装貴族すら手懐けた男が敵にいる。その男が帝国侵攻を考えている。それだけで帝国にとっては由々しき事態と言える。
「では、敵はどう攻めてくる?貴公はわかるのか?」
エーデンワースに代わり、別の貴族が発言する。彼の問いにアレクサンダーは「もちろん」と頷き返した。
✳︎




