表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
SoleiU Project  作者: 賀田 希道
第二次ヤシュニナ侵攻
150/310

エヌム

 海原を走る連合艦隊は湧いていた。夜が外套を深く被り、静けさを覚えた頃合いにも関わらず、煌々と照らされた船上には高らかなる狂喜乱舞の色が湧き立ち、勝利を喜ぶ兵士達の歓声が喧々轟々の響きを奏でていた。楽器の音、管楽器や弦楽器、打楽器による見事とはとても言えない、雑で騒がしい、しかし明るくわんぱくな音色が水面を揺らす。


 彼らは、ひとえに勝利を喜んでいた。歴史的な勝利の瞬間に立ち会えたこと、自分達がその立役者になれたこと、様々な理由で彼らは勝利の美酒に酔っていた。苛烈な戦いを経て、掴んだこの上ない会心の勝利、それはいかなる快感に変え難い。


 船での航海を考え、積んでいる酒は保存性だけを考えたジャイアントワームから分泌される体液を発酵、濃縮させた蟲酒(ワルシュ)だけだが、それでも彼らに酔いを与えるには十分すぎた。さして美味くもない酒と、保存食ばかりの宴でさえ、彼らにはかけがえのないご馳走だった。その上、本来であれば王侯貴族に振る舞われるような酒肉が分け与えられたのだから、いっそう宴の席は華やかになったことだろう。


 乾杯に次ぐ、乾杯は兵士達の頬を紅葉させ、ぐでんぐでんに酔っ払った彼らは大いに呑み、大いに吐いた。頭がガンガンに痛くなるまで飲み明かす傍、ハメを外した一部の兵士は品性の著しく欠けた下世話や踊りに興じ、諫めるべき上官もそれに乗って、同じようにふざけまくる。


 常ならば戒めるように行動するシオンもこの時ばかりは空気を読んでか、自室に引きこもってしまっていた。それが一層彼らのおふざけに拍車をかけ、顔も手足も真っ赤にした兵士達はぐでんぐでんに酔っ払い、寝る場所も忘れて大の字になり、いびきをかき、寝小便をだらだらと垂らしたせいで、血臭と腐臭と相まって最悪の悪臭を放っていた。有体に言えば夜も更けた頃には、喝采と讃歌、猥談にまみれていた船上は洗浄が必要な肥溜めと化していた。


 その匂いに当てられたか、あるいは積もりに積もっていたものが一気に込み上げてきたのか、船内の一角でゲロゲロと吐瀉物を海面に吐き出している人物がいた。その人物の脂肉がついた背中をさする細身の男は、はぁ、と盛大にため息を吐いた。


 「父上、お加減はどうでしょうか?」

 「最悪だ。最悪だ!」


 その男、大宝石の王(イスキエリ・エヌム)バヌヌイバは吐瀉物が絡まった顔を息子である道案内の(スイーカバネ・)王子(ウトエヌム)レイザを睨んだかと思えば、再び水面に戻り、吐瀉物を吐き出した。それは一国の王、あるいはこの勝利の立役者とは思えないほどに不甲斐なく、レイザは盛大にため息をついた。


 「おぇ。ああ、少しは収まった」


 「大丈夫ですか、父上。大分痩せたように見えますが?」

 「大丈夫なわけがあるか。最悪だ!」


 壁に背中を預け、へなへなと座り込むバヌヌイバからは(エヌム)としての威厳は感じない。ただの船酔いした、あるいはストレスで腹痛を起こしたデブ男にしか見えない王をレイザは睥睨し、服の内ポケットから消臭用の香水を取り出し、自分とバヌヌイバに吹きかけた。


 「どうして、私が。こんな目に遭わなければならない」


 「戦場に出て、あまつさえ先頭に立ったのは父上の御意志でしょう。まさかあそこまでの蛮勇ぶりを見せるとは思いませんでしたが」


 「私は、怖かったんだ。あの目が、希望に満ち溢れていたあの目が」


 「父上が人の心を読むことがお得意だとは思いませんでした」


 「茶化すな!私の気を知りもしないで、適当なことをぬかしおって」


 苦しそうにバヌヌイバは頭を抑え、そのただでさえ丸い体を一層、丸めうずくまった。それはこの王にとって、どれほど戦場が恐ろしいものだったかを物語っていた。


 戦場では敵の脅威が恐ろしいのは当然として、味方の期待、羨望の眼差しもまた恐ろしい。彼らの期待、尊敬を裏切れないという重圧は自然と闘争本能を掻き立て、やってやるぜ、という意識を芽生えさせる。感情は揺れ、自分の意思とは正反対の行動を取っていることがザラにある。


 レイザもかつて味わったことだ。東方大陸への航路の道程、苦しい航海の中で諦めかけた時、自分に従う幾人もの船員達が見せた、淡く脆い、しかし美しい一条の輝きを見てしまっては何がなんでもやり遂げなければならない、という強迫観念に囚われてしまう。それでやり遂げようと頑張ってしまう。


 「父上、それはこれまでの父上が成した功績ゆえの評価とお思いください。父上は私利私欲のために行ったことかもしれませんが、巡り巡ってそれは家臣達、臣民達へと還元されたのです。貴方は何一つ、間違えなかった。間違っているようで間違えなかった。この勝利は父上の功績と人徳によるものなのです」


 「人が大勢死んだ。あの兵士達も私が去ってすぐに死んだ、と聞く。私には彼らの心などわかるわけもない。何を奴らは望んでいたんだ?私に何をしろ、と?」


 「私は王ではないのでわかりません。ただ、彼らはよりよい未来を幻視したのではないでしょうか?」


 「ばかめ。私は戦場になどもう出たくはない。どれほど豪華盛大な凱旋式で出迎えられようと心が湧くことはない。なぁ、レイザよ。王位を譲る、と言われれば受けてくれるか?」


 普段の傲岸不遜な王の姿はそこにはない。期待に押しつぶされそうな哀れな中年男性だけがそこにいた。彼は弱々しいつぶらな瞳でレイザを仰ぎ見る。しかしレイザは徹頭徹尾、瞑目し続けた。バヌヌイバの意思は理解している。その上で彼は無言を貫いた。


 やがて諦めたようにバヌヌイバはうなだれる。猜疑心が強く傲岸不遜、横暴で傍若無人、膨れ上がった肉塊のような王はさながら垂乳根のようにしなび、以前のような精力的で自己顕示欲の高い彼と同一人物のようには思えなかった。


 戦場が怖かった。期待されることが怖かった。死が怖かった。普段は態度と宝石、豪華な食事と衣装、宮殿とイエスマンばかりの玉座の間で守ってきた彼の自尊心は哀れ、容易く打ち砕かれた。教師(テューター)のいる空間で勉強する時は緊張感を覚えるように、自分の私欲だけを考えていた時と、これからはわけが違うのだ。仮に住まいに戻ってもまたあの「目」を意識してしまう。それが怖くて怖くて仕方がないのだ。


 人に預けたくもなるというものだ。あれだけ固執していた玉座が今になって怖くなったのだ。まるで呪われた石棺のように思えてならないのだ。


 毒に怯え、期待に怯え、失望に怯え、身内に怯え、闘争に怯え、羨望に怯え、結果に怯え、今に怯え、過去に怯え、未来に怯える。まこと、王とは呪われた存在に他ならない。自分の生に、権威に、財貨に執着し、それがなくなることに怯える毎日を過ごさなくてはならないのだから。


 ——仏暁、大宝石の王バヌヌイバはゆっくりと立ち上がった。紛れもない王の顔を取り戻して、彼は王の瞳を滲ませた。


 その日、バヌヌイバは自分が初めて、王になったことを自覚した。彼が51となる年の頃だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ