アンダウルウェルの海戦Ⅲ
「クソ、どこだ!?」
度重なる衝撃によって揺れに揺れる「黄金の鉞」号の中を道案内の王子レイザは走っていた。いつの間にか甲板から姿を消していた実父、宝石の王バヌヌイバを見つけるためだ。王の不在、それが現場の兵士に与える影響は大きい。絶望的な状況でもかろうじて戦えるのは士気の力あってこそだ。
その士気の力の根源が行方不明ともなれば必死にもなる。必死さを悟られないように別のものを探しているふりをしているが、現場の兵士達は自分の動揺をすでに看破しているだろうとレイザは自らの拙さを自嘲した。
レイザはもともと自分の父親が好きではなかった。むしろ嫌っていた。理由は単純で、あんな醜悪な人間を父親と思いたくなかったからだ。
バヌヌイバは欲に溺れた小心者だ。がめつく、自己保身のことしか考えず、いつだって酒と情欲を優先し、国民のことなど何一つ考えてはいない。いつだってバヌヌイバの関心ごとは自分の富が増えることで、それは決して国の富が増えることを意味していない。国民が飢えるとか、苦しむとか考えてもいない彼は自分の蔵の金貨が一枚でも増えることしか考えていないのだ。
そのくせ人一倍びびりだ。権力の座から引きずり下ろされることを嫌っている。ゆえにタチが悪い。危機察知能力が高いと言えば聞こえはいいが、ただのびびり以外の何者でもないが正直なところだ。自分を守るためなら平気で臣下や国民を、自らの子供ですら犠牲にする。
例えばそれはレイザの兄、方位盤の王子ジューロだ。将来有望、次期国王にもっとも相応しいと言われた彼は、自分の地位が脅かされることを嫌ったバヌヌイバの鶴の一声で失脚し、王都ミーガルを見せしめ目的で連れ回された挙句、青銅剣によって斬首された。青銅剣とは刃がついていない剣だ。それでゆっくりと時間をかけて首の骨を粉砕され、首の肉をすりつぶされながら殺されたのだ。
そんなことが何度もあった。諫言した臣下、夜伽を断った貴族の娘、自分が気に食わなかった子供、妻とレイザが知っている限りでも大勢殺した。そうやって権力の座に居座り、自分のために金を集めていた男が逃げ出すだけで兵士の士気に関わるのだから皮肉な話だ。
「どこだ。本当に」
バヌヌイバはあの巨体だ。肥満体の縦にも横にも大きく、自分で数メートル歩くだけで滝のような汗をかく男だ。それが自分達が目を離した隙にどこかへ消えてしまうことにも驚いたが、こうも隠れんぼが上手など聞いていない。切迫している状況下でこうも気合の入った隠れんぼをされるなど冗談ではない。
だんだんと苛立ちが怒りに変わっていく。ままごとで戦争をやっているわけではもちろんなく、命懸けの戦場の只中にあってこうもふざけた行動をとる自分の父親はまるで為政者としてふさわしい。だからといってそれを今、この場で、自分の前で持って来られるとこうも怒りを覚えるものなのか。
「まるで脳が足りない。あれでよく王が務まる」
だんだんと木板を鳴らしすすむレイザはふと足を止め、わずかに思考した後、全速力で船の中央に向かって走り出した。発想の転換というわけではなく、バヌヌイバという人間の愚劣さと醜悪さを考えればそこにいるとしか考えられない場所をレイザはまだ探していなかった。
その部屋の前まで来たレイザは体に巻いていたくくり鞭を手に取ると、勢いよく扉に向かって打ち付けた。衝撃で扉が凹み、同じくらい鞭に埋め込まれた宝石も四散する。本来は武器ではなく、己の功績を顕示するためのものなのだから当然だ。
レイザが扉を破壊しようとしている部屋は王の寝所として設けられたもので、中には大きなベッドと机が置かれている。それほど大きい部屋ではないが、この「黄金の鉞」号の中では最大のものだ。
凹んだ扉を蹴破り、レイザが中に入ると、ひぇーという情けない声がすぐに聞こえた。幾枚ものブランケットを被った情けない肥満体質の大男が部屋の奥で縮んでいる。まるで豚が自分の尾を食もうとしているような光景だ。
「父上!指揮官ともあろう方がどうして戦場から逃げたのですか!」
バヌヌイバは入ってきたのがレイザとわかるや否やブランケットを頭から取り払い、すくりと立ち上がった。もっとも本人はすくりと毅然に振る舞っているように見えて、当のレイザ本人には川辺のスライムが伸縮したようにしか見えなかったが。
「なんだ、レイザか!驚かすな!それよりも早く逃げねばなるまい。この船はもう終わりだ!」
「父上、指揮官であらせられるあなたが真っ先に逃亡するなど認められません!将兵達は今も父上の御命を守るために必死の奮闘を」
「なに、将兵?そんなものの命よりも私の命の方が何十倍も大事なのだということがわからんか、この大馬鹿者め!」
なんてことだろうか。これが一国の王の言葉だろうか。憤慨したくなる気持ちを抑え、レイザはバヌヌイバの説得を試みた。
「どうか指揮所に御戻りください。王の不在のせいで皆、動揺しております。このままではこの戦に勝てません」
「何を言っている!もうこの戦は終わりだ!我が国の負けだ!すぐにでも東方大陸へ逃げる準備をせねばならんのだ!」
まったくどうして、とレイザは怒りを抑えるに余り余って呆れてしまった。意気消沈と言い換えてもいいかもしれない。バヌヌイバという男はどうしてこうも消極的なことに頭が回るのかと内心で舌を巻くレイザは、しかしだからこそ彼を逃すわけにはいかない、とその胴体に手を回した。奥に縮んだ贅肉の塊を引き出すが如く、部屋からバヌヌイバを引っ張り出したレイザはまるで想い人の手を握った貴公子のごとく、船倉に向かって走り出した。その間もバヌヌイバは抵抗するが、若く、真実の大海原を何度となく乗り越えてきたレイザの方が筋肉量ははるかに上だ。
バヌヌイバを引きずるレイザは船倉の扉を開ける。その直後、腐臭と血臭が彼らの鼻腔に直撃した。後ろの方から情けない声が響いた。
——ここは医務室だ。船底に設けられた臭いの行き場もない不衛生な空間。臭いだけではない、音も反響するせいで充填していると言っていい。もっぱらその音とはノコギリの音と悲鳴だ。
この世界、「SoleiU Project」は現実そのものだ。量子空間とはすなわち第二の物質世界に他ならない。情報量が物質世界以上ならば、すでにそこは現実なのだ。怪我をすれば血だって出るし、血の感触も臭いも流れ方すら統一されたものではなく、人によって変わってくる。
ノコギリで負傷した手足を切り落とす場合もそう。包帯に滲む血の具合も、歪なる喘ぎ声も。
医療行為とは一般的にこういうことだ。外科的な、悪くなったところを切除しましょう、という極めて単純な思考。それは兵士の手足を簡単に欠損させ、彼らを苦悶の海へと沈める。たちこめる血臭、騒ぐ患者、麻酔などなく、布を噛ませて痛みに耐えさせるという原始的で、見るもの、する者、される者、誰も彼もを幸せにしない極めて人間的な行為を前にしてバヌヌイバが悲鳴を上げることはレイザにもわかりきっていた。わかった上で彼はバヌヌイバをこの場所に連れてきた。
「なんだ、なんなんだ!レイザ、ここになぜ私を」
「父上、ご覧ください。ここにいる者達はすべて父上を守護せんがために傷ついた者達です。彼らは王自らが自分達に勝利を約束してくれる、と信じて果敢にも巨悪に挑んだのです。この事実を前にしてもまだ逃げるとおっしゃるのですか!」
「なぁ、いや、ならば、ならば!ならば私には、かん」
「関係ない、などと言わせませんよ。父上、貴方は王だ。偉大なる王でしょう?その地位にいる人間が関係がない、と責任を放棄するようなことをおっしゃらないでください!」
レイザに迫られ、狼狽するバヌヌイバ。普段の横柄な態度の王の姿はそこにはなく、縮こまった家畜の豚の姿のみがあった。差し詰めくくり鞭は家畜をしつけるための皮鞭といったところだろうか。
二人の間に流れるのは違いの嫌悪と焦燥が入り混じった独特の空気だ。それはおおよそ余人を寄せ付けない類のもので、彼ら二人の親子仲にはきっとシドでさえ割ってはいることはできないだろう。
「陛下、王陛下!」
ただ例外を、冷静な判断ができていない人間を除いて。
振り向くと左手がズタズタに切り裂かれた兵士が無事な方の手を使って上体を起こそうとし、駆け寄った医療兵らに止められていた。彼の声に反応して、それまで苦悶の声を、苦痛な呻き声と叫び声がこだましていた船底の医務室のあちこちから「陛下、陛下」と声が上がった。
彼らの声は先ほどまでとは打って変わって明るく、しかしそれは振り絞っているようなきらいをレイザに感じさせた。いわゆる空元気という奴だ。それでも一瞬だが、兵士達の心の中から苦しいとかつらいといった負の感情が消え去り、希望が灯った。
王とはそれほどに絶大な存在だ。これがレイザであっても、王子であっても似たようなことは起こったかもしれないが、バヌヌイバ以上の衝撃を兵士達にはもたらさない。
「おお、陛下が。陛下が我らのために慰問に来てくださったぞ!」
「なんと、もったいない。王陛下自らが、我らごときと戦ってくださることすらもったいないことだというのに!」
むせび泣く、大粒の涙をこぼす兵士達は誰もが傷ついている。片腕、片足がないもの、あるいは目や耳を失ったもの、胴体の一部が消えたもの、大きかろうと小さかろうと負傷した兵士達は歓喜の涙を流し、一様に王への感謝と自らの不甲斐なさを恥じた。
一般兵が王にまみえることは滅多にない。王とは彼らが忠誠を尽くす対象ではあるが、その姿を見ることはほとんどない雲の上の存在だ。そんな王が目の前にいる。感涙せぬ兵士がいようはずがなかった。
「このような醜態を晒した我らに格別のご慈悲を賜り、感謝いたします陛下。ですが、どうか。どうかお戻りを。我らごときに構うことなく、どうか、どうか」
「頼みます。勝利を。勝利を!」
「どうか、勝利を掴んでくださいませ!」
とめどなく発せられる嘆願。それは嘘偽りのない彼らの本心なのだろう。この状況で嘘を吐けるのなら兵士よりも諜報員になるべきだ。
「う、うむ!もちろんだとも!諸君らの弁はまさしく正論である。今より、私は前線へ、戻る。勝利を約束しよう。ゆえに諸君らもまた我らの勝利を祈ってくれ」
発せられたバヌヌイバの言葉にレイザは眦を決した。そんな言葉を自分の父親が口にするなど、想像の外だった。誰かに胸ぐらを掴まれるでなく、背中を押される形で戦場に戻る自分の父親が信じられた。
一体、このわずか一瞬の間に何があったのか。人の覚醒とはこうも容易いものなのか。思考とはこうも合理化されるものなのか。
自分の経験したことのない変化が自分の父親に起こっていることにレイザは困惑と同時に恐怖すら覚えた。そのまま船底の医務室を後にしたバヌヌイバは言葉通りに艦橋へと戻っていく。困惑と恐怖が解けぬまま、レイザは同道する。
いざ艦橋に戻ると、どこもかしこもひどい状態だった。やはり帝国艦隊の包囲によって閉じ込められたまま、どうにか左右の船舶を用いて敵艦の突貫を防いではいるが、このままではジリ貧だ。バヌヌイバが戦場に戻ったところでどうにかなる状況ではない。
実力不足を恥じ、下唇を噛むレイザだったが、そんな彼を無視して、バヌヌイバは甲板へ躍り出ると、操舵手達、オールの漕ぎ手達にとんでもない命令を下していた。
「全軍に伝達!今すぐに方陣を解け!そして一路、前に向かって進め!全速全身だ!」
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