船上談笑
ヤシュニナ歴154年、帝国歴532年4月25日、アンダウルウェル海域はいつになく珍しく、穏やかな海模様を見せていた。まるでこれから起きる殺戮の未来を予見したかのように静まり返った水面をなぞり、咥えていたパイプを噴かす帝国海軍大将軍、デュートラスト・ディオネーは端的に言えばやるせない表情を浮かべたまま、ゆっくりと角度を上げ、水平線上を睨め付けた。
はるかな水平線上に見えるのは忌々しいヤシュニナ、ムンゾ、ガラムタの国旗。一定の距離を保ち、こちらを監視している船の数は6隻とない。恐らくは偵察船だろう。船の大きさからもそれがわかる。快速性に秀でていて大型の帝国の軍艦では追いつくことは不可能だ。
いっそ打ち払うことができればどれだけ素晴らしいか。あいにくとこの軍艦に装備されているバリスタでは届かず、水面を揺らすことしかできない。
ハスカット軍港を出港して五日、穏やかなイエニエフ海域を抜け、アンダウルウェル海域に入った。望遠鏡ではるか遠くに軍艦の倍以上の大きさの海棲生物を見た時などは体の芯から恐怖を覚えた。イエニエフ海域ではまず見ることができない圧倒的な外海の脅威、きっと90年前の自分の高祖父も同じような心境だったのだろう、とデュートラストは固唾を吞んだ。
デュートラストの家系は帝国正規軍創立時から要職を占める名家だ。デュートラストの高祖父は90年前のグリムファレゴン島侵攻作戦に参加している。当時の軍令の一人、ローティスと相打ちになった、とデュートラストは聞いている。
結果としてグリムファレゴン島に上陸することはできたが、目的であるヤシュニナ侵攻はできず、西岸部の諸国家を蹂躙するだけにとどまった。つまり侵攻作戦は失敗したのだ。今回はその時の倍の人数を投入している。前回の倍なら倍以上進めるだろう、という安易な考えではないだろうが、しかしてこの大人数をグリムファレゴン島を目指すのは至難の技だ。
「大将軍殿!なぜ、敵船を打ち払わん!あれは敵だ!」
まして海の事情を何も知らない人間を乗せてなど、海底に沈んだ指輪を掬い上げるようなものだ。うんざりした様子でデュートラストは甲板に駆け上がってきた白鎧の少年と黒鎧の男性へ視線を向けた。
「遠すぎます。船を出すだけ無駄ですよ」
「何と弱気な!それでは勝てる戦にも勝てんぞ!」
ユーゴの言葉にデュートラストは舌打ちをこぼしそうになるが、自制した。武装貴族とはいえ貴族は貴族だ。一世貴族である大将軍は逆らえない。逆らえないから、説得するしかない。
「今、船を出したとしても追いつけません。そもそも速力が違いますから」
「拿捕すれば敵方の作戦がわかるかもしれないのにか!見過ごすと?」
「駄馬が駿馬に追いつくことができないのと同じことです。馬を駆るのにそのようなことも理解できませんか?」
「ユーゴ、それくらいにしろ。大将軍殿の言は正しい。こと海に関しては我々は素人だ。寛大な配慮を見せてくれた大将軍殿にこれ以上の迷惑をかけるのは礼節に欠けるのではないか?」
頃合いを見計らってか、隣からアスランが割って入った。ユーゴが恐ろしい表情を浮かべて下がると、代わってアスランが前に出た。
「大将軍殿、この分だと敵船との邂逅はいつになる?」
「早ければ本日中には」
「ではいざ敵船と邂逅した時、我々はどうすればいい?降伏の使者でも送るか?」
「形式上はそうするでしょうな。まぁ、連中が飲むとは思えませんが」
飲んでもらっては困る、といった様子でアスランは冷めた表情を浮かべた。まるで戦を望んでいるかのような口振り、いや事実として武装貴族は全員、戦を望んでいるに違いない。彼らは長い間放逐され続けた。そして今ようやく勲功を立てる機会を得たのだ。
武装貴族は帝国支配以前のオルト地方、アスカラ地方の王侯貴族達、その中でもいち早く帝国への服従を決断した者たちだ。彼らには今でもかつての王侯貴族だったころの誇りがある。錆びついて刃こぼれした他人にとっては何の価値もないものであっても、彼らは大事にしている。それが例えどれだけ他者の嘲笑を買ったとしても、彼らは大事にしている。
「ギレム伯爵。海戦になった際は鎧を脱いでもらうことになるやもしれません。その時は」
「ああ、承知しているさ、大将軍殿。私の方から騎士達に伝えよう。彼らが鎧を脱ぐかは私にもわからんがな」
「死ぬかもしれないのにですか?ここは貴族の方々が避暑地として使う砂浜ではないのですよ?」
「誇りなくして我ら武装貴族は存在できん。鎧と馬、そして陛下より賜りし武威の象徴である剣槍を捨て去るは我らの死と同じことだ。すでに騎馬を置いてきた我らにこの上、鎧まで捨てよ、という。ひどい話だな」
どこがだよ、とアスランやユーゴに見えないようにデュートラストは渋面を浮かべた。生き残るよりも死を選ぶなんてただの自殺志願者ではないか。帝国正規軍の将兵は確かに全員が全員、皇帝のために命を賭して戦う覚悟ができているが、それはあくまで命令されればというだけで、自ら進んで能動的に命を差し出すようなことはしない。
しかし武装貴族達はどうだ?まるでヒロイズムに酔っているかのように自ら進んで死地に赴いている節がある。海の事情を知らないだけではなく、死生観にこうも隔たりがあるとなると厄介だ。今回の遠征において、武装貴族はデュートラストの指揮下に入ることが約束されているが、ちゃんと命令を聞くかどうかも怪しいところだ。
「ディオネー殿。あの連中ははっきり言って邪魔にしかなりませんよ。昨日も船酔いをしたって言って船医のところに数名運ばれていったんですから」
デュートラストの腹心であるオース・カルバトラの文句が脳裏を巡る。同じ貴族出身であるオースでも、目に余る雑な人間達が同乗していることが我慢ならないらしく、何度となく酒樽を彼は叩いていた。
だがオースの言う通りだ。はっきり言ってアスランはまだマシだ。彼の連れであるユーゴなどはひどいものだ。航海を始めて五日以上経つが、初日から兵士達と問題を起こしていた。
「ギレム伯爵、できれば自制していただきたい」
騎士達の扱いについても、彼らの「誇り」とやらも。
「できれば会敵するまでは」
「——ご歓談中のところ、失礼します」
なんだ、と言葉を打ち切り、デュートラストは甲板に登ってきた兵士に意識を向けた。ここで兵士が甲板に駆け登ってくる理由なんて一つしかない。
「先頭の船より光信号を受けました。ヤシュニナ、ガラムタの国旗を掲げる大型船を見ゆ。接近の気配あり、と」
「ついにか」
「ではいよいよ?」
「ええ、ただの偵察ではないでしょう。——全兵士に伝達しろ、これより臨戦体制に入る、と。バリスタに矢をつがえろ!敵船の攻撃に警戒しろ!」
忙しそうに降りていく伝令の兵士。浮き足立って降りていく武装貴族の二人。唯一その場に残されたデュートラストは空模様を眺めながら、次いで水面に意識を落とした。
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