バヌヌイバの不満
なんでこんなことになったんだろう、と宝石の王バヌヌイバは蒼穹を舞う二羽の白い鳥を仰ぎ見ていた。うろんげなその表情には常日頃のふくよかさもなく、陰毛よりも毛深い髭は波打ち際に漂流したゴミのように潮風によって力なく揺れていた。
船の甲板上に設けられた王専用の玉座、船橋に程近い場所に設けられたそれにどっしりと腰をすえるバヌヌイバの周りには本来であれば海上では望めないような温かいスープや新鮮な肉類、ワインの類が乗せられた大小の机が置かれている。しかし肝心の王本人がその豚のような恰幅の良い外見に反して、一切、卓上の食事はおろかワインの一滴にすら手を付けていなかった。
それほどにバヌヌイバの脳内は今の状況に困惑していた。
今の状況、つまりガラムタ王国最大の港、ゲレルタを出航した50隻を超える艦船を連れてヤシュニナ、ムンゾの両国との合流地点に向かっているのが自分であるという状況を理解しきれていなかった。まして自分がこれからグリムファレゴン島の全海軍を統括する総大将など、彼の飽食放蕩三昧の半生からは想像できない重責だった。
大会議の日、埋伏の軍令シオンに同調する氏令達、他の四邦国の王達の支持によって強引に、反論の機会すら与えられずにバヌヌイバはヤシュニナ、ムンゾ、ガラムタの三国による連合艦隊の総大将にさせられた。いやなんの冗談だよ、という話だ。自分の息子、道案内の王子レイザが余計な口出しをしたばかりに白羽の矢が立つなどバヌヌイバの予想の外だ。
しかも何の因果かそのレイザもまたバヌヌイバの座乗船である「黄金の鉞」号に同乗している。バヌヌイバの名代として各船の船長達と密に連絡を取り合っているため、この場にはいないことがせめてもの幸いだ。もしいたらあの親不孝物をミンチにしてやる、とバヌヌイバは決意していた。父親というだけでなく、王という存在をないがしろにして他国と内通するなど言語道断、許されざる罪だ。まだレイザをバヌヌイバが放置しているのは単純に彼がヤシュニナやムンゾと太いつながりを持っているからに過ぎず、それが今後のガラムタの立場を良くするという理性的判断にすぎなかった。
仮にもバヌヌイバはガラムタの国王だ。それが無能であったり、感情の赴くままに行動する反知性的な人間であれば、今日までのガラムタの栄華はない。東方航路の使用による関税の問題をクリアするため、エイギルや東海岸三カ国と個別に貿易をすることを成功させ、ガラムタに富を集めたその功績はまさしく、自国民のみならず他の四邦国の国民すらも称賛する偉業だ。
だから自分がもっとも実績を積んでいる、というシオンの言は理解できる。客観的に見てそうなのだ。現在のムンゾとミュネルの各王は若輩、カイルノートの王はその秘密主義的側面のせいで信用がない。だからもし王を総大将に推挙するなら間違いなく自分であろう、という自負もある。しかしいざ任されるとなれば、自分でもしつこいと思うくらいには寝耳に水、晴天の霹靂だ。
船が予定通り進んでしばらくすると、はるか水平線の向こうに見覚えのある帆船が見えた。メインマストに翻っている旗は二旗。一つはヤシュニナの国旗。もう一つは軍令が乗っていることを示す軍旗だ。先頭を行くその船にこの二旗が見えた、ということはあの船に軍令、恐らくは今回の戦いで先陣を務めることになっている煙興しの軍令イルカイが乗っているのだろう。
ヤシュニナの国旗を翻す船舶はいずれも衝角に大型の砕氷用の艤装を装備している。そのせいで全体的に重心が前に傾いている、いわゆるトップへヴィーな船舶となっているが、その分だけ追い風を受けると速度を上げ、勢いにのったまま体当たりをすることができる。高速で移動する数十トンの鉄塊に体当たりをされればどんな船だって一発で船底に穴が空き、浸水防止用の鉄板すら意味をなさない。
それがおよそ150隻。船種の違い、大小の違いはあるが、いずれも共通して砕氷用の衝角を艤装として装備している。主な船種は偵察用の軽級、無数の重バリスタを装備した遠距離支援の弩級、近接戦に特化し、敵船侵入用の大橋を格納している主力船の重級の三種だが、無数の船の間にあってただ一隻、一際異様な大きさの船種が見えた。
「なんだ、あれは?」
ガラムタの誇る最大の船種「黄金の鉞」号ですら重級と同じ大きさだと言うのに、その船は軽く1.5倍の全長を誇っていた。他の船の要素をすべて盛り込んだような、無数のバリスタと大橋を装備したその船は、巨体に似合わない速度で周りの船とほとんど変わらない速さで海の上を走っていた。
瞠目するバヌヌイバを尻目に両勢力は邂逅と同時に船首をL字に回頭させ、一路、西南西の方角へ進み始めた。よく見るとヤシュニナ艦隊の船尾にはムンゾ王国の艦隊が見える。数はガラムタと変わらないくらいだろうか。
不憫だな、とその艦隊を横目で見ながらバヌヌイバは同情を禁じ得なかった。昨年の6月に起きた内乱とヤシュニナとの戦争によってムンゾ王国は大打撃を受けた。親ヤシュニナ政策を実行するため、かつてのシースラッケン体制下で重役に就いていた主だった人間は粛清され、その魔の手は軍属にでま及んだ。それらはすべて新王であるエッダの手によって断行されたわけだが、過度に偏重した親ヤシュニナ政策はその背後にいるだろうヤシュニナの上層部への叛意へとつながることは想像に難くない。
結果、ほどなくして反乱が起こった。エッダの政策に反意を示した旧王派の将軍を旗頭にした一万人規模の反乱だ。その反乱はわずか四日でヤシュニナとムンゾの連合軍によって鎮圧されたが、それによってさらにムンゾは弱体化した。
現在のムンゾの兵士の中でまともな軍団技巧が使える部隊がいったいいくつあるだろうか。海戦が満足にできるほど腕の立つ人間が何人いるだろうか。できる人間は人材確保の観点から多くが昇進してしまい、今のムンゾには指揮経験に乏しい指揮官しかいない。
そういった事情からムンゾ王国は後方支援に回されている。主な役割は怪我人の収容や大破した船の曳航などだ。あとは矢の補充もあるだろう。
「まったく、どうしてこうなった?」
バヌヌイバが王に即位し、ガラムタに富がもたらされるようになった時まで、ヤシュニナとは良好な関係が築けていた。今のような強権的な姿勢を示さず、持ちつ持たれつの関係だった。
それが一転したのは大体10年前からだ。それまでヤシュニナを主導していた界別の才氏シドが一線を退き、代わりに強硬派である埋伏の軍令シオンが台頭してきた頃のことだ。突如として頭角を表した彼は四邦国、エイギルに対しても挑戦的な姿勢を見せ、状況の悪化を招いた。それに義憤を募らせていたシースラッケンが結果として帝国と手を組み、ヤシュニナが介入する隙を見せてしまい、現在の状況に至る。
「ただ贅沢は許されんか」
王である以上、停滞は許されない。ヤシュニナが東岸部三国と条約を結んだ以上、従来のガラムタの優位性は失われた。これからシオンが主導するヤシュニナがあるのなら、それに乗るか争うかの強制2択のいずれかを選ばなくてはいけない。大会議の場でシオンが語った彼の展望が事実であるなら尚更だ。
「偉大なる王バヌヌイバ、ヤシュニナ側より手旗信号で、作戦会議がしたい、と通達されました」
彼の背後から、その思考を中断する声が聞こえてきた。贅肉まみれの首をバヌヌイバが後ろへ向かせようとするとブチチと肌が鳴った。臣下の報告に明らかな不快感を表しながら、バヌヌイバはのそりのそりと動き出した。
「ああ、わかった。では行くか」
立て掛けていた王笏を手に取り、バヌヌイバは甲板を叩く。すると彼の周りに侍っていた臣下達がバヌヌイバの座っている椅子、否神輿を担ぎ、危なっかしい足取りで船室へと降りていった。




