深海の民
コポコポと泡が水面に向かって浮き上がっていく音が聞こえた。水底が揺れ動く以外に一切の波動を感じず、光も届かない深海。深い深い海の中、音すらもまばらになるほど深い海底には魚の影もない。
少女は、白い陶器のような肢体の少女は闇の中で目を覚ます。一糸まとわぬ彼女は深い海の底、彼女の同胞以外の誰もが存在しないはるかな水底で目を覚ました。誰も声を発さず、ただひたすらに少女を見つめる。
彼女は全身が白い陶器のようだった。すらりと細い手足、艶かしい上半身と引き締まった下半身、それはさながらガラテアのようだった。ただガラテアと異なるのは誰も彼も、彼女を求めこそすれ愛するものはいないことだ。彼女にとってのピュグマリオンは未来永劫現れることはない。現れることはないのだ。
どれほどに美しかろうと、その蒼い瞳の前に映るのは黒色の群勢ただ一つ。薄紅色の唇を撫でるのはいつだって自分の指先で、血の通っていない肌に触れるのは自分の掌だけ。産み落とされた目的すらも失って、彼女は眠りにつくこともできた。事実、泡の音が聞こえるまで、彼女は眠っていた。無数の配下に囲まれて、永劫の眠りに堕ちていくはずだった。
しかし、予期せぬ泡の音が彼女を目覚めさせてしまった。向こう永遠に眠っていたはずの彼女の青い瞳が開かれた時、彼女を囲んでいた黒色の群勢は海鳴りのような咆哮を上げた。
身を起こし、周囲を見ても、やはり映るのは黒色の群勢だ。どこまで行っても不定形、不浄、不明な唾棄すべき悪鬼達、そして、定形を得てもなおも不浄、不明、不知の人型の化け物達は近づくべきか、遠のくべきかを逡巡しているように見える。
知性を必要としない彼らが知性があるような行動をしているのは滑稽かもしれないが、あいにくと彼女は笑うことはできなかった。笑う機能を持ち合わせていたとしても笑えなかった。誰が転ぶ小姓を見て、笑うことができるのか。ああ変わらないな、と落胆する方が先なのだから。
やがて、人型の化け物の一人、大熊の被り物を付けた個体が前へと進み、彼女への歩数四歩のところで膝を曲げた。服従の姿勢を取るその個体は彼女を囲む黒い群勢の中で最も長期間にわたって、存在し続けてきた個体だ。もっとも、根源である彼女からすればどれもこれも五十歩百歩の違いしかないのだが。
「——お目覚めになり、ましたこと、この上なく喜ばしく思い、臣を初めあます例外なく、皆感にいるに」
「そう、変わらない。お前達は本当に変わらない」
大熊面の言葉を遮り、彼女は改めて黒色の群勢を代わる代わる一瞥する。その過程で気づいたことがあったのか、再び大熊面に視線を戻した。
「35人。サーペントは?」
「つい、先刻」
「ああ、そう」
ああそう、と彼女は繰り返す。そうか、そうか、と何度となく反芻する。
「倒したのは、剣聖?」
「おっしゃる通りでございます。忌々しくも」
「お黙り。そう、剣聖がね」
水面を仰ぐ彼女は微笑を浮かべた。自分の配下が死んだ、殺された、という報告を受けておきながら彼女に悲しみはなかった。ただ飽くなき興味が、関心が、決して向けられてはいけない好奇心が水面へ、そのさらに上へと向けられた。
「いいじゃない。いいじゃないの。剣聖までもが表舞台に出てきた。正直、指輪王軍や冥王軍、あとは、そうそう『神の軍勢(笑)』とかじゃ物足りなかったところだもの。侵略戦争、始めましょうか。興味と実利、あとは暇つぶしを兼ねてね」
それは深海の女王の宣戦布告だ。指輪王や冥王のような邪悪でもなく、神の軍勢のような義務感でもない。無邪気な子供の好奇心が暴露された。
低身低頭の姿勢となるのは36改め35体の「聴皇者」達。うごめく無数の黒い群勢は静かに水面を望む。千年後か、二千年後か、はたまた一万年後か。いずれにせよ、いつの日か世界を手にするのは我々だ、とそれぞれの思惑はどうあれ、深海に集まった一同の気持ちは一致していた。
✳︎
ついにアスハンドラ剣定国編が終了しました!
ここからは幕間を一つ挟んで、いよいよ対帝国戦に舵を切っていきます。
ちなみに今回登場したセルファの親玉とか上位陣とかは今後一切登場しないと思います。基本、この人達は海から攻めてくるし、逆に討伐しようとすれば深海にもぐらないとなので、書くのが面倒くさいからです。それでなくても本拠地に殴り込むと本来の力が発揮できるレイドボス36体を相手にしなくてはならない、とかいうアホ仕様なので、マジでクソゲー。
「SoleiU Project」がまだゲームだった頃は最難関クエストとして設定されていましたが、結局誰にも発見されませんでした。←そもそも海=移動がめんどくさいフィールドというイメージがプレイヤーに定着していたため、見落とされたクエストやアイテムは結構多い。




