撤退
「よもや、本当にこのような天変地異を、人の手で起こせる、というのか?」
戦いが行われた地帯から少し離れた場所、ヘルムゴートの悲痛な声に誰もが頷いた。彼らの目の前には無惨にも崩れ去った丘陵地帯が見える。
巨大な大穴を中心にして、半径数十キロにわたって巨大な亀裂が走り、崩落は未だに止まることはない。さながらパイを木槌で破壊したかのように、丘陵にヒビが入ったかと思えば、さながら水に浸けてふやけたビスケットのように丘陵そのものが溶け出した。
一瞬にして帝国軍五万人を壊滅させたこの破壊が天災であったというのならばヘルムゴートも、彼に続く多くの臣下も思いがけない幸運に嬉々の表情を浮かべるだろう。だがこれは人災だ。紛れもなく、人の手によって起こされた破壊行為だ。それまでロサ公国を支えていた地盤をあっさりと破壊されたこと、それが自分達となんら変わらない人の手によって行われたことにヘルムゴートはもちろん、その場に居合わせたすべてのロサ公国の人間が口元を一文字に結び、戦慄した。
ロサ公国の人間にとって人とは決して強い存在ではない。山を切り崩す力も、川の流れを変えることもできはしない。その力は山に穴を開けることはできても、決して破壊するためには振るわれない。「大地」とは彼らにとって恵みを与えてくれる存在であると同時に冬の試練を与える存在だからだ。ロサ公国に根ざす「大地信仰」こそがその証拠だ。帝国が剣と槍を崇拝するように、ロサ公国は大地そのものを信仰の対象とする。それは御山信仰などとほとんどの点で変わらない。ただ唯一違うことがあるとすれば、御山信仰が山を絶対視するのに対し、大地信仰は大地を絶対視するが、それは普遍的存在である、という前提があるからだ。
大地は神聖不可侵ではなく、絶対普遍であるという前提。公国の誰もがシドの持ち込んだ「黒鉄針」について反論しなかった理由はまさにそれだ。せいぜいが穴空け機くらいにしか思っていなかった、成功するとは思っていなかった、と色々あるだろうが、総括すると全員が全員、シドの言った通りになるとは考えていなかったのだ。
その当の本人は現在、後方の陣地でぐっすりと寝ている。決して肉体疲労はない、ということだったが、頭脳労働という点で疲れたのだろう、とヘルムゴートをはじめとして多くの人間は思っていた。だが、目の前の惨状を目にしてしまうと別の考えが浮かんできてしまう。単に緊張の糸が切れただけ、やることが終わったから休んでいるのではないか、と。
シドの胸中は誰にもわからない。ただ唯一言えることは、シドが持ち込んだ重機は簡単に兵器になりうる可能性を持っているということだ。その事実を受け止めつつ、ロサ公国軍はエルランドの指示に従って、大きく大穴を迂回しつつ、帝国軍の本陣に進軍を始めた。
本陣に迫ると申し訳程度の鐘の音が鳴ったが、100メートルまで迫っても帝国軍は方陣を組んで出てくる素振りを見せなかった。さらに60メートルと弓矢の射程ギリギリまで迫っても、矢の一本たりとも射ってこない。
訝しんだエルランドは兵士の足を止めさせ、防御陣形を取らせた。彼らの目の前には4メートルほどの柵がある。しかしそれは押せばすぐ倒れそうな、頼りない木の棒を立てただけの代物だ。地響きの影響か、一部が倒れかけている。その背後からは確かに人の気配を感じる。何人もの人間が動いている。
「火矢の用意をしてくれば良かったな。連中の出鼻をくじけただろうに」
「持ってきましょうか?」
「いや、いい。どのみち帝国軍に組織的な抵抗はできん。半数以上を失ったとなればな」
前列に槍兵を、後列に弓兵を配置し、エルランドは前列の槍兵らに鬨の声を上げるように命令を下す。彼らが鬨の声をあげると、間髪入れずに弓兵による射撃を始めさせた。現在のロサ公国の戦力と帝国の戦力を考えれば直接戦闘はエルランドも避けたかった。
撤退か居座りかを逡巡している帝国軍の背中を押す形でエルランドは槍兵に鬨の声を上げさせた。まだロサ公国の兵力は健在であることを示すために。
「逆にここに攻め込まれれば一撃でこっちが持っていかれる。そこをあの魔女が見逃すわけがない。だが、そうしない」
自分の部下には決して見せられない苦笑いを浮かべながら、しかしエルランドは確信を抱いていた。彼の言う魔女、リオメイラがここで軍を動かすことはない。
現在の帝国軍の規模三万弱に対してロサ公国は一万弱と数の上では不利だ。練度も帝国軍の方が高く、何よりもロサ公国自慢の鉄騎兵軍団を事実上壊滅させた猟兵という切り札も帝国軍は持っている。しかし、それはロサ公国軍を倒せる戦力というだけで、ロサ公国の領土を併呑できる戦力ではない。
ロサ公国の冬は寒い。バケツいっぱいの水が外気に触れた瞬間凍りつくような日も稀にだがある。厳しい気候が影響して作物が多く取れないにも関わらず、冬の間は保存食でやりくりするため、国民の蓄えはいつだって少量だ。もしそんな中で食料の徴発などを帝国軍がしようものならたちまち暴動に発展する。
レベルという壁はいかんともしがたいが、鋤や鍬でもあたりどころが悪ければ普通に兵士は死ぬ。何より国民の数の方が圧倒的に多いのだ。暴動を抑えるには今、リオメイラの手元にある三万弱のおびえた兵士では不可能に近い。
アングリーパが居座っているボラー連峰を通って、安全に物資を移送する方法がない中、三万弱の兵士を駐留させるリスクなどどんな指揮官だって取るわけがない。いや、取れないという言い方が正解に近い。もっとも、相手が予想以上の阿呆か自己中心的な人間で、自分の快楽を満たすことができればいい、という指揮官だったのならばエルランドの布陣は全く意味をなさない。それだけがエルランドにとっての気がかりだった。
——しかし彼の気がかりは杞憂に終わった。
まるで何事もなかったかのように、喧騒もなく帝国軍の旗が彼らの視界から遠ざかっていった。
その日、12月30日のこと、ロサ公国は東岸部の歴史上初めてとなる、三度にわたって帝国軍の侵略を退けた国家となった。
✳︎
今話でロサ公国編は終了です。幕間を挟んで、次回からはアスハンドラ剣定国 vs CELFAの戦争になります。ぶっちゃけ本筋とはあんまり関係ありませんが、四章と関わってくる内容が含まれているので、事前知識と思ってください。四章は過去編です。
十九時くらいに幕間を投稿します。




