駄弁・多弁・雄弁
翌日、太陽が頭上へ昇っても帝国軍は正面の丘陵を動こうとはしなかった。
まるで寝静まったかのように帝国軍は動かず、しかし彼らの怒号が、戦の雄叫びだけが丘陵一帯にこだましていた。それだけ。そう、まさにそれだけだ。軍隊が動く気配はない。それを指して寝静まった、と表現するのは大群衆が収容されたコロシアムをそう表現するのと同じことなので、表現としては適切ではなかったかもしれない。
しかしまるっきり動く人間がいないのだから寝静まっている、と表現する他ない。立ち竦んでいるわけでもなく、棒立ちであるわけでもなく、叫声を挙げる彼らをどう表現すればいい?
ただの叫び声ではない。彼の叫び声は大地を震撼させる。雪原上の軽い雪がわっと跳ね上がり、真白の粉塵が巻き上がる数万人の大絶叫。軍団技巧、叫天激と呼ばれるその怒号は技巧、咆狼を大勢でやることと大差はない。
ゲームなどでいわゆるタンク職と呼ばれるモンスターの攻撃を受ける役割のプレイヤーが使うターゲット集中効果、それに加えてわずかに敵対している相手をひるませる効果の二つが、叫天激に秘められた能力だ。後者は各人の精神攻撃耐性で抵抗できるが、前者はターゲット集中時間の差がレベル差で生まれるが、抵抗して無効化することはできない。極論、レベル1の人間100人が行った叫天激でも対策をしていなければレベル150の人間を強制的に振り向かせることができる。
「やかましい。煩わしいことこの上ない」
不機嫌そうな声が上がった。片眉を上げてシドが声のした方を見ると、上座近くに座っていたエルランド・オーリーンが片膝を机に立てて、舌打ちをしていた。苛立たしげに空いている方の手の人差し指をダンダンと高速で机を叩いている。
朝、大体9時ごろから今に至るまでのかなり長い時間、鼓膜をつん裂くような大歓声を聞かされればそういった反応をしてもおかしくはない。彼だけではなく、テントの中にいる人間は全員が「耳栓よこせ」と言いたげな表情で忌々しげにテントの入り口を睨んでいた。
シドの魔法で相手の技巧の効果を打ち消しているため、外にいる兵士達のように仕事の都度に意識を帝国軍に向けられることはないが、大歓声が打ち消せるわけではない。やろうと思えば遮音することはできるが、それでは味方の声も打ち消してしまうため、敢えてしていない。もっとも声の大きさでどうしても意識が向けられてしまうので、技巧の効果を打ち消すことの意味は薄いのだが。
「一体いつまで叫んでいるんだ、あいつらは!?もう四時間だぞ?喉を痛めないのか?」
「無駄に警戒して攻めてこないのはいいにしてもこれではこっちの気も滅入る!あやつらの大口に矢を打ち込んでやりたい気分だ!」
やいのやいのとジェス・タラン、ヴェルド・バンデベルの両将軍が呻いた。久方ぶりの穏やかな朝を迎えたと思った矢先の大歓声だっただけに二人の怒気のレベルはエルランドのそれをはるかに凌駕し、固い干し肉を一瞬で粉にするほどだ。シドのように顎が強い人間すら噛み切るのに苦労する干し肉を一瞬で噛みちぎる瞬間を見た時、彼の背筋を悪寒が走った。
かく言うシド、丘陵の地図を広げて思索に耽る傍らで苛立っている将軍三人の様子を見守っているシドはどうかと聞かれれば彼も大歓声を苛立たしく思っていた。魔法で対策はできるが、それはあくまでも技巧の効果に限り、生じる馬鹿みたいな大声を防げるものではない。しかも彼が使っている魔法は継続的に魔力が減少するタイプの燃費が悪いタイプだ。
シドをはじめとした魔法使いにとって魔力は生命線だ。極力無駄にしたくはない。しかし強制的に意識を逸らさせる状態は看過できない。叫天激は最長で5分間、相手の意識を向けさせることができる。効果時間は使用者らの平均レベルと対象のレベル差に開きがあればあるほど短くなっていく。例えばシドであれば1秒だけ意識が逸される。そしてこの場合、最長の5分間から1秒を引かれた4分59秒の間、技巧の効果を受けなくなる。
叫天激は一度使うと5分間、発声状態になる。発声状態は一種の状態異常、毒状態や麻痺状態と同じようなもので、一定の時間、声を出し続けている状態になってしまう。発声状態中は口を閉じることはできず、一定の言葉以外に発することもままならない。そしてこの5分間を終えると今度は声帯不良状態という別の状態異常が発生し、声が出せなくなるのだ。
そのような副作用が使用者にある軍団技巧が絶えず使われているということは、いくつかのグループに分かれてローテーションを組んでいるんだろうな、とシドは推測した。例えば五千人ごとのグループに分けて代わる代わる軍団技巧を使っていれば、ずっと強制ターゲット集中効果とひるみ効果を使い続けることができる。このような無限ループは帝国軍のような大規模戦力でなければ不可能だ。指揮官であるリオメイラは数の強みをよく理解している。
「プロヴァンス公の狙いは恐らく別にあるでしょうね。あの大歓声は我々の目を逸らすための仕込みでしょう」
「それはそうだろう。問題は何を目的としているかだ。こうもやかましくされては調査をしようにも気が散る」
「すでに私の部下が耳栓付きで丘陵周辺を調査しています。吉報を待ちましょう」
「耳栓でどうにかなるものなのですか?」
ヴェルドの問いにシドは肩をすくめた。
「完全遮音性の耳栓なら歓声が聞こえないので精神攻撃は受けませんよ。ま、代償として手話になりますが」
「それじゃぁ伝達の齟齬も生まれるじゃないですか!」
「ええ。ですから簡素な伝達手段に限定しています。あそこに、集団発見、所属不明、とかね」
ヴェルドに迫られたシドはわかりやすい手の動きで例を提示する。指差し、手合わせ、考え込むポーズの3テンポで伝えられるどこかふざけているようにも見える手話、しかし直感で理解しやすい。単純な記号を合わせただけで、文字を象っているわけではないから、憶えるのは簡単だ。
ヴェルドは肩をすくめ、ジェスは頷き、エルランドは顎髭をさすった。改めて三人に視線をシドは向け、その人となりと整理していく。
一番長く接しているエルランドは良くも悪くも清濁併せ呑むタイプだ。やや疑り深いところがあって、腹芸もできる。ヴェルドはそれをさらに顕著にしたような人間だ。とにかく疑り深い。自分の目で見たこと以外は信じないタイプだ。ジェスはこの中でも最高齢ということもあって思慮深い。懐も深く、一度や二度の失敗で他人を叱責するタイプではない。
なるほど、とシドは改めて三人の気質を整理し、王城にて無謀な籠城論が三人の将軍達からではなく、貴族達から出たのかを理解した。この場にいる三人の将軍は血気盛んというわけではない。三人の気質はほぼほぼ違うが、共通して短慮ではない。気が長い、と言えば聞こえはいいが、即断即決ができるタイプではないのだ。もっと言えば対案ができるまでは口を開かない人間だ。
籠城の無為、無策振りは三人とも理解していたのだろうが、それを否定することはできても、別の案はない。別の案がないならば口を開かない。
「もっと喋ればいいのに」
「何か言ったか?」
「いえ、何も。あー早く帰ってこないかなー、カルバリー」
誤魔化す気などさらさらない感情の吐露をシドがしているその最中、ふとヘルムゴートが顔を上げた。それまで黙っていた公王が咳払いをしたことでその場でだべっていた一同の視線が彼に向いた。
「才氏シド、一つ聞きたい。このまま帝国軍が動かなかった場合はどうする?この丘陵にとどまるのか?」
ヘルムゴートの問いに一同の視線は彼からシドへと戻った。質問を受けたシドはもの憂げな表情で人差し指で人中の付近をさすった。
昨日の夜は「待ち」に徹すると決断したが、今になって思えばそれは危ういかもしれない。こちらが何もせずにいればリオメイラはこちらに攻める手段がないと察し、持久戦に徹するようになるかもしれない。占領地の統制という課題はあるかもしれないが、その程度は帝国軍が一万人もいれば事足りる。
「最悪の場合、危ない賭けをしなくてはならなくなります。例えば、少数精鋭による帝国軍本陣の奇襲などですね。成功の可能性は低いでしょうが」
「才氏シドはプロヴァンス公よりも先に帝国正規軍が暴発する、と言っていましたな。根拠はおありで?」
ヴェルドの問いに頷きつつ、シドは片目を閉じた。
「難しい質問です。指揮系統という意味で将校階級まではプロヴァンス公が掌握しているでしょうが、その下までは厳しいでしょうね。猟兵ならばいざ知らず、帝国正規兵の忠誠は皇帝にも捧げられていますから」
「あくまでも皇族に、ではなく皇帝に、か。帝国という中央集権国家ならではだな」
「ですな、オーリーン将軍。我々の忠は王族の方々へ向いておりますが、彼らはそうではない。帝国という強者を崇め奉る国家ならではの気風と言えますな」
エルランドの言葉にジェスが頷いた。そうやってヘルムゴートを含めた五人はだべっている傍ら、丘陵を離れているカルバリー達が吉報を持ち帰ることを心待ちにしていた。
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